とことん落ちたら

数日前の体験です。

今年に入ってから自我(エゴ)から離れるためのワークをしています。

(エゴをなくすことはできないけど、エゴと離れている状態は体験できる、と私は理解してます)

そのワークの影響なのか、特にその日はどんどん気分が落ちていきました。

何をしても気分を変えることができずに、ひたすら落ちていく。

ネガティブの塊になってました。

家族に当たり散らし、気分を変えようとかけてくれる言葉の数々に八つ当たりをして、口喧嘩になり、最後はひねくれ&いじけまくりました。

この気分をなんとかするために体を動かしてみようかと、車を40分ほど走らせ壁打ちできるテニスコートに行ってみたけど、コートに着いたら財布を持っていなかった!(冷汗)。

コートの申し込みができないどころか、無免許運転(免許は財布の中)なのでビクビクしながら法定速度遵守にて家に引き返しました….

夜になっても、落ち込み度合いは全く変わらず、胸のところから鉛のような重さで地の底に引きづられていくような感覚です。

お風呂にはいっても気分が癒されるどころかオイオイ泣けてきました。

生きる気力を感じなくて、これからどうやって生きていけばいいのか、みたいな思いすらあがってきました。

これはさすがにまずい状態では?!と、ワークを教えてくれてる師にヘルプを求めるメールを打ち始めました。

で、メールを打っていたら、自分が何で落ち込んでいたのかに気がつきました。

私のエゴが執着してる事柄が否定されたので(ワークによって)、エゴの活躍場がなくなって、それでエゴによって保たれていた生きる動機が失われたようなのでした。

結局ヘルプメールを打つ必要はなくなり、その後、寝る前に毎晩やってる瞑想をしていたら

こんな体験をしました ↓

気分が落ちてる私が底辺までどんどんどんどん落ちていったら、

全くなにも無い&境界もないくらやみにいました。

そしたら、そこに皆がいて私もそこにいました….

そこにいる、という表現はちょっと違いますね、

そのくらやみ自体が皆だった、そして私もそのくらやみだった、の方が合っています。

くらやみ=皆=私 だったのです。

くらやみの部分もみえてるのだけど、その全体がわたしでもあるとわかってるみたいな感じです。

くらやみという言葉だと怖いイメージかもですが、怖さは全くなくて、自分がそのくらやみだったことを感じて、あー安心、でした。

この体験で、私、そして他の人という違いは実は全くなくて、

私も皆も同じもので、あの何もないくらやみだったんだ〜と気づきました。

私のエゴが執着していたものは無意味で、

私が素晴らしいと評価している人たちがやってることは意味があると思っていたけど、

私も素晴らしいと思ってる人たちも完全に同等なぜなら同じものだったから、

差も違いもないんだ、と、とても深いところの腑に落ちたのでした。

それで翌朝目が覚めたら、なんだかおかしくて、バカバカしくなってきて、笑いたくなりました。

皆と私は同じものだったのに、何を頑張ったりしていたのかなって。

これまで自分が努力して頑張ってきたのは、

自分も素晴らしい人たちのように特別になるためにやっていたのだと気がついたのです。

でも皆は、もとは同じなのだから、その同じものが一生懸命頑張って特別になる必要もないし、優位性を示すこともない(同じなのだから示せないし)、だから対立することすらできもしないんだ、とわかって、なんだか可笑しくなったのです。

この気づきを「水」で例えるならば、

バカラのグラスに注がれた水をみて、あら、素敵!

私は今このフツーのコップに入ってるけど、いつかバカラのグラスに入る水になるぞって思っていたようなもの。

もしくは砂漠で差し出された水が貴重と思われるから、そんな貴重な水になりたいなと思ってるようなもの。

バカラのグラスに入った水も、百均のコップにはいった水も、砂漠で貴重と思われる水も、どれも同じ水で、それぞれの水を同じボウルに移したら混ざり合ってどこからどこまでがバカラにいた水か区別がつかない。

水がどう努力しようと、入れ物を変えようと、水は水なのでした、だから違いは全くない、そんなことに気がつきました。

私のエゴは、私が素晴らしいと評価してる人たちが入ってるコップに入った水になりたいと思っていたのでしょうね、そのために努力して素晴らしい水?にならなきゃって思って頑張っていたのかも(笑)。

しかもその無駄な努力が私の生きる気力になっていたとは(汗)、全然気がつかなかった…..

