見るのも聞くのもつらいとき

学校でのお子さんのことで、ちょっとしたご相談がありました。

そのお子さんは、先生がクラスの誰かを怒っているのを聞いているのがとてもつらい

のだそうです。

大人でも誰かが叱責されてるのを聞けば不快になると思いますので、心が摩耗していない(汗)子供たちなら尚更そういうシーンでは嫌な思いをすると思います。

特に繊細だったり、心の優しいお子さんは、それを自分のことのように捉えてしんどくなるのかもしれません。

まず、こういうとき、最初に確認したいのは、

その先生の怒りが、叱責してる生徒の言動や行為にたいして「適当であるか」だと思います。

ー生徒への叱責が先生の個人的な感情の噴出口になっていないか

ー叱責が生徒達をコントロールするために使われていないか(指導なのか威嚇なのか)

もし、お子さんが怯える先生の叱責に上記のような可能性があるなら、学校の管理組織か上部組織に相談するのがよいと思われます。

でも、もし、先生の叱責の度合いが許容範囲(それなら怒ってもしかたないなと思える)ならば、

他人の叱責を聞くのがつらいお子さんのケアはどのようにしたらよいでしょうか。

そんなに気にしなくてもいいよ、と言われても、声は聞こえますし、見えてますから、それをスルーするのは難しいかもしれません。

私は、こういう状態というのは、

遠い国で起こっている戦争を見聞きする

のと似ていると思います。

被害の度合いやリアリティは違うけれど、遠い国で攻撃をうけて破壊されたり、そこに暮らす人々、特に子供達が被害に遭ってる事実をニュースで見聞きすると、つらくてたまらなくなる、それと似た状況だと思うのです。

(そういうニュースを聞いて寄付するとか署名集めるとかのアクションのことは横においておきます)

先生に向かって、そんなに怒らないでくださいと児童が言えないように、

攻撃する国に直接抗議することは簡単にはできないし、

怒られてる生徒に声をかけることがその場でできないように、

攻撃されてる民衆を助けようとするのは距離的&物理的に難しいし、

そもそも、その戦争はどちらが悪くてどうして起こってるのかがわからないように、

怒る先生が悪いのか、怒られてる生徒が悪いのかも、その子に判断つかないようなそんな状況かなと思います。

ただ見聞きするしかない状況という意味で似ていると思うのです。

こういうシーンにいるとき、子供によって反応は違います:

