コロナウイルスによって起こること

昨日近くのホームセンターに猫の爪とぎを買いに行ったら、トイレットペーパー12ロール入りを6つほどを後ろに乗せた軽トラをみかけました。

不思議な買い物だなと思いつつ、ホームセンターの中に入るとトイレットペーパーとティッシュ売り場が特設?してあり、マスク不足のXXXにより品薄のためお一人様2つまで、みたいなことが貼ってありました。

えー!うちのトイレットペーパーもうすぐなくなるのに(私はストック置かないでなくなりそうな頃に買う人)そりゃ困るわ〜と、ほぼなくなりかけてるトイレットペーパーのパックの1つを取り、猫の餌と爪とぎと一緒にとりあえず購入しました。

帰宅して調べたら、デマ?が広がって日本全国でトイレットペーパーが品薄なのだとか(汗)。

東京に住んでたときは、このような事態が一気に広がるのを身近に肌で感じてたけど、人口が少ない今の場所でこういうのをみると逆にお〜ここまで来たか!と余計にその凄さを体感します(苦笑)。

コロナウイルスで一斉学校休校という事態も起きてますが、

この動きはやはり意味があるんだな〜と思います。

コロナウイルスから起こる「病」の方だけにフォーカスしてたら、恐ろしかったりパニック 気味になると思うので、

そこはそこでマスクや人が大勢集まる場所を避ける対策をしつつも、

この大きな流れをもっと遠目にみて、これが今起きてることは、今後のよいきっかけや価値観変更になるのではとみるのがよいと思います。

なんとなく私が感じたのは、例えば小中高一斉休校やイベント中止の一報で、

えー!困る!とか

そりゃないわ〜

と自分が「嫌に思った部分」、

そこと向き合ってよい流れにしましょうね、みたいなことなのではと思いました。

例えば、

学校長期休校のニュースを聞いて、

子供いるのに仕事どーすんの!?

と思った方は、仕事のことに力が入りすぎてる(仕事もしくはお金への思いが強すぎる)のかもしれないし、

子供らが家にずっといると毎度のご飯や世話が大変だ!

と思った方は、お子さんとじっくり腰を据えて向き合ったり時間を過ごすことを苦手としてるのかもしれないし、

イベント中止が何よりも嫌だ〜!となった方は、

日常の嫌なことからイベントに目を向けることで自分の何かをごまかしているとか…..

そんなところが浮き彫りになるから、そこに気づいて、それを変えてくきっかけにしていく、

そんな感じで過ごしていれば、この騒ぎも貴重な機会ととらえることができます。

私はというと、この騒ぎの余波で自分の楽しみが奪われるのでは?!と反応したタイプです(汗)。

あ〜、これからしばらく日本全体がいろんなことの自粛ムードの中、私は何に気がつけるでしょうか(苦笑)。

↑ ウイルスのことなど関係なく、ミヌはもっふりしてます(?!)

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最後に、ホメオパシーセルフケアキットを持っていらっしゃる方は、自宅待機推進となればまさにキットは強い味方です。

簡単な使い方シェアしておきます:

周りにウイルス感染者がでてきて、感染を恐れる状態になったら:Aconite

発熱しだして骨や筋肉にインフルエンザみたいな痛みを感じたら:Gels

発熱しだして水分を欲しがる感じ、または乾燥した咳をしてる: Bry

熱があがりだしたら:Bell

咳がでて痰がからむなら:Ant-c

激しい咳がでるなら:Dros

鼻水などがでてきたら、その状態や色に合わせてレメディを選んでください。

コロナウイルスの症状だから特別なレメディをというより、

普段の風邪の対策のように、目の前で起きてる症状に合わせてレメディを選択してみてください。

もちろん重篤や緊急の症状では医療機関を受診されてくださいね。

*急性症状でレメディを処方して欲しい方は、メール相談も受けています(3.000円税込)。
 customerarnica@gmail.com までどうぞ。

見るのも聞くのもつらいとき

小学生のお子さんのことで、ちょっとしたご相談がありました。

そのお子さんは、先生がクラスの誰かを怒っているのを聞いているのがとてもつらい

のだそうです。

大人でも誰かが叱責されてるのを聞けば不快になると思いますので、心が摩耗していない(汗)子供たちなら尚更そういうシーンでは嫌な思いをすると思います。

特に繊細だったり、心の優しいお子さんは、それを自分のことのように捉えてしんどくなるのかもしれません。

まず、こういうとき、最初に確認したいのは、

その先生の怒りが、叱責してる生徒の言動や行為にたいして「適当であるか」だと思います。

ー生徒への叱責が先生の個人的な感情の噴出口になっていないか

ー叱責が生徒達をコントロールするために使われていないか(指導なのか威嚇なのか)