肉体を持った外側の個性はあったとしても、その源の存在に優劣はいっさいなくて同じもので、どんなに努力して頑張ってもこの世で成功しても失敗しても、結局私たちは同じだったんですね。

だから、何もしなくてもいいし、外側の器を変えて楽しみたいならそうしてもいい。

でも、自分が正しいと示すために、誰かが間違ってると指摘するために、

優位性を示すために、自分が特別になるために、そんな動機で頑張る必要は全くない。

いくら頑張ったって水と同じで、誰にもそんなことできっこない、元は私たちは1つのものなのだから。

ということで、落ちるだけ落ちたら、逆にとても心が軽くなった体験でした。
あー、それにしても落ちていくとき、しんどかった…..

わかりあう

仕事の話ですが、たまに話が長くなってコンサルテーションの予定時間を大幅に過ぎてしまうケースがあります。

先日お会いした方のコンサルテーションがそうで、会議室の担当者が(時間がかなり過ぎたので)注意に来たほどでした(汗)。

もちろん私の時間管理問題や金額設定(追加料金無設定)の問題もあるのですが、その方は前の回のときも、同様に時間がかなりオーバーしたのでした。

これはどういうわけで起こってるのかな、何に気がつかないといけないのかな、と少し考えてみました。

この方が、今の時点で直面してるテーマは「わかりあう」ということです。

そのテーマとコンサルテーションの時間が長引いてしまうことが関係してるのだろうなと、翌朝起きたときに思い至りました。

その方に主要な問題について話をしてもらう

私の方は、その方に不調が起こってるのは、その方の深いところ(いわゆる魂)が望んでるのと違う方向だよというサインなので、それに気がついてもらおうと、その話の中で気づいたことを話す

その方は、ご自分がされてること&考えていることを私が理解するようにさらに話をする

私はサインに気づいてもらうよう、言葉を変えたり、違う角度からみえることを話す

その方は、さらに自分の思いを私にわかるように説明する

その方と私は「わかりあう」ために話が長く続いていく、これが延々と行われていたのでした(汗)。

こりゃ、何時間あっても時間が足りないわ〜

つまり、私もその方のテーマにどっぷり浸かってしまっていたわけです(大汗)。

その方は、とても優しく利他的な方で、どんな場面においても、相手の気持ちを尊重しつつお互いにわかりあえることを目指しています。

しかしわかりあえないときは、時間をいったんおいたり、ご自分のトークのスキルアップをしていけば、わかりあえるものだと考えているようでした。

「わかりあう」は、漢字だと

解り合う

と書くのでしょうか、それとも

分かり合う

どちらなのか、わかりませんが、

分かり合う だとしたら、それはお互いに「分かち合う」なんですよね。

どちらかの意見に合わせていくのではなく、それぞれの意見を「分け合う」。

ケーキでイメージするなら(苦笑)、こちらが頼んだ美味しいと思うチーズケーキを一部あげて、

相手が美味しいと思うガトーショコラを一部もらう。

私はやっぱりチーズケーキの方が好きだけど、ガトーショコラも、味わってみる、まあ、これも美味しいね。

もしくは、ガトーショコラはやっぱり美味しくない、でも、あなたがガトーショコラを好きなのは分かった。

それが分け合う、つまり、分かり合う。

わかりあう、ってそのくらいカジュアルでよいのかなと私は思います。


わかりあう = 解り合う の方の漢字だったとしても、

解り合う、というのは、相手が解ってくれることも、そして解ってくれないことも含めて、そのどちらであっても理解し合うってことかなと思いました。

こちらの思いや意見を相手がわかってくれたら、とても嬉しいし、物事はうまくすすむ。

でも相手がわかってくれなくて背を向けていくことも、理解する。

それが、わかりあう ってことかなと私は思いました。

↑ 薪ストーブ横においてる爪とぎダンボールを奪い合う2匹。
猫はわかりあわないけど、お互い毛づくろいはしてあげてます(苦笑)。

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昨年、毎月行ってきたちょこっとカウンセリング、なかなか日程が確保できず、
今年は不定期に気まぐれに苦笑、日程の都合がつきそうなときに開催することにします。

Seeking good.

以前、レメディの使い方講座をしているときに、

ダンナのいびきにもレメディは使えますか?