先生は怒ってばかりで嫌い 

と先生を非難したり怒りを感じる子もいれば、

あの子怒られてかわいそうと

クラスメートに同情したり、悲しくなったりする子もいれば、

ああ、この怒られてる雰囲気はいやだ〜と

心がただ重くなる子もいます。

私の場合、いじめでも戦争でも話を聞くと、やってる側を憎む気持ちを自動的に感じてしまいます。

こういう感情や思いは、自然と起きてしまうので、そこは変えられません。

でも、この地点で終わってしまうと、人は、言葉にするならただ無力感を感じてしまうのだと思います。

嫌な状況を知ったり、見たりして、それに対して感情がわき起こるのに、何もできない自分で終わってしまうからでしょう。

こういう一見何もできなさそうときであっても、私たちが能動的にできることがあります。

それは

祈る

というアクション。

祈る、というと、祈りの言葉でも唱えるように宗教チックなイメージを持つかもしれないので、

もっとわかりやすい言葉でいうと、

幸せを願う

平和を願う

というアクションです。

先生が生徒を怒ってる 

→ 怒ってる声、いやだな、つらい、聞いていたくない とまず自分の感覚を感じる

→ つぎに皆の前で怒られて嫌な思いをしてる生徒を思いながら

 XXちゃんが幸せでいますように と怒られてる間、願ってあげる

怒ってる先生、全然好きじゃないけど、

XX先生も幸せでいますように と先生が怒ってる間、願ってあげる

こうすると、ただ嫌なシーンをみせられ続けてる自分から、能動的にアクションを起こしてる自分になれます。

全然違う気持ちでいることができるのです。

私は子供の頃、平和の祈り(長崎出身なので)という言葉を何度も聞きました。

祈りって、ただのごまかしじゃないの?!、具体的に何か進めるほうがよい、と長いこと思ってました。

でも、特に、この仕事をするようになって、エネルギーというのを意識するようになって、

祈りや願いというのは、ごまかしでも、ただの「形」でもなく、

とても能動的なアクションで、見えないけれどもとても大きな力があるのだと腑に落ちました。

私たちの元は1つにつながってる波動みたいなもので、誰かが誰かの幸せを願う、そのエネルギーというのは私たちに強く影響を与えるものなのです。

その影響は周りの人だけでなく、自分自身にもです。

ですので、自分が実際にはなにもアクションできないけど、心が痛くなる出来事があったら、

あなたやわたしができること、

それは、その当事者たちの

幸せを願う

もしくは全体の平和を願う

ことだと思います。

長くなりましたが、

私が、その心優しいお子さんにアドバイスをあげるなら、

今度、先生が怒ってる間、

先生と怒られてるお友達が幸せでいられますように、って願ってみてね、

もっと願いたかったら

クラス皆が幸せで平和でいられますようにって、心の中で願ってみてね!

と言うと思います。

憎い相手ほど、幸せを願ってみる。→ ハードルとっても高いのですが(冷汗)、そうすると、相手だけでなく自分にも幸せな感覚がやってきます〜 

改善したいときに、何を変えるか

日々の暮らしの中で、自分の問題点に気がついたときに、なんとかしたいと思いますよね。

そういうときに何を変えるか、について、書きたいと思います。

例えば、子供にいつもうるさくいってしまって、それでしょっちゅう喧嘩・険悪になる、それをなんとかしたいなと思ってるとき、

もう少し優しい言い方してみよう とか

もう少し注意する回数へらしてみよう とか

自分ができる具体的な策が浮かぶかもしれません。

それらを実行できて関係が改善するなら、それが早道だと思います。

痩せたい、そのためには食べる量を減らして運動もする みたいなダイレクトな方法です。

でも、現実には、それがなかなかうまくいかないので問題が膠着してしまいます。

こういうとき、本当に改善したほうがよいところは、実は違ったりするのです。

改善を目指すのは、

自分の態度 や やり方 ではなくて

「自分の気分とか気持ち」です。

自分の気持ちや気分をいかによくするか、が改善するところなのです。

つまり、改善すべきは、相手の態度でも、自分の態度でもなくて、

自分の気分や気持ちなのです。

今、子供に過度に注意をしてしまうのは、

子供の態度や子供のなにかが悪い、とあなたが判断してるからです。

それが悪いとかよくないと判断してるから、あたなの気分はよくない、

もしくは、子供の悪いところを私がなんとかせねばならないと思ってるから、

気分がすぐれないのです。

自分以外のひとのなにかが悪いと思ってるときや、

それを自分が変えねばならない状態というのは気分がよくないですよね。

だから、その自分の気分自体を、よいものに変えること、これが改善するところになります。

目の前の自分が問題と思ってるその状態をみつつ、どうやったら自分の気分を楽にできるか、これに取り組むのです。

例)子供が宿題をしていない

この状況で、どうすれば自分の気分が楽になると思いますか?

この答えは、人により様々なので、これが正解というのはありませんが、

例をあげるならば:

宿題をしていない → それを気にしてないならこの子は大物だ! 

と考えたら、気分が楽になって、宿題はしときなさいよ〜って軽い感じで言えて、それ以上は気にしないでいられる。この考えで気持ちが楽になるひともいるかもしれません。

宿題をしていない →  この子の人生を長い目でみたら、宿題のようにやるべきことは自主性を持ってやることを学ばないとならない。この子は今、それを学ぶ機会を与えられてる、だから、これはこの子にとってチャンス。私は1回宿題やりなさいっていった、もうそれで十分、私の役目は果たした、