もし、お子さんが怯える先生の叱責に上記のような可能性があるなら、学校の管理組織か上部組織に相談するのがよいと思われます。

でも、もし、先生の叱責の度合いが許容範囲(それなら怒ってもしかたないなと思える)ならば、

他人の叱責を聞くのがつらいお子さんのケアはどのようにしたらよいでしょうか。

そんなに気にしなくてもいいよ、と言われても、声は聞こえますし、見えてますから、それをスルーするのは難しいかもしれません。

私は、こういう状態というのは、

遠い国で起こっている戦争を見聞きする

のと似ていると思います。

被害の度合いやリアリティは違うけれど、遠い国で攻撃をうけて破壊されたり、そこに暮らす人々、特に子供達が被害に遭ってる事実をニュースで見聞きすると、つらくてたまらなくなる、それと似た状況だと思うのです。

(そういうニュースを聞いて寄付するとか署名集めるとかのアクションのことは横においておきます)

先生に向かって、そんなに怒らないでくださいと児童が言えないように、

攻撃する国に直接抗議することは簡単にはできないし、

怒られてる生徒に声をかけることがその場でできないように、

攻撃されてる民衆を助けようとするのは距離的&物理的に難しい。

そもそも、その戦争はどちらが悪くてどうして起こってるのかを簡単に分析できなくて、

戦争を回避する手段が大人たちにもわからないように、

怒る先生と怒られる生徒をみながら、先生の声が怖いし嫌なんだけど、

何でこんな事態になってるのか、どうしたらいいかもわからない、

だから、ただ見聞きするしかない状況という意味で似ていると思うのです。

こういうシーンにいるとき、子供の性質によって反応は違います:

