新年おめでとうございます。
去年の年末、そして年始と「こころのままに」を意識して過ごしてます。
(こころ は、自分の深いところにあるもので、自我を超えた存在のことをここでは指します)
こうすることになってるからする、とか、こうしたほうがいいだろうという思考や一般常識から何かをするんじゃなくて、
自分が感じることに忠実に従って、生活の中で自分を動かす みたいなことです。
私たちは常に思考して物事を進めているから、「こころのままに」を実行するのは相当難しいのだけど、だからつまり意識しないとできないのですが(意識した時点で思考優勢で動くので実は矛盾してますが)、
なにかしようとするときに、
よし、こころのままに やってみよう
と思って自分のこころにフォーカスすると、いつもと違うことが起こりはじめます。
私が 「こころのままに」クリスマスから年末年始を過ごしたところ……
・クリスマス恒例にしていた家庭での料理をやめて外食になった
・大「そうじ」でなく不要なものを捨てるだけの年末になった(食器を半分に減らして、棚を1つ捨てることに)
・おせちをなくして元旦から自分たちが食べたいものをフツーに食べた
季節の行事をできる範囲で大事にしてきたけれど、今回こころのままに動いたら、それがなくなってました(苦笑)。
来年したくなったらまたするのかもしれませんが、そういうことも含め自分のこころのままにいようと思いました。
ちなみに家族はそういった省略に何の文句もないどころか、私がのんびり楽にしているから、そちらの方が大歓迎のようでした(季節行事をこなすためにどんだけ私がイライラしてたかがわかりました….大汗)。

↑ いつもは裏山でとってきて自作するお正月飾りも、今回は近隣で作成されたお正月飾りを買ってきました。
これを飾ってから裏山にのぼったら、いつもたくさんとれる南天がとても少ないことに気が付きました。鹿などが食べれる高さにある南天はほぼ残っていなくて(つまり食べ尽くされて)、鳥たちでないとつつけない高さに南天が残されてるだけでした。
それをみたら、私が家に飾るために(野生生物の食べ物になってる)南天をとってくるのも考えものだなという視点がもてました。
ところで年末には恒例でご近所の方とお餅つきをしています。
今年も声をかけてもらいました。
こころのままに と感じると、そのお餅つきにも参加したいとは思ってない自分がいました。
お餅は好きだけど、そんなにたくさん食べなくてもいいし、今年はその時間にのんびり読書してもいいなと感じていたのです。
でもそのご近所さんは私たちが参加することを楽しみに待ってくださってるのも感じているので、こころのままに動こうとしても、そこでジレンマがでてきました。
こころのままに、動こうとするときによくみられる問題ともいえます。
自分の意のままに動くことが相手を傷つけたり悲しませたりすることになる、の小さな小さな例です。
もちろん、こちらを選ぶほうがいいよっていう正解はありません。
ここで私がやったことは、こんな感じのことです↓
今年はお餅つきには参加しないと伝えて、読みたいと思ってた本を読んで過ごす
そうできたら、私のこころって喜んでるかな〜
と、こころがどう感じるかを感じてみました。
そして、ま、いくか〜ってお餅つきにいって、いつもの感じでご近所さんと餅つき作業をしてる自分も感じてみました。
そしたら、お餅つきに参加してる自分を想像したほうが心が温かく感じたのです。
そちらのほうに心が喜びを感じてるとわかったのでした。
ということで、クリスマスもお正月のお祝いもすっ飛ばしたけど(汗)、お餅つきは例年通り行った年末でした。
こころのままに 過ごすというのは、そういうことなんじゃないかと改めて思いました。
こころのままに は、
自分がしたいことだけをする、という思考からの独断じゃなくて、
自分のこころが喜んでるか、ワクワクするか、温かくなってるかを道標にしたらいいんだなと思います。
*注意*
相手が悲しむとか相手が失望する、という相手軸で想定するのではなくて、自分がどう感じるか、と、「自分が感じることだけ」にフォーカスして決めます。
なぜ こころのままに を大事にするかというと、
それが唯一あなたらしく生きる方法だからです。
こころのままに生きる2020年でありますように。

子猫にミルクを飲ませてみたいという願いがこんなとこで叶った(汗)。
生後2ヶ月たってないと思われる子猫。
人懐っこくてどんどん体によじ登ってきて肩に乗っかったままなのが可愛すぎました(愛)。