と思えば、すっきりした気分でいられる人もいると思います。

もしくは、そこまで完全に親が手をださない状態を選ばなくても、

一応、毎回声だけはかけるほうが自分の心が楽なら「宿題はやっておきなさいよ」と声をかけることはよし、とすればいいのです。

宿題をしなさいと何回も声をかけることを「よし」としてれば、あなたの心は楽なのです。

自分は口うるさい親になってるのでは?!と自分で自分を責めてるから苦しくなって、そうさせてる子供に対して怒りがわいてくるのです。

口うるさくいうことで子供と毎回喧嘩になったとしても、子供はこうやって言い訳して反抗するものだから〜と流していれば自分の気分は楽でいられます。

将来、子供から「俺のかーちゃん、うるさかった!」って言われて笑い話になるかも、って想像すると、それもいいかもなって思えるなら、どんどん口だしてもいいと思います。

そうやってワイワイやってる親子も、漫画チックな感じで人情味があって、いいんじゃないかなと私は思います(微笑)。

だって、「全てあなたの責任ですからね」ってかかわらないで冷静にいられるより、暖かさがあるじゃないですか。

ということで、結局のところ、あなたの心が自分を責めたり、相手を責めたりしないで、楽な気持ちでいられたら、目の前の問題は問題ではなくなるのです。

ということで、なにか改善したいとき、

なによりも大事なのは、

あなたの気分や気持ちをよくすることです。

これは別の言い方をすると、

あなたがあなたのしてることを肯定してあげること

と言えるかもしれません。

↑ 息子のことが大好きなスコッチ。
今は180cmとデカくなった息子ですが、彼も小学校のとき、夏休みの宿題のほとんどを最後の1日で夜中までかかってやるようなタイプでした(大汗)。計画をたてても計画通りにならないことを小学校で6年かけて学んだひとだと思います(笑)つまり、非常にゆっくり学ぶタイプです(苦笑)。
私の場合は、子供とはいえ自分とはタイプが全く違うんだ〜、だから私がいいと思うことが彼に合うとは限らない、と理解したら楽になって、ほっておけるようになりました。

サインは散りばめられてる

車で少し遠くまで仕事に行く時、道路の事情も考えて大体30分くらい余裕をもって出ることにしています。

昨日もそんな具合で家から右折で出ようとしたら、左奥からご近所の方が車で家の前を通り過ぎました。

我が家は里山でまわりの民家も少ないので(苦笑)、車で出ようとするその瞬間にさえぎられて、いったん停止することになるのは、わりに珍しいことです。

それで、あ、今日はなにかそんな日かもな〜と思いました。

なにか起こることは、わたしたちへのサインなので、ありがたく受け取っておくとスムーズです。別の言い方でいうとただ受け取ると宇宙から自分へのエネルギーの流れを止めません。

この例えのように行く手をさえぎられたときに、

ちっ!(舌打ち)邪魔された!とか、

これは幸先が悪いな〜とか、

気分が悪くなる解釈をしないで、

これは、なにか知らせてくれてるんだろうな〜とただ受け取るのをお勧めします。

私もそんな感じで出かけましたが、最近お気に入りの音楽をかけて軽く口ずさみながら車を走らせてたら気分がよく、しかも道はすいていたので、さっきの出かけにおこったことは完全に忘れてました。

その後、姫路バイパスにのり、目的地までは3つのトンネルを通るのですが、1つ目のトンネルの手前から車が長蛇の列でした(大汗)。

姫路バイパスは頻繁に混む道ではあるのですが、それでも渋滞になるのは姫路中心部辺りで、こんなに手前から渋滞してるのはわりに珍しいことです。

ひーこんなところから混んでるなんて!と思いましたが、車の流れは完全に止まってるわけではなくて、ノロノロとすすんで はいます。

そのうちもっと進むかな、と、とりあえず音楽を聴きながらノリノリでいました(苦笑)。

こういうとき私は時計をあまりみないようにします、みるとジリジリあせるので(汗)。

いずれにしろ、うまくいくようになってるから大丈夫と現実逃避します(苦笑)。

それでもかれこれ20,30分は経ったと思われる頃、時計をみたら、案の定そのくらい時が進んでました、が、道はほとんど進んでません(大汗)。

とりあえず、そこで、できることは約束をしてるクライアントさんに遅刻の可能性をメールすることでした。それでノロノロ進みながらも、少し車が止まったときに

「バイパス大渋滞で…」

と手短なメール文をうちはじめました。

そこでまた車が少し動いたので、メールの手を止めて運転に集中。

そして次でまたいったん車の動きが止まったときに、

メール文を続けて

「遅るかもしれま…」

と打ったところでまた車が動き出しました。

残りの

「せん」

とさえ打てば、メール送信ボタンを押せたのに、

そこでちょうど車が動きだしたのです。

昔の私なら、ここで先に進むのを遅らせて(どうせ少ししか進んでいないので)