先生は怒ってばかりで嫌い 

と先生を非難したり怒りを感じる子もいれば、

あの子怒られてかわいそうと

クラスメートに同情したり、悲しくなったりする子もいれば、

ああ、この怒られてる雰囲気はいやだ〜と

心がただ重くなる子もいます。

私の場合は、いじめでも戦争でも話を聞くと、やってる側を憎む気持ちを自動的に感じてしまいます。

こういう感情や思いは、自然と起きてしまうので、そこは変えられません。

でも、この地点で終わってしまうと、人は、言葉にするならただ無力感を感じてしまうのだと思います。

嫌な状況を知ったり、見たりして、それに対して感情がわき起こるのに、何もできない自分で終わってしまうからでしょう。

こういう一見何もできなさそうときであっても、私たちが能動的にできることがあります。

それは

祈る

というアクション。

祈る、というと、祈りの言葉でも唱えるように宗教チックなイメージを持つかもしれないので、

もっとわかりやすい言葉でいうと、

幸せを願う

平和を願う

というアクションです。

先生が生徒を怒ってる 

→ 怒ってる声、いやだな、つらい、聞いていたくない とまず自分の感覚を感じる

→ つぎに皆の前で怒られて嫌な思いをしてる生徒を思いながら

 XXちゃんが幸せでいますように と怒られてる間、願ってあげる

怒ってる先生、全然好きじゃないけど、

XX先生も幸せでいますように と先生が怒ってる間、願ってあげる

こうすると、ただ嫌なシーンをみせられ続けてる自分から、能動的にアクションを起こしてる自分になれます。

全然違う気持ちでいることができるのです。

私は子供の頃、平和の祈り(長崎出身なので)という言葉を何度も聞きました。

祈りって、ただのごまかしじゃないの?!、具体的に何か進めるほうがよい、と長いこと思ってました。

でも、特に、この仕事をするようになって、エネルギーというのを意識するようになって、

祈りや願いというのは、ごまかしでも、ただの「形」でもなく、

とても能動的なアクションで、見えないけれどもとても大きな力があるのだと腑に落ちました。

私たちの元は1つにつながってる波動みたいなもので、誰かが誰かの幸せを願う、そのエネルギーというのは私たちに強く影響を与えるものなのです。

その影響は周りの人だけでなく、自分自身にもです。

ですので、自分が実際にはなにもアクションできないけど、心が痛くなる出来事があったら、

あなたやわたしができること、

それは、その当事者たちの

幸せを願う

もしくは全体の平和を願う

ことだと思います。

長くなりましたが、

私が、その心優しい繊細なお子さんにアドバイスをあげるなら、

今度、先生が怒ってる間、

先生と怒られてるお友達が幸せでいられますように、って願ってみてね、

もっと願いたかったら

クラス皆が幸せで平和でいられますようにって、心の中で願ってみてね、

と言うと思います。

憎い相手ほど、幸せを願ってみる。→ ハードルとっても高いのですが(冷汗)、そうすると、相手だけでなく自分にも幸せな感覚がやってきます〜 

改善したいときに、何を変えるか

日々の暮らしの中で、自分の問題点に気がついたときに、なんとかしたいと思いますよね。

そういうときに何を変えるか、について、書きたいと思います。

例えば、子供にいつもうるさくいってしまって、それでしょっちゅう喧嘩・険悪になる、それをなんとかしたいなと思ってるとき、

もう少し優しい言い方してみよう とか

もう少し注意する回数へらしてみよう とか

自分ができる具体的な策が浮かぶかもしれません。

それらを実行できて関係が改善するなら、それが早道だと思います。

痩せたい、そのためには食べる量を減らして運動もする みたいなダイレクトな方法です。

でも、現実には、それがなかなかうまくいかないので問題が膠着してしまいます。

こういうとき、本当に改善したほうがよいところは、実は違ったりするのです。

改善を目指すのは、

自分の態度 や やり方 ではなくて

「自分の気分とか気持ち」です。

自分の気持ちや気分をいかによくするか、が改善するところなのです。

つまり、改善すべきは、相手の態度でも、自分の態度でもなくて、

自分の気分や気持ちなのです。

今、子供に過度に注意をしてしまうのは、

子供の態度や子供のなにかが悪い、とあなたが判断してるからです。

それが悪いとかよくないと判断してるから、あたなの気分はよくない、

もしくは、子供の悪いところを私がなんとかせねばならないと思ってるから、

気分がすぐれないのです。

自分以外のひとのなにかが悪いと思ってるときや、

それを自分が変えねばならない状態というのは気分がよくないですよね。

だから、その自分の気分自体を、よいものに変えること、これが改善するところになります。

目の前の自分が問題と思ってるその状態をみつつ、どうやったら自分の気分を楽にできるか、これに取り組むのです。

例)子供が宿題をしていない

この状況で、どうすれば自分の気分が楽になると思いますか?

この答えは、人により様々なので、これが正解というのはありませんが、

例をあげるならば:

宿題をしていない → それを気にしてないならこの子は大物だ! 

と考えたら、気分が楽になって、宿題はしときなさいよ〜って軽い感じで言えて、それ以上は気にしないでいられる。この考えで気持ちが楽になるひともいるかもしれません。

宿題をしていない →  この子の人生を長い目でみたら、宿題のようにやるべきことは自主性を持ってやることを学ばないとならない。この子は今、それを学ぶ機会を与えられてる、だから、これはこの子にとってチャンス。私は1回宿題やりなさいっていった、もうそれで十分、私の役目は果たした、

と思えば、すっきりした気分でいられる人もいると思います。

もしくは、そこまで完全に親が手をださない状態を選ばなくても、

一応、毎回声だけはかけるほうが自分の心が楽なら「宿題はやっておきなさいよ」と声をかけることはよし、とすればいいのです。

宿題をしなさいと何回も声をかけることを「よし」としてれば、あなたの心は楽なのです。

自分は口うるさい親になってるのでは?!と自分で自分を責めてるから苦しくなって、そうさせてる子供に対して怒りがわいてくるのです。

口うるさくいうことで子供と毎回喧嘩になったとしても、子供はこうやって言い訳して反抗するものだから〜と流していれば自分の気分は楽でいられます。

将来、子供から「俺のかーちゃん、うるさかった!」って言われて笑い話になるかも、って想像すると、それもいいかもなって思えるなら、どんどん口だしてもいいと思います。

そうやってワイワイやってる親子も、漫画チックな感じで人情味があって、いいんじゃないかなと私は思います(微笑)。

だって、「全てあなたの責任ですからね」ってかかわらないで冷静にいられるより、暖かさがあるじゃないですか。

ということで、結局のところ、あなたの心が自分を責めたり、相手を責めたりしないで、楽な気持ちでいられたら、目の前の問題は問題ではなくなるのです。

ということで、なにか改善したいとき、

なによりも大事なのは、

あなたの気分や気持ちをよくすることです。

これは別の言い方をすると、

あなたがあなたのしてることを肯定してあげること

と言えるかもしれません。

↑ 息子のことが大好きなスコッチ。
今は180cmとデカくなった息子ですが、彼も小学校のとき、夏休みの宿題のほとんどを最後の1日で夜中までかかってやるようなタイプでした(大汗)。計画をたてても計画通りにならないことを小学校で6年かけて学んだひとだと思います(笑)つまり、非常にゆっくり学ぶタイプです(苦笑)。
私の場合は、子供とはいえ自分とはタイプが全く違うんだ〜、だから私がいいと思うことが彼に合うとは限らない、と理解したら楽になって、ほおっておけるようになりました。