Digital detox

”デジタル デトックス”って言葉が流れてきました(どこから!?)。

聞くだけで意味が推測できるような、ワードです(汗)

IT依存者が多いアメリカからでた考えのようで、もともとは単にネットとつながらない時間を増やそうってことみたいですが、SNSにいつもつながることで精神的に疲れている状態を脱却しようという意味も含んでいます。

子供にはゲームの時間を決めてやりなさいとか、スマホは何時以降いじらないようにとルールを強いている親が、実はスマホをいじっている時間が一番長かったりして(苦笑)。

この時代、オンラインにつながない日はゼロという方も多いと思います。SNSをほぼやっていない私もオンラインにつながらない日は、旅行中でもない限りありません。

(デジタルデトックスしようと、山の奥にでかけてみつけた不思議な川の風景↓)

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よく考えたら、以前って、どうやって毎日過ごしてたんだっけ?

オンラインにつながっていないときはTV?読書?なんか書いてた?それとも団欒?

その記憶がたどれないぐらい、デジタル機器に密着した生活になってます。

私はホメオパシーという自然療法をやっているので、ナチュラル系の考えをもった人に会うことが多いのですが、そういう人達でもデジタル機器は抵抗なく(?)使っているようにみえます。自然に近い生活を、と言っていても、デジタル生活は拒まず、そこに関してはアナログへの逆戻りはないようで(謎)。

そこって、なんというか不思議な共存だな〜と思う私。
我が家にしても、この自然豊かな生活で不便を感じていないのは、デジタル生活のおかげだと思いますし。

冒頭の言葉、デジタルデトックスに戻ると、これだけデジタル生活が浸透しているのでなくすというのは考えられず、そこはやっぱりバランスが大事なんだと。飽食状態だった人がプチ断食するみたいなもんでしょうか。

オンライン中毒になっているとなにが足りないって、

ー静けさ

ー時間

だと私は感じます。

オンラインにつながっていると孤独じゃない気がするし、気晴らしもいっぱいある。でも、ある程度まとまった時間静かにしていないと自分の中から涌き上がってくるものをみれないし、感じられないんじゃないかな〜と。オンラインでたくさんの人とつながっているようだけど、肝心の自分自身とつながっていない状態になるような気がします。

時間に関しては、ネットしていると文字通りアッという間です。

1時間読書をして本を閉じたときと、1時間ネットやって画面閉じたときのあの充実感の違い(大汗)。

やっぱり無駄に過ごしてるなわたし(反省)。

ときどき、意識してデジタルデトックスしたほうがいいな、こりゃ。

 

 

猫と山に

去年、猫と裏山をよく散歩して(登って)ました。

おかげで足腰が太く(悲鳴)いや、丈夫になりました。

その後、春になって夏に向うときに山に入るのは止めました。

ヒルやら虫やら、へびなんかがでる時期だからです。

山に生まれ育ったご近所さんでも春の終わりぐらいから夏までは山に入らないそうなんで、わざわざヒルやら蜂やらへびなんかに噛まれるリスクを避けるってことなんでしょうね。

そして今年もまたそういう厄介な生き物が冬眠する時期になりました。

ニャンコも久々に山に復帰です↓

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ワイルドに探索しております。ニャッニャッ。

古木で爪を研ぎ放題、シャーシャー。

斜めに生えてる木にジャンプしたり、駆け下りたり、なんかいいな〜(って私も体動かせよ!)

中高生の苦しさ

このところの劇場用のアニメ作品で、これは!と思ったのは「バケモノの子」(細田守監督)でした。細田監督の作品は心理の描き方がかなり好きで、よくできたフランス映画をみた後のような余韻が残ります。

以前はジブリ作品以外では、劇場用アニメをみることはあまりなかった私ですが、ここ最近は観てみたいと思うアニメ作品も多く、そして実際観ても期待を裏切られないことも多いので、私のように詳しくない者でもそう思うくらい円熟してきた分野なのかと思います。それとも”アニメだし..というような”私の個人的な偏見が単になくなったせいなんでしょうか。

今秋に映画館で

「心が叫びたがってるんだ」(長井龍雪監督)をみました。

小さい頃の出来事がきっかけで一言も話せなくなってしまった女子高校生が主人公のアニメ映画作品です。

そして先日はDVDで

「Colorfulカラフル」(原恵一監督)をみました。

森絵都原作のベストセラー小説のアニメ映画化作品。自殺して1度死んだはずの中学生男子の身体に違う魂が入って生き返るというストーリーです。

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どちらの作品もなかなか感動しました。中高生というのは可能性無限のうらやましい時期でもありますが実際には生きづらい年代でもあるように思います。特に中学生というのは、実は人生で一番つらい時期ではと私は思います。それでもこの時期にはそれを乗り越えるだけのエネルギーがでてくるのが人間の身体のよくできてるところ。

上記の2作品ですが、一言も話せなくなった少女も、自殺するほどの状況におかれていた少年もラストにはそれぞれ前進します。そのきっかけとなったのは、母親でもなく父親でもなく、ましてやセラピーなんかでもなく、まわりの1クラスメートだったというのが非常にリアルだと思いました。