無理に「せん」打ち終わってメール送信していたと思います。

でも、世の中で起きることがいつもサインとわかってからは、

あ、そっかー、ここでちょうど動き出したってことは、

じゃ、このメールは送らなくていいってサインだな!と受け止めて

運転に集中しました。

そしたら、その後、車は普通に進んでいって(途中の電光掲示板で「事故処理終了」の文字がみえました)

クライアントさんとの約束時間10時でしたが、

お宅に私の車が入り込んだのが10時1分、

ドアをあけたのが10時2分でした(→ 推測)。

やっぱり間に合った!(いや正確には遅れたけど….)

と、こんな感じで、毎日の生活には気づくと楽しいサインが散りばめられてます。

これを「奇跡」とも言えるし、「神からのメッセージ」のチャネリングとも呼べると思います。

サインに気づきだすと、とにかく面白くってしようがありません。

そしてそのサインは、いつも、あなたがよりよく生きていくための道しるべなんです。

今朝もとっても小さいけど笑えるサインがありました。

粗大ゴミの日だったのですが、粗大ゴミ重いので(ワインの瓶とか缶とか本とか)、

ダンナさんに出してもらうようにいつものように玄関に並べておいてました。

そして私は家事をしていたら、登校したはずの息子が忘れ物したらしく引き返してきて、

その2度目のあわてていく登校に「いってらっしゃい」と玄関まで声をかけにいったら、

粗大ゴミが、そこに置いたままなのがちょうど目に入りました。ん?!

ここで、

「あれ、フレデリック(ダンナさんの名前)捨ててないじゃん!(怒)」

と思うんじゃなくて、

あ、これ、私が捨てにいきなさい、ってサインだなって受け取りました。

なぜかというと、ちょうど今朝方、「相手にまかせないで自分でやるときが来てる」という内容のメールをある方に送ったばかりだったからです(大汗、私にも言えるって)。

それで粗大ゴミを捨てにいきながら、気づきました。

粗大ゴミを捨てるのはダンナさんという役割をいつのまに決め込んでいたのだろうって(苦笑)。

なにか決め込むと守られてないときに文句がでるから(やってない!とか)、

やめよって気づきました。

という感じで、とっても小さなものから、大きなものまで、サインは日常に散りばめられてます。

サイン、はいつも、ん?!みたいにふっと気がつくように提供されてます。

ちょっといつもと違うな、とか、なにか自分をいっしゅん引き込むものです。

「サイン受け止めゲーム」はとにかく面白いし、それを受け止めていくとどんどん自分らしい道を歩くことになり、そして幸せになっていくようになってるので、つよくお勧めします。

サイン1つ1つが、クリスタルや綺麗な石のようだと思うと日常がキラキラしてみえます。

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病や症状も、実はそのサインの1つなんです。

病や症状はつらいものじゃなくて、あなたを幸せに導くための大きなサインです。

えー!と思うでしょうが、一緒にそのサインを解読しませんか。

ご興味のある方はHPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/

とことん落ちたら

数日前の体験です。

今年に入ってから自我(エゴ)から離れるためのワークをしています。

(エゴをなくすことはできないけど、エゴと離れている状態は体験できる、と私は理解してます)

そのワークの影響なのか、特にその日はどんどん気分が落ちていきました。

何をしても気分を変えることができずに、ひたすら落ちていく。

ネガティブの塊になってました。

家族に当たり散らし、気分を変えようとかけてくれる言葉の数々に八つ当たりをして、口喧嘩になり、最後はひねくれ&いじけまくりました。

この気分をなんとかするために体を動かしてみようかと、車を40分ほど走らせ壁打ちできるテニスコートに行ってみたけど、コートに着いたら財布を持っていなかった!(冷汗)。

コートの申し込みができないどころか、無免許運転(免許は財布の中)なのでビクビクしながら法定速度遵守にて家に引き返しました….