という質問を受けたことがあります。

質問者の女性によると、(冗談まじりにですが)ご主人のいびきは思わず蹴りたくなるレベルで、眠りが毎晩妨げられるとのことでした。

そのときは確か、彼のいびきにレメディを使うより、あなたがレメディを使う方がよい(彼女のマインドを鎮める)というアドバイスをしたと記憶しています。

それが、まさにこのところ、私も似たような状況にありました(汗)。

ここ1週間ばかり、毎晩ダンナさんのいびきで目が覚めるのです。

いびきというのか、鼻がつまってるからなのか寝息に高音の変な音が混じっていて(汗)、

ズーとか、ぴーとか少し音が高いので、私の耳がキャッチしてしまうようなのでした(苦笑)。

それが真夜中や早朝の場合は、目が覚めてもいつのまにか二度寝していた私ですが、

昨晩は、私がちょうど寝入ったときにその音が聞こえてきたせいで、完全に目が覚めてしまいました。

ぎゃ〜、寝れない!と段々イライラしてきて、

何度も寝返りをして、心を落ち着けようと深呼吸しても余計に目が覚めます。

ここでレメディを取りにいくこともできましたが、おふとんからでたくない、この寒さでふとんからでてレメディを探していたら逆に完全に目が覚めてしまいそうで動きたくもない。

とても小さな苦しみですが(苦笑)、なかなか苦しい状況です。

こういうとき、どうしますか?

相手を叩き (!?) 起こしても、相手の体の向きを変えても、また相手が寝入ってしまえば同じですよね(大汗)、

ああ、もう、うるさーい!とイライラし続けても、自分の神経が高ぶって眠れない時間が増えるだけです。

このようなときは、あるゲームの始まりでもあります。

「自分で自分をいかに心地よくするか」ゲームです。

なかなか難しいけど(苦笑)。

もちろん、いったん起きて本を読むとか、お酒を飲んでリラックス とかもありでしょうが、

私はふとんの中にいるままで、このゲームに挑戦することにしました。

隣でズーぴーいってて眠りを妨げられてる、この状況でいかに自分を心地よくできるかな〜と考えました。

そしたら、そのとき私のふとんの左横に潜り込んできていたスコッチ(猫)が、

小さな寝息をたてたのです。

スッピー みたいなかすかな寝息です。

それを聞いたら、

うっわ、かわい〜 スコッチぐっすり寝てるんだ〜

と心がほっこりなりました(笑顔)。

あれ?!

猫の寝息は、こんなに私を幸せにするのに、ダンナさんのいびきは、

私の神経をこんなにさかなでする(大汗)、なぜに?!

じゃ、ダンナさんもスコッチみたいにぐっすり寝てるんだ、よかったね〜て思ってみようと思いました….

ハイ、無理でした(苦笑)。

音が大きすぎて、かわいくない !(汗)

スコッチの寝息がほっこりするのは、動物が自分のすぐそばで安心して寝てくれることが貴重だからかなと思いました。

じゃあ、こうしようと思いました ↓

ダンナさんを「熊」と思うことにしよう(巨漢なので)と。

目を閉じて、イメージしました。

ここは聖なる森、私の左横では仲良しの山猫が寝息をたてて安心して眠ってる、

右隣には野生の熊も大きな寝息で眠ってる。

そして私は妖精のような白い服を着ていて(着てなくてもいいんだけど、汗)、

他の野生動物たちや蝶や鳥もいて、皆が私に寄り添って、陽だまりの中で森の新鮮な空気を吸いながらお昼寝してるんだと。

隣から熊のズーぴーという寝息が聞こえてるんだとイメージしたら、思わずくすっと笑えました。

あー、いい、これ、心地よくなった〜

はい、ゲームは私の勝ちです。

そしたら、5分くらいして、隣の熊のいびきの音が違う音に変わりました。

少し低いいびきになって、私にとって耳触りな音ではなくなりました。

そして、私も聖なる森で野生動物に囲まれながら(苦笑)、眠りに落ちていきました。

朝、起きてふと気づきました。

そっか、(このところ)私がダンナさんに対してイライラしてる気持ちがあったから、

あのイライラするいびきの現象を引き起こしていたんだなと。

(この世で自分の周りにおきる物事は、自分の意識の反映なので)

ということで、どんなときも、どんな状況でも、自分が苦しいときは、

「自分で自分をいかに心地よくするかゲーム」がおすすめです。

このゲームに勝てると、自分がどんどん幸せになっていきます。

裏庭の柚子(ゆず)ももう終わり ↑
ゆずを加工する時間がないときは、半分にきり、とりあえず果汁をしぼっておきます。
果汁は春・夏にジュースとしていただきます。
しぼったあと房など中身を取り除いた皮はお風呂に使います(そのまま&干しても)。
ゆず風呂に入ると、湯冷めしにくくて、肌が乾燥しません(皮の油分のおかげ?)。ありがたい!

