数日前の体験です。
今年に入ってから自我(エゴ)から離れるためのワークをしています。
(エゴをなくすことはできないけど、エゴと離れている状態は体験できる、と私は理解してます)
そのワークの影響なのか、特にその日はどんどん気分が落ちていきました。
何をしても気分を変えることができずに、ひたすら落ちていく。
ネガティブの塊になってました。
家族に当たり散らし、気分を変えようとかけてくれる言葉の数々に八つ当たりをして、口喧嘩になり、最後はひねくれ&いじけまくりました。
この気分をなんとかするために体を動かしてみようかと、車を40分ほど走らせ壁打ちできるテニスコートに行ってみたけど、コートに着いたら財布を持っていなかった!(冷汗)。
コートの申し込みができないどころか、無免許運転(免許は財布の中)なのでビクビクしながら法定速度遵守にて家に引き返しました….
夜になっても、落ち込み度合いは全く変わらず、胸のところから鉛のような重さで地の底に引きづられていくような感覚です。
お風呂にはいっても気分が癒されるどころかオイオイ泣けてきました。
生きる気力を感じなくて、これからどうやって生きていけばいいのか、みたいな思いすらあがってきました。
これはさすがにまずい状態では?!と、ワークを教えてくれてる師にヘルプを求めるメールを打ち始めました。
で、メールを打っていたら、自分が何で落ち込んでいたのかに気がつきました。
私のエゴが執着してる事柄が否定されたので(ワークによって)、エゴの活躍場がなくなって、それでエゴによって保たれていた生きる動機が失われたようなのでした。
結局ヘルプメールを打つ必要はなくなり、その後、寝る前に毎晩やってる瞑想をしていたら
こんな体験をしました ↓
気分が落ちてる私が底辺までどんどんどんどん落ちていったら、
全くなにも無い&境界もないくらやみにいました。
そしたら、そこに皆がいて私もそこにいました….
そこにいる、という表現はちょっと違いますね、
そのくらやみ自体が皆だった、そして私もそのくらやみだった、の方が合っています。
くらやみ=皆=私 だったのです。
くらやみの部分もみえてるのだけど、その全体がわたしでもあるとわかってるみたいな感じです。
くらやみという言葉だと怖いイメージかもですが、怖さは全くなくて、自分がそのくらやみだったことを感じて、あー安心、でした。
この体験で、私、そして他の人という違いは実は全くなくて、
私も皆も同じもので、あの何もないくらやみだったんだ〜と気づきました。
私のエゴが執着していたものは無意味で、
私が素晴らしいと評価している人たちがやってることは意味があると思っていたけど、
私も素晴らしいと思ってる人たちも完全に同等なぜなら同じものだったから、
差も違いもないんだ、と、とても深いところの腑に落ちたのでした。
それで翌朝目が覚めたら、なんだかおかしくて、バカバカしくなってきて、笑いたくなりました。
皆と私は同じものだったのに、何を頑張ったりしていたのかなって。
これまで自分が努力して頑張ってきたのは、
自分も素晴らしい人たちのように特別になるためにやっていたのだと気がついたのです。
でも皆は、もとは同じなのだから、その同じものが一生懸命頑張って特別になる必要もないし、優位性を示すこともない(同じなのだから示せないし)、だから対立することすらできもしないんだ、とわかって、なんだか可笑しくなったのです。
この気づきを「水」で例えるならば、
クリスタルのグラスに注がれた水をみて、あら、素敵!
私は今このフツーのコップに入ってるけど、いつかクリスタルのグラスに入る水になるぞって思っていたようなもの。
もしくは砂漠で差し出された水が貴重と思われるから、そんな貴重な水になりたいなと思ってるようなもの。
クリスタルのグラスに入った水も、百均のコップにはいった水も、砂漠で貴重と思われる水も、どれも同じ水で、それぞれの水を同じボウルに移したら混ざり合ってどこからどこまでがクリスタルのグラスにいた水か区別がつかない。
水がどう努力しようと、入れ物を変えようと、水は水なのでした、だから違いは全くない、そんなことに気がつきました。
私のエゴは、私が素晴らしいと評価してる人たちが入ってるコップに入った水になりたいと思っていたのでしょうね、そのために努力して素晴らしい水?にならなきゃって思って頑張っていたのかも(笑)。
しかもその無駄な努力が私の生きる気力になっていたとは(汗)、全然気がつかなかった…..
肉体を持った外側の個性はあったとしても、その源の存在に優劣はいっさいなくて同じもので、どんなに努力して頑張ってもこの世で成功しても失敗しても、結局私たちは同じだったんですね。
だから、何もしなくてもいいし、外側の器を変えて楽しみたいならそうしてもいい。
でも、自分が正しいと示すために、誰かが間違ってると指摘するために、
優位性を示すために、自分が特別になるために、そんな動機で頑張る必要は全くない。
いくら頑張ったって水と同じで、誰にもそんなことできっこない、元は私たちは1つのものなのだから。
ということで、落ちるだけ落ちたら、逆にとても心が軽くなった体験でした。
あー、それにしても落ちていくとき、しんどかった…..