夜になっても、落ち込み度合いは全く変わらず、胸のところから鉛のような重さで地の底に引きづられていくような感覚です。

お風呂にはいっても気分が癒されるどころかオイオイ泣けてきました。

生きる気力を感じなくて、これからどうやって生きていけばいいのか、みたいな思いすらあがってきました。

これはさすがにまずい状態では?!と、ワークを教えてくれてる師にヘルプを求めるメールを打ち始めました。

で、メールを打っていたら、自分が何で落ち込んでいたのかに気がつきました。

私のエゴが執着してる事柄が否定されたので(ワークによって)、エゴの活躍場がなくなって、それでエゴによって保たれていた生きる動機が失われたようなのでした。

結局ヘルプメールを打つ必要はなくなり、その後、寝る前に毎晩やってる瞑想をしていたら

こんな体験をしました ↓

気分が落ちてる私が底辺までどんどんどんどん落ちていったら、

全くなにも無い&境界もないくらやみにいました。

そしたら、そこに皆がいて私もそこにいました….

そこにいる、という表現はちょっと違いますね、

そのくらやみ自体が皆だった、そして私もそのくらやみだった、の方が合っています。

くらやみ=皆=私 だったのです。

くらやみの部分もみえてるのだけど、その全体がわたしでもあるとわかってるみたいな感じです。

くらやみという言葉だと怖いイメージかもですが、怖さは全くなくて、自分がそのくらやみだったことを感じて、あー安心、でした。

この体験で、私、そして他の人という違いは実は全くなくて、

私も皆も同じもので、あの何もないくらやみだったんだ〜と気づきました。

私のエゴが執着していたものは無意味で、

私が素晴らしいと評価している人たちがやってることは意味があると思っていたけど、

私も素晴らしいと思ってる人たちも完全に同等なぜなら同じものだったから、

差も違いもないんだ、と、とても深いところの腑に落ちたのでした。

それで翌朝目が覚めたら、なんだかおかしくて、バカバカしくなってきて、笑いたくなりました。

皆と私は同じものだったのに、何を頑張ったりしていたのかなって。

これまで自分が努力して頑張ってきたのは、

自分も素晴らしい人たちのように特別になるためにやっていたのだと気がついたのです。

でも皆は、もとは同じなのだから、その同じものが一生懸命頑張って特別になる必要もないし、優位性を示すこともない(同じなのだから示せないし)、だから対立することすらできもしないんだ、とわかって、なんだか可笑しくなったのです。

この気づきを「水」で例えるならば、

クリスタルのグラスに注がれた水をみて、あら、素敵!

私は今このフツーのコップに入ってるけど、いつかクリスタルのグラスに入る水になるぞって思っていたようなもの。

もしくは砂漠で差し出された水が貴重と思われるから、そんな貴重な水になりたいなと思ってるようなもの。

クリスタルのグラスに入った水も、百均のコップにはいった水も、砂漠で貴重と思われる水も、どれも同じ水で、それぞれの水を同じボウルに移したら混ざり合ってどこからどこまでがクリスタルのグラスにいた水か区別がつかない。

水がどう努力しようと、入れ物を変えようと、水は水なのでした、だから違いは全くない、そんなことに気がつきました。

私のエゴは、私が素晴らしいと評価してる人たちが入ってるコップに入った水になりたいと思っていたのでしょうね、そのために努力して素晴らしい水?にならなきゃって思って頑張っていたのかも(笑)。

しかもその無駄な努力が私の生きる気力になっていたとは(汗)、全然気がつかなかった…..

肉体を持った外側の個性はあったとしても、その源の存在に優劣はいっさいなくて同じもので、どんなに努力して頑張ってもこの世で成功しても失敗しても、結局私たちは同じだったんですね。

だから、何もしなくてもいいし、外側の器を変えて楽しみたいならそうしてもいい。

でも、自分が正しいと示すために、誰かが間違ってると指摘するために、

優位性を示すために、自分が特別になるために、そんな動機で頑張る必要は全くない。

いくら頑張ったって水と同じで、誰にもそんなことできっこない、元は私たちは1つのものなのだから。

ということで、落ちるだけ落ちたら、逆にとても心が軽くなった体験でした。
あー、それにしても落ちていくとき、しんどかった…..