なにか1つ

昨日テニスの休憩中に、いまだ消えないオーストラリアの森林火災はなんとかならないのかという話題が、そこに居合わせた3人からでました。

オーストラリアの森林火災で、野生動物の5億とも10億ともいわれる命が亡くなってると聞くと心が痛くて、この数がもし人間の命の数だったとしたら、軍をもっと大規模に動員したり秘策をだしたり国の予算を無理にでも動かして消火に取り組むんだろうか?!本当にこれ以上なにもできないのか、などと意地悪な見方さえしてしまいます。

結局、火災の話はつまるところ気候変動の話になり、メンバーの1人は、皆が働かないでもっと休んだらどうかと話してました。その人はフィンランドに長年暮らしたことがある人で、フィンランドではまさに週休3日制が検討されてると話していました。

そのメンバーは働く日数を減らすことで、右肩上がりの経済成長を横這いもしくは止めるのはどうかと言っていて、(ちなみにフィンランドの週休3日制導入検討は誤報だったそうですが)
それが森林火災の原因の1つといわれる気候変動に対して社会ができることの1つではという意見でした。

そんな話題から、スウェーデンのティーンエージャーの環境活動家グレタさんの国連での演説を思い出しました。

彼女が演説を始めたとき、ヒューヒューという感じの声援のようなものが起こってましたが、あの彼女の真摯な怒りの演説を聞いて私はただ黙るしかありませんでした。

地球環境を悪化させてきた責任の一端を担う大人として申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

あの演説を聞いて、ああ、素晴らしかった、とまるで本を閉じるように、地球環境問題に対して考えることを終わらせることはもうやめたいなと思いました。

なにができるかは、人それぞれ。

電気を無駄に使わないでも、水を節水するでも、余計なものを買わないでも、自然環境に配慮する企業の商品を購入するでも、なんでもいいので、なにか1つでもやれることを皆がしていくことが大事だなと思います。

ちなみに私のだんなさんにあなたは何をする?!と聞いたら、

(裏山に)木を植え続ける

と言ってました。頑張れ〜

しかし同時に環境問題を考えだすと、私たちの生活は矛盾だらけなことにも気がつきます。

テニスメンバーとそういう話をしながらも、毎回テニスで使われるボールが大量に作られ廃棄されているのを考えると、これどーすんだ?!と絶望的になって、じゃ、そういうスポーツをするのをやめたらいいのか?!となりますし(ボールに空気を再注入してリサイクルするやり方をしばらくしてたけど結局ボールのハネが不均衡であまりよろしくない)、

昨晩、肩甲骨まわりの筋肉が痛かったのでなんとかしようとヨガマット(最近買い替えた)を敷いて簡単なヨガをしてたのですが、このヨガマットはポリ塩化ビニールでできてて、これが大量に世の中にでまわってること考えると頭がくらくらするし、

環境に配慮されて作られたワインを選ぼうと思いながらも、そのワインは遠いところから輸入されてきていて、その輸送で出されるCO2を考えるとワイン飲んでる場合じゃないでしょ(汗)と思ったり…..

朝のほっと一息のおいしいでも海外から輸入されたコーヒーや紅茶はどうなるのか、昔みたいに日本茶やほうじ茶(好きだけど)でまかなっていくしかないのか…..

という具合に環境問題をつきつめていくと、このような

個人の便利&楽しさ VS 環境破壊の原因

の対立のジレンマに陥ってしまいます。

環境問題に取り組もうなんて書いても、今すぐその便利さや楽しさを手放せない私がここにいます(大汗)。

仕方がないから、自分の大いなる矛盾に気づきながらも、できることをとりあえずやっていくしかないんだろうなと改めて思う次第です。

という感じで私は去年の夏から洗濯洗剤もほとんど使わなくなりました ↓

http://keiso-osentaku.biz/products

この商品はケイ素を使ってますが、マグネシウムを使った商品もあるそうです。

このような商品が環境にどのくらいよいのか、正直まだよくわかりませんが、とりあえず洗剤をたれ流してないのはよいような….