少女の方は”恋”というのがキーワードにもなっているので、彼女が自分の問題を克服することになったきっかけがクラスメートの男の子だったというのはわりにわかりやすいです。恋というのはそういう力がありますから。

でも「カラフル」の方は、ぱっとしない凡人なオタクのクラスメートの男子が、重要な役割だったんです。

そのオタクな男子は、自殺した少年がいじめられていたときにかばってくれたわけでもないし、心を溶かすような優しい言葉をかけてくれたわけでもない。でも確実に少年に変化をもたらしました。

2作品とも面白いのは、問題を克服する鍵となったそれぞれのクラスメート達が、問題を抱えている前からずっとクラスメートだったことです。そこに、ずっと教室にいたのに、主人公達は以前は彼らがそんな役割をしてくれる人だったとは意識もしていなかった。

なぜ彼らの存在に気がつくことができたか?というと、それは主人公達の”見る目”が変わったからだと思いました。特にいじめを受けていた「カラフル」の主人公は、それまではまわりのクラスメートはいじめる奴らか、いじめをみて笑っている奴ら、もしくはそれに迎合している奴らの集合体でしかなかった。

それが自分の見る目を変えたら、仲間と呼べそうなやつもいたってことに気がつくのです。全部がクロでなくて、実はシロもいて、灰色なんかもいて、みたいに違ってみえてきたんだと私は解釈しました。

でもこの”見る目を変える”、”見方を変える”って、いうほど簡単じゃないです。大人だって難しい。そんなんで「カラフル」の自殺して死にかけた中学生に”違う魂が入った”という設定は秀逸の選択だな〜と思いました。そのくらいのことが起きない限り、1度自殺した中学生がまわりを違う見方でみる、なんて技にたどり着かないのかもと思うからです。

話はずれましたが、この2作品をみて、中高生の世界における他者=クラスメートや同年代の子供達、の存在は本当に大きいんだなと改めて思いました。親や先生に認められることよりも、たった1人でもいいから、同じ立場の子に認められること、それがどんなに価値を持つことか、わかるように思います。

無視したり、いじめたり、最悪なのもクラスの皆、でも折れた心を修復してくれるのも、自分に力を与えてくれるのも、またクラスの誰かだったりするわけです。そして自分もまたその中の1人であって、人をおとしめることも、救うこともできる存在だと気づくと、また違う見方を持てるかもしれません。

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限界をしる

思春期の世代に向けた、でも面白くて読んでしまうような

”人生について教える本” はないかと探していたら、

よしもとばななさんの

「おとなになるってどんなこと?」(ちくまプリマー新書)

という本が目にとまりました。

早速入手して読んでみると、思春期よりも20代くらいの生きづらい若者が読んだ方がいいかもしれないという感想を持ったのですが(実際、こどもだけでなくそういう世代に向けても発信されてる)、中に紹介したい箇所がありましたので、ここに勝手に書かせていただきます。

「死んだらどうなるんだろう?」っていう問いに答える章なんですが、ばななさんのお母様についてこんなことが書いてありました。(以下斜字部分抜粋です)

私と母は決して仲良しではなかったんです。

もちろん嫌っていたわけではないんだけれど、相性が悪かったというか、距離のある関係でした。

母はとにかく姉が好きで、最初から最後まで姉っ子(?)でした。

ばななさんのお母様は最後のあたりは少しボケていたらしいのですが、その頃は3分に1回くらいの割合で「お姉ちゃんはどこ?」と言っていたらしく、ばななさんは切ないなあ、と思ったそうです、確かにせつないです…

でもばななさんは感情的にはならなくて、お姉さんはお母さんとの関係を長年真摯に作ってきたし、自分はお母さんから逃げてばかりいたので、そうなったのは当然だと思ったそうです。

お母様が亡くなる最後のほうで、お姉さんが外出されたときがあり、お母様が暑くて汗をかいていたので、ばななさんが水を飲ませたり汗をふいたりお世話していたら、その暑さに耐えられなかったのかお母様が

「なんとかして」

と言われたそうです。

どんなときでも「なんとかして」、と人に言う人だったらしいです。
そしてこう思ったそうです。

私はふいに「これ以上は愛せないな」と思ったんです。

今持っているこの気持ち以上には愛せない、それが私の限界だ。

たとえば母を抱き上げて、自分の家に運んで、どうしても自分が看病したい、そういうふうには思えないかもしれないな、そういう関係ではなかったな、そんな淋しい気持ちでした。

私は心の中で、お母さん、ごめんなさい、と思いました。

生んでくれてありがとう、身体が弱いのに精一杯育ててくれてありがとう。ここまでしかできなくて、ごめんなさい。

実際にはこれがお母様との最後の日ではなかったそうですが、ばななさんにとってはこのときがお母様との別れの日だった、と後で感じたそうです。

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自分の母に対する愛の限界点みたいなものをはっきりと自覚する、というのは1つの大人になるってことかもしれないと、私は読んでいて思ったのでした。別の言葉でいうと、目の前の親を「母」としてではなく、「1人の人間」としてみれる点に達したということかなと。