わかりあう

仕事の話ですが、たまに話が長くなってコンサルテーションの予定時間を大幅に過ぎてしまうケースがあります。

先日お会いした方のコンサルテーションがそうで、会議室の担当者が(時間がかなり過ぎたので)注意に来たほどでした(汗)。

もちろん私の時間管理問題や金額設定(追加料金無設定)の問題もあるのですが、その方は前の回のときも、同様に時間がかなりオーバーしたのでした。

これはどういうわけで起こってるのかな、何に気がつかないといけないのかな、と少し考えてみました。

この方が、今の時点で直面してるテーマは「わかりあう」ということです。

そのテーマとコンサルテーションの時間が長引いてしまうことが関係してるのだろうなと、翌朝起きたときに思い至りました。

その方に主要な問題について話をしてもらう

私の方は、その方に不調が起こってるのは、その方の深いところ(いわゆる魂)が望んでるのと違う方向だよというサインなので、それに気がついてもらおうと、その話の中で気づいたことを話す

その方は、ご自分がされてること&考えていることを私が理解するようにさらに話をする

私はサインに気づいてもらうよう、言葉を変えたり、違う角度からみえることを話す

その方は、さらに自分の思いを私にわかるように説明する

その方と私は「わかりあう」ために話が長く続いていく、これが延々と行われていたのでした(汗)。

こりゃ、何時間あっても時間が足りないわ〜

つまり、私もその方のテーマにどっぷり浸かってしまっていたわけです(大汗)。

その方は、とても優しく利他的な方で、どんな場面においても、相手の気持ちを尊重しつつお互いにわかりあえることを目指しています。

しかしわかりあえないときは、時間をいったんおいたり、ご自分のトークのスキルアップをしていけば、わかりあえるものだと考えているようでした。

「わかりあう」は、漢字だと

解り合う

と書くのでしょうか、それとも

分かり合う

どちらなのか、わかりませんが、

分かり合う だとしたら、それはお互いに「分かち合う」なんですよね。

どちらかの意見に合わせていくのではなく、それぞれの意見を「分け合う」。

ケーキでイメージするなら(苦笑)、こちらが頼んだ美味しいと思うチーズケーキを一部あげて、

相手が美味しいと思うガトーショコラを一部もらう。

私はやっぱりチーズケーキの方が好きだけど、ガトーショコラも、味わってみる、まあ、これも美味しいね。

もしくは、ガトーショコラはやっぱり美味しくない、でも、あなたがガトーショコラを好きなのは分かった。

それが分け合う、つまり、分かり合う。

わかりあう、ってそのくらいカジュアルでよいのかなと私は思います。


わかりあう = 解り合う の方の漢字だったとしても、

解り合う、というのは、相手が解ってくれることも、そして解ってくれないことも含めて、そのどちらであっても理解し合うってことかなと思いました。

こちらの思いや意見を相手がわかってくれたら、とても嬉しいし、物事はうまくすすむ。

でも相手がわかってくれなくて背を向けていくことも、理解する。

それが、わかりあう ってことかなと私は思いました。

↑ 薪ストーブ横においてる爪とぎダンボールを奪い合う2匹。
猫はわかりあわないけど、お互い毛づくろいはしてあげてます(苦笑)。

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昨年、毎月行ってきたちょこっとカウンセリング、なかなか日程が確保できず、
今年は不定期に気まぐれに苦笑、日程の都合がつきそうなときに開催することにします。

Seeking good.

以前、レメディの使い方講座をしているときに、

ダンナのいびきにもレメディは使えますか?

という質問を受けたことがあります。

質問者の女性によると、(冗談まじりにですが)ご主人のいびきは思わず蹴りたくなるレベルで、眠りが毎晩妨げられるとのことでした。

そのときは確か、彼のいびきにレメディを使うより、あなたがレメディを使う方がよい(彼女のマインドを鎮める)というアドバイスをしたと記憶しています。

それが、まさにこのところ、私も似たような状況にありました(汗)。

ここ1週間ばかり、毎晩ダンナさんのいびきで目が覚めるのです。

いびきというのか、鼻がつまってるからなのか寝息に高音の変な音が混じっていて(汗)、

ズーとか、ぴーとか少し音が高いので、私の耳がキャッチしてしまうようなのでした(苦笑)。

それが真夜中や早朝の場合は、目が覚めてもいつのまにか二度寝していた私ですが、

昨晩は、私がちょうど寝入ったときにその音が聞こえてきたせいで、完全に目が覚めてしまいました。

ぎゃ〜、寝れない!と段々イライラしてきて、

何度も寝返りをして、心を落ち着けようと深呼吸しても余計に目が覚めます。

ここでレメディを取りにいくこともできましたが、おふとんからでたくない、この寒さでふとんからでてレメディを探していたら逆に完全に目が覚めてしまいそうで動きたくもない。

とても小さな苦しみですが(苦笑)、なかなか苦しい状況です。

こういうとき、どうしますか?