使用してきての個人的な感想ですが、汚れはちゃんと落ちてます。

洗剤を購入しなくてよいので手間もお金も助かります。

あと洗濯槽のカビ汚れがなくなりました、思うにあのカビは洗剤のカスだったのかなと。

洗濯槽のカビ汚れがなくなったので、その除去用につかってた酸素系漂白剤も使わなくてよくなったのでそれもよかったです。

という感じで、環境問題でのジレンマに陥ってやる気がなくなっても、とりあえずなにか1つづつでもやっていくしかないなと思います。

↑  テニス中にでた虹。とても大きなアーチで、薄くてみえにくいけどダブルレインボーです。

こころのままに

新年おめでとうございます。

去年の年末、そして年始と「こころのままに」を意識して過ごしてます。

(こころ は、自分の深いところにあるもので、自我を超えた存在のことをここでは指します)

こうすることになってるからする、とか、こうしたほうがいいだろうという思考や一般常識から何かをするんじゃなくて、

自分が感じることに忠実に従って、生活の中で自分を動かす みたいなことです。

私たちは常に思考して物事を進めているから、「こころのままに」を実行するのは相当難しいのだけど、だからつまり意識しないとできないのですが(意識した時点で思考優勢で動くので実は矛盾してますが)、

なにかしようとするときに、

よし、こころのままに やってみよう 

と思って自分のこころにフォーカスすると、いつもと違うことが起こりはじめます。

私が 「こころのままに」クリスマスから年末年始を過ごしたところ……

・クリスマス恒例にしていた家庭での料理をやめて外食になった

・大「そうじ」でなく不要なものを捨てるだけの年末になった(食器を半分に減らして、棚を1つ捨てることに)

・おせちをなくして元旦から自分たちが食べたいものをフツーに食べた

季節の行事をできる範囲で大事にしてきたけれど、今回こころのままに動いたら、それがなくなってました(苦笑)。

来年したくなったらまたするのかもしれませんが、そういうことも含め自分のこころのままにいようと思いました。

ちなみに家族はそういった省略に何の文句もないどころか、私がのんびり楽にしているから、そちらの方が大歓迎のようでした(季節行事をこなすためにどんだけ私がイライラしてたかがわかりました….大汗)。

↑ いつもは裏山でとってきて自作するお正月飾りも、今回は近隣で作成されたお正月飾りを買ってきました。

これを飾ってから裏山にのぼったら、いつもたくさんとれる南天がとても少ないことに気が付きました。鹿などが食べれる高さにある南天はほぼ残っていなくて(つまり食べ尽くされて)、鳥たちでないとつつけない高さに南天が残されてるだけでした。