親だから、母だから、愛さなきゃ、愛されなきゃ、といった思い込みは多いのかもしれません。それで罪悪感を持っている人もいるくらい。

ホメオパシー療法にかかる人でも、心の問題をさぐっていくと母との問題にぶつかる人は本当に多いです。母子というのはそのくらい特別な関係だと思いますが、それぞれの母子にそれぞれの適切な境界線があるので、それをみつけていくのも大人になるってことかもしれません。

私自身に関しても母との問題をクリアにするのには長くかかりました。ホメオパシー療法を受けて、いろいろなことが解消されて、最終的に(もしくは現時点では)母と私の間の適切な距離はものすご〜く離れているものだとわかりました。それに気づいて、そして自らその距離を設定してからが、私は本当の意味で大人になったのかもしれません。

エネルギーの観点からみても、それは親の波動の影響から抜けでるということでもあるかもしれなくて、そうしたら自分の波動で生きれるってことなのかもしれないです。

男女の関係での距離は計りやすい、身体の関係がもてるかとか、いて居心地がいいとか、友人関係もそうです。でも親子、兄弟となると冷静になれなくて、理想の暖かい愛の関係を望んでしまう。

もし自分が母をあまり好きではないとしたら、いつまでも母側からだけ無償の愛を望むのはアンフェアとも言えるかも。

まわりの人を見渡しても、「心からまるごと愛せる母」を持っている人って、実は非常に少ないのかもしれません。

でも、そういう母のもとに自分が生まれなかったとしても、自分がそういう母になることはできる。子供がいない人でも飼っている動物や植物、まわりの人々に愛を注ぐことはできる。

もらう方からあげる方になるのも、大人になるということかもしれないです。

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親の影響から抜け出せない方、ホメオパシー療法が助けになるかもしれません。

興味のある方はHPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.wordpress.com

女性が集まると

先日、近所の学校で”お紅茶の入れ方講座”なるものがありました。
家庭の教育力向上を目的にPTAが主宰する教室の1つだったんですが、私は係でした…(辛)。

その講座は、紅茶の効用/茶葉の種類などという実用主義な視点ではなく、ティータイムを楽しみましょう、できたらエレガントに、みたいなマダ〜ム視線の催し。係じゃなかったら、私はまず参加しない類いのものです(苦笑)。

会場にはスコーンなど先生お手製のお菓子が4種類もならべられ、キャスキッドソンまがい(?)のイングランドテイストのテーブルセッティング、が、たたみの和室の座卓テーブルに並べられました(汗)。

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様々な茶葉の”お紅茶”をおしゃべりしながら楽しむ会でしたが、茶葉がいいからなのか、温度管理がいいからなのか、とにかくぽっかぽっかしてきて、カーディガンを脱ぎ、腕まくりしないといけないくらいの汗がでてきました。まさにその年齢である私は思わずホットフラッシュか!?と思いましたが、他の出席者の方や校長先生(男性)まで汗がすごくでるとおっしゃっていたので、紅茶の効用のようでした。

私は朝食はずっと紅茶派で、何十年もアールグレイを飲み続け、ここ最近はチャイなんですが、それぞれリーフティでしか飲まないのにここまで紅茶の作用で汗がでることはないので、なんでだろう、この紅茶の秘密は?と思い、ふと客観的な視点で会場を眺めると、参加者のママさん達がものすごいキャピっとしておりました。

ワクワクした少女のような華やかな雰囲気で紅茶を楽しんでおられたんです。私は皆さんよりも一回りほど年上ということもあって、なんかかわいいなと思いました(それでもまあ皆さん、それなりの年齢なんでしょうが…)。

その皆さんの全体の感じは、女性特有のエネルギーなんだろうなと思いました。男子が集まってワイワイやっても決してでないこの雰囲気。不思議なものは全くみえないけど、彼女達のまわりがなんかフワフワしてピンクのような白のようなそんな雰囲気がありました。女性って集まるとなんでか声のトーンが高くなる。

本来、女性ってこういう生き物なんだよな〜。こういう可愛さとフワフワなエネルギーがあって、そこに男性がひかれる。守ってあげたくなったり、その柔らかさみたいなのに包まれたい気持ちになったり、元気づけてもらいたくなったりする。

普段のママさん達には、こういう感じの雰囲気を感じたことないから(苦笑)、日々の生活っていうのは、仕事に子育て、家事もあるしそれどころじゃない、ってことなんでしょう….

それとも、ひょっとしたら女性って複数集まらないと、こういうエネルギーが出せないのか??

エレガントであることとか、目の前のお菓子やお茶をたわいもないおしゃべりしながら楽しむって、女性にものすごく向いてる=本来備わっている性質なんだろうな…などと先生のアフタヌーンティーパーティの起源のお話を聞きながら思いました。

そんなフワフワ感やキャーキャー言う元気が完全に欠落している自分に気がついて、この会に参加できてなんだか良かった、と思いました。女性特有のエネルギーに包まれて、身体がぽっかぽっかしたんでしょうね、きっと。