相手を叩き (!?) 起こしても、相手の体の向きを変えても、また相手が寝入ってしまえば同じですよね(大汗)、

ああ、もう、うるさーい!とイライラし続けても、自分の神経が高ぶって眠れない時間が増えるだけです。

このようなときは、あるゲームの始まりでもあります。

「自分で自分をいかに心地よくするか」ゲームです。

なかなか難しいけど(苦笑)。

もちろん、いったん起きて本を読むとか、お酒を飲んでリラックス とかもありでしょうが、

私はふとんの中にいるままで、このゲームに挑戦することにしました。

隣でズーぴーいってて眠りを妨げられてる、この状況でいかに自分を心地よくできるかな〜と考えました。

そしたら、そのとき私のふとんの左横に潜り込んできていたスコッチ(猫)が、

小さな寝息をたてたのです。

スッピー みたいなかすかな寝息です。

それを聞いたら、

うっわ、かわい〜 スコッチぐっすり寝てるんだ〜

と心がほっこりなりました(笑顔)。

あれ?!

猫の寝息は、こんなに私を幸せにするのに、ダンナさんのいびきは、

私の神経をこんなにさかなでする(大汗)、なぜに?!

じゃ、ダンナさんもスコッチみたいにぐっすり寝てるんだ、よかったね〜て思ってみようと思いました….

ハイ、無理でした(苦笑)。

音が大きすぎて、かわいくない !(汗)

スコッチの寝息がほっこりするのは、動物が自分のすぐそばで安心して寝てくれることが貴重だからかなと思いました。

じゃあ、こうしようと思いました ↓

ダンナさんを「熊」と思うことにしよう(巨漢なので)と。

目を閉じて、イメージしました。

ここは聖なる森、私の左横では仲良しの山猫が寝息をたてて安心して眠ってる、

右隣には野生の熊も大きな寝息で眠ってる。

そして私は妖精のような白い服を着ていて(着てなくてもいいんだけど、汗)、

他の野生動物たちや蝶や鳥もいて、皆が私に寄り添って、陽だまりの中で森の新鮮な空気を吸いながらお昼寝してるんだと。

隣から熊のズーぴーという寝息が聞こえてるんだとイメージしたら、思わずくすっと笑えました。

あー、いい、これ、心地よくなった〜

はい、ゲームは私の勝ちです。

そしたら、5分くらいして、隣の熊のいびきの音が違う音に変わりました。

少し低いいびきになって、私にとって耳触りな音ではなくなりました。

そして、私も聖なる森で野生動物に囲まれながら(苦笑)、眠りに落ちていきました。

朝、起きてふと気づきました。

そっか、(このところ)私がダンナさんに対してイライラしてる気持ちがあったから、

あのイライラするいびきの現象を引き起こしていたんだなと。

(この世で自分の周りにおきる物事は、自分の意識の反映なので)

ということで、どんなときも、どんな状況でも、自分が苦しいときは、

「自分で自分をいかに心地よくするかゲーム」がおすすめです。

このゲームに勝てると、自分がどんどん幸せになっていきます。

裏庭の柚子(ゆず)ももう終わり ↑
ゆずを加工する時間がないときは、半分にきり、とりあえず果汁をしぼっておきます。
果汁は春・夏にジュースとしていただきます。
しぼったあと房など中身を取り除いた皮はお風呂に使います(そのまま&干しても)。
ゆず風呂に入ると、湯冷めしにくくて、肌が乾燥しません(皮の油分のおかげ?)。ありがたい!