それをみたら、私が家に飾るために(野生生物の食べ物になってる)南天をとってくるのも考えものだなという視点がもてました。

ところで年末には恒例でご近所の方とお餅つきをしています。

今年も声をかけてもらいました。

こころのままに と感じると、そのお餅つきにも参加したいとは思ってない自分がいました。

お餅は好きだけど、そんなにたくさん食べなくてもいいし、今年はその時間にのんびり読書してもいいなと感じていたのです。

でもそのご近所さんは私たちが参加することを楽しみに待ってくださってるのも感じているので、こころのままに動こうとしても、そこでジレンマがでてきました。

こころのままに、動こうとするときによくみられる問題ともいえます。

自分の意のままに動くことが相手を傷つけたり悲しませたりすることになる、の小さな小さな例です。

もちろん、こちらを選ぶほうがいいよっていう正解はありません。

ここで私がやったことは、こんな感じのことです↓

今年はお餅つきには参加しないと伝えて、読みたいと思ってた本を読んで過ごす

そうできたら、私のこころって喜んでるかな〜

と、こころがどう感じるかを感じてみました。

そして、ま、いくか〜ってお餅つきにいって、いつもの感じでご近所さんと餅つき作業をしてる自分も感じてみました。

そしたら、お餅つきに参加してる自分を想像したほうが心が温かく感じたのです。

そちらのほうに心が喜びを感じてるとわかったのでした。

ということで、クリスマスもお正月のお祝いもすっ飛ばしたけど(汗)、お餅つきは例年通り行った年末でした。

こころのままに 過ごすというのは、そういうことなんじゃないかと改めて思いました。

こころのままに は、

自分がしたいことだけをする、という思考からの独断じゃなくて、

自分のこころが喜んでるか、ワクワクするか、温かくなってるかを道標にしたらいいんだなと思います。

*注意*
相手が悲しむとか相手が失望する、という相手軸で想定するのではなくて、自分がどう感じるか、と、「自分が感じることだけ」にフォーカスして決めます。

なぜ こころのままに を大事にするかというと、

それが唯一あなたらしく生きる方法だからです。

こころのままに生きる2020年でありますように。

お餅つきに行ったお宅で、近くの溝におちてたという子猫を保護してました。
子猫にミルクを飲ませてみたいという願いがこんなとこで叶った(汗)。
生後2ヶ月たってないと思われる子猫。
人懐っこくてどんどん体によじ登ってきて肩に乗っかったままなのが可愛すぎました(愛)。
住んでる村にある山の天神様 ↑ 心地よい元旦のお参りができました
元旦にみた光、白くてくっきりとして、あれを目指そうって思います

知らないところで影響しあってる

先日、霜が降りた寒い朝、凍った車のフロントガラスをお湯で溶かしてから(汗)仕事に向かっておりました。

29号線沿いにぽつんと立つバス停を通り過ぎようとしたとき、そこに70代前後と思える小柄な女性が姫路行きのバスを寒そうに待っているのがみえました。

襟なし前開きジャケット(いわゆるシャネルスーツと呼ばれる上着)を着込んでいるけど、下は動きやすさを優先した”ズボン”のような感じのいでたちの彼女をみた瞬間、頭に自分の母親が浮かんできました。

20年も前の出来事ですが、義理の母が、結婚式をあげなかった私たち夫婦を親しい人々に顔見せをしたいと友人や親戚を招いて食事会を開きました(フランスのレストランで)。

その食事会に私の両親も挨拶がてら日本から参加することになったのですが、そのときのことをバス停に立つ女性をみて思い出したのでした。

海外旅行も生まれてはじめてなら、フランス人達との食事も当然初めてのいわゆる田舎ものの母が、”初めてづくし”で判断がつかなくなったのか、食事会で着る服が自分の選んだものでいいかどうか私にみてもらいたいと私を呼びにきました。

母のスーツケースから出され、そこに並べてあった服やアクセサリーは、相当にちぐはぐな組み合わせでした(汗)。

母が選んでいた上着がバス停にいた女性と同じ形だったのと、上下の組み合わせがちぐはぐだったことから、そのときの母を自動的に連想したようです。

そして芋づる式に、母の選んだちぐはぐな服を横目にみていた父の姿も思い出され、ああ、あのとき二人は人生初の出来事に舞い上がってたな〜、と当時のことが思い出され、ふと、涙がでてきました。

