猫がでてくるおはなし:「順番を守ること」

こんなお話(漫画)みつけました ↓

動物を飼っている人は特に、ぐっと来るでしょう。

http://togetter.com/li/780318

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そして同じ作者の方の別の作品。

おかしいやら、恐ろしいやら (汗)
ページ下にある「次のマンガ」もクリックして続けて読んでみてください… ↓

http://www.comic-essay.com/episode/read/45

愛する者に厳しすぎる

タイトルの「愛するものに厳しすぎる」という言葉は、
先日観た映画の中のセリフでした。
(”Love and other impossible poursuit” 邦題 ”水曜日のエミリア”  日本公開は2011年)

このセリフの言語が気になったので、何度も再生して聞き取ってみると

It’s the people who you love you’re hardest on. のようでした。

直訳すると、あなたが一番きつくあたるのは、あなたが愛している人々ですね、
になるでしょうか。

映画のストーリーは、ナタリーポートマン演じる新米弁護士が、
就職した事務所で出会った既婚で息子がいる上司と恋愛関係になり、
彼の子供を妊娠したのがきっかけで、既婚だった上司が離婚を選び、
彼女が彼の新しい妻になるという恋愛話です。

ただの恋愛映画でないのは、彼女は念願の彼との子を出産するのですが、
その赤ん坊が生後3日でSIDS(乳幼児突然死症候群)で亡くなってしまい、
そこから彼女がもがいていく過程がメインだからです。

タイトルのセリフは、彼女が赤ちゃんを亡くしてから、うまくいかなくなってしまった彼(上司)との関係をやりなおそうと二人で話し合いをしているときに、彼から言われた言葉です。

このセリフのあとに、

彼はもう彼女との関係をつづけることは無理だと言い渡し、別れとなります。

私はアメリカ映画というのは全般的にあんまり好きではなくて、それは心理描写が嘘くさいというか全然心に響かないからなんですが、軽い気持ちでみたこの映画は意外に真にせまったものがありました。

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ナタリーポートマン演じるヒロインは、赤ちゃんを亡くした後、自分の心の痛みだけにフォーカスして生きてます。

自分だけがつらい大変な思いをしてると思い込んで、周りの親しい人に接しています。

彼女の親友にも彼女より少し前に流産したエピソードがでてくるのですが、その親友が赤ちゃんをなくした彼女を優しくなぐさめようとしても、

流産と生誕後に死ぬのはわけが違う、一緒にしないで!

というようなことをその友人に言ってしまいます。

可愛い赤ちゃんを失くした悲しみは、上司である彼女の旦那さんだって父親としてショックなのに、自分一人だけがつらい思いをしてると思い込んでます。

まあ、つまり自己中心的な感情の中で日々生きてるわけです。

でも彼女の心理状態というのは、よくあるものだと思います。

なにかで悩んで苦しんでいる人というのは大概こういう思考です。

自分だけがつらい、自分の世界だけでしかものをみてない状態です。

私もこの状態に陥っていた時期があり、そのときはこういう思考でしたし、今でもこういう思考になりそうなときはあります。

自分だけがひどい目にあっていると思い込んでいるから、つらくなる。

自分だけが苦しいと思っていて、誰もわかってくれない、孤独だと思ってるから、それが「悩み」になる。

もし、楽しそうにしている周りの人々も深刻に悩んでいることがあると知ったら、かなり気が楽になるのではないでしょうか。

つらさの度合いを他人と比較するということではなくて、

自分だけが苦しみもがいてるという悲しさどっぷりの小さな世界のフタを開いて、

具体的に何もしてくれなくても、人が苦しんでるのを聞くと心を痛めてくれる人の優しさや、

手を差し伸べてくれなくても、ただ優しい視線を送ってくれる人の暖かさに気づけたら、自分の悩みは軽くなるのではないでしょうか。

また悩んでるあなた自身も、
自分より苦しんでるひとがいたら、
私もですよ、とか、なんとか励