なにか1つ

昨日テニスの休憩中に、いまだ消えないオーストラリアの森林火災はなんとかならないのかという話題が、そこに居合わせた3人からでました。

オーストラリアの森林火災で、野生動物の5億とも10億ともいわれる命が亡くなってると聞くと心が痛くて、この数がもし人間の命の数だったとしたら、軍をもっと大規模に動員したり秘策をだしたり国の予算を無理にでも動かして消火に取り組むんだろうか?!本当にこれ以上なにもできないのか、などと意地悪な見方さえしてしまいます。

結局、火災の話はつまるところ気候変動の話になり、メンバーの1人は、皆が働かないでもっと休んだらどうかと話してました。その人はフィンランドに長年暮らしたことがある人で、フィンランドではまさに週休3日制が検討されてると話していました。

そのメンバーは働く日数を減らすことで、右肩上がりの経済成長を横這いもしくは止めるのはどうかと言っていて、(ちなみにフィンランドの週休3日制導入検討は誤報だったそうですが)
それが森林火災の原因の1つといわれる気候変動に対して社会ができることの1つではという意見でした。

そんな話題から、スウェーデンのティーンエージャーの環境活動家グレタさんの国連での演説を思い出しました。

彼女が演説を始めたとき、ヒューヒューという感じの声援のようなものが起こってましたが、あの彼女の真摯な怒りの演説を聞いて私はただ黙るしかありませんでした。

地球環境を悪化させてきた責任の一端を担う大人として申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

あの演説を聞いて、ああ、素晴らしかった、とまるで本を閉じるように、地球環境問題に対して考えることを終わらせることはもうやめたいなと思いました。

なにができるかは、人それぞれ。

電気を無駄に使わないでも、水を節水するでも、余計なものを買わないでも、自然環境に配慮する企業の商品を購入するでも、なんでもいいので、なにか1つでもやれることを皆がしていくことが大事だなと思います。

ちなみに私のだんなさんにあなたは何をする?!と聞いたら、

(裏山に)木を植え続ける

と言ってました。頑張れ〜

しかし同時に環境問題を考えだすと、私たちの生活は矛盾だらけなことにも気がつきます。

テニスメンバーとそういう話をしながらも、毎回テニスで使われるボールが大量に作られ廃棄されているのを考えると、これどーすんだ?!と絶望的になって、じゃ、そういうスポーツをするのをやめたらいいのか?!となりますし(ボールに空気を再注入してリサイクルするやり方をしばらくしてたけど結局ボールのハネが不均衡であまりよろしくない)、

昨晩、肩甲骨まわりの筋肉が痛かったのでなんとかしようとヨガマット(最近買い替えた)を敷いて簡単なヨガをしてたのですが、このヨガマットはポリ塩化ビニールでできてて、これが大量に世の中にでまわってること考えると頭がくらくらするし、

環境に配慮されて作られたワインを選ぼうと思いながらも、そのワインは遠いところから輸入されてきていて、その輸送で出されるCO2を考えるとワイン飲んでる場合じゃないでしょ(汗)と思ったり…..

朝のほっと一息のおいしいでも海外から輸入されたコーヒーや紅茶はどうなるのか、昔みたいに日本茶やほうじ茶(好きだけど)でまかなっていくしかないのか…..

という具合に環境問題をつきつめていくと、このような

個人の便利&楽しさ VS 環境破壊の原因

の対立のジレンマに陥ってしまいます。

環境問題に取り組もうなんて書いても、今すぐその便利さや楽しさを手放せない私がここにいます(大汗)。

仕方がないから、自分の大いなる矛盾に気づきながらも、できることをとりあえずやっていくしかないんだろうなと改めて思う次第です。

という感じで私は去年の夏から洗濯洗剤もほとんど使わなくなりました ↓

http://keiso-osentaku.biz/products

この商品はケイ素を使ってますが、マグネシウムを使った商品もあるそうです。

このような商品が環境にどのくらいよいのか、正直まだよくわかりませんが、とりあえず洗剤をたれ流してないのはよいような….

使用してきての個人的な感想ですが、汚れはちゃんと落ちてます。

洗剤を購入しなくてよいので手間もお金も助かります。

あと洗濯槽のカビ汚れがなくなりました、思うにあのカビは洗剤のカスだったのかなと。

洗濯槽のカビ汚れがなくなったので、その除去用につかってた酸素系漂白剤も使わなくてよくなったのでそれもよかったです。

という感じで、環境問題でのジレンマに陥ってやる気がなくなっても、とりあえずなにか1つづつでもやっていくしかないなと思います。

↑  テニス中にでた虹。とても大きなアーチで、薄くてみえにくいけどダブルレインボーです。