今はもう浄化はしたけれど私のトラウマの元となった両親、クセが強くて面倒くさい人たち、今では私はそれぞれをただの一人の人間として中立的にみているけれど、

でも「わたしの」お父さんとお母さんとして私を育ててくれた人たちなんだと改めて思い返すと、温かい涙が流れてきました。

そして、やはり独特なクセのある兄や妹、なにかに凝り出したらオタク気質になる私たち3人きょうだいのことも続けて思い浮かんできて、

あー、わたしらしい家族なんだ〜と苦笑しました。

そしたら逆にそのクセのある家族たちが愛おしくなって、温かい涙がもっと出てきました。

あの日あのバス停で寒い中バスを待っていたあの小さな女性は、

まさか、自分がそこに居たことで私に「癒しを起こした」とは想像もつかないでしょう。

しかしヒーラーでもセラピストでもない彼女が立っていただけで、私に深い癒しを起こしたのでした。

人はこうやっていつも他の人に影響を与えていると思います。

人はそこにいるだけで、他の人になにかの刺激を与えていると思います。

私なんて何の役にも立っていない、などという方がいますが、

今回のバス停に立っていた女性のように、意図しなくても、ただいるだけで、その存在が他の存在になにかをしていると思います。

実は私たちは1つにつながっている存在だから、とも言えますし、

この世は鏡のようなもので、他人をみることで自分のことを学ぶようにできてるから、とも言えると思います。

だから、あなたがただそこにいること、それがとても大事です。

↑ ニャンコがそこにいて、仕事の妨げになることも、だからとっても大事です……

*ちょこっとカウンセリング12月は、日程の都合がつかずお休みとさせていただきます。

落差があるから

私の家から、5分ほど車を走らせたところに滝が幾つもあります。
↓ これは観光写真からお借りしたもの。

こちらは先日義理の妹家族が遊びにきたとき一緒に行って撮影したもの。
人がうつってるので大きさがわかると思います ↓

滝は、落差があればあるほど水の勢いが強くなり、

水量が多いところなら大迫力の滝になり、

水量が少ないところなら白糸のような繊細な流れの様相をみせてくれます。

滝をみてると、落差があるというのは魅力なんだな〜と思います。

折しも上記の滝を訪れたとき、ダンナさんの7つ違いの妹の落差をちょうど発見したところでした。

ソフィ(義妹の名前)は、亡くなった義理の母によると、一回も勉強しなさい、と言ったことがない子で、それどころかむしろ逆に、

もういい加減、その辺で勉強やめときなさいよ

と言わないといけないくらい、ほっといたら何時間も何時間も勉強してしまう子だったそうです(大汗)。

ソフィは数学が得意だったそうで、その才能を生かしファイナンス分野に進み、現在はお金持ち専用のジュネーブの銀行で働いています。

彼女の勉強しすぎるエピソードは、集中力が人並み外れていたということも表すのでしょうが、遊びやゆるみを持たない感じがして、なんとなく私をビビらせておりました(自分ができないから、苦笑)。

実際、これまでソフィとは話をしてもなんとなく深いところで通じない感じで、わりと表面的につきあってきたところがあります。

それが今回の滞在中、ソフィ家族と裏庭で皆で卓球をしたのですが、

私 VS ソフィ になったとき、

過去に彼女とテニスやバトミントンを一緒にしたことあるけど、いつも消極的な冷めてる感じだったので、

悪いけど、簡単に勝たせてもらっちゃうよ〜 とやってみたら、

ソフィちゃん、めちゃくちゃアグレッシブでした!!(大汗)

その彼女の戦う姿が、意外すぎて面白くて、

「ソフィ、すっごいアグレッシブだね!」と笑いながら言ったら、

彼女も笑いながら、でも、どんどんコーナーをついて打ってきてました….。

なんでも、高校のときに卓球をしてたことがあるそうです。

ひたすら真面目に勉強する秀才で、そのまま銀行勤めしている固いソフィ像と、簡易卓球台でアグレッシブに卓球をするソフィ像の落差がすごくて、いいね!と思ったのでした。

滝と同じで、落差って強烈な魅力になるな〜

見た目ぱっとしない居酒屋で、何も期待しないで頼んだら、どの料理もすごく美味しくて店の評価がぐんと上がることってあると思います。

その居酒屋が見た目もそこそこ綺麗で、味もまあ良かったとしても、そこまで評価はあがらないでしょう。落差があるとそこに人はぐっと惹きつけられるのだと思います。

お嬢様みたいな人が、実は空手の段位者だと聞くとおおっ!となるし、

アイドルの男の子が、男の色気をだす役をこなしてると、そのギャップに萌えると思います(私だけ?!)。

滝 に人が惹かれるのも、あの落差で起こる水の様相が美しかったり、豪快だからでしょう。

と、落差について考えていたら、これは人の人生についても言えるなと思いました。

幼少期に極貧だった人が、苦労して起業してお金持ちになった

極貧とお金持ちの落差が激しければ激しいほど、その喜びや達成感は大きいと思います。

同じように、

小さい頃に家庭環境で幸せを感じられなかった人や、

学校でつらいいじめを体験した人たちなど、

この人たちが大人になってそれらの心の問題を克服して幸せになったときの落差は非常に強いものだろうと思います。

もともと幸せに生まれ、幸せに育った人には味わえない、落差の大きな幸せ。

その落差は大きければ大きいほど、特別で豊かな体験なのだと思います。

その落差の大きな体験をするためにあなたは選ばれた(魂が選んだ)、と言えるのかもしれません。

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私もかつて、幸せって何よ?!と思っていた時期がありました。
今は、大概なんでも幸せと思えるようになりました。
その落差を知ってるから、今の幸せはとても強くて深いものです。

不幸せとしか思ったことがないあなた、あなたも真逆の落差を味わえるひとです。
幸せに変換していくのは、あなたですが、そのお手伝いができます。

興味のある方はHPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/

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我が家の近くの滝は、こちらです:

https://www.himeji-kanko.jp/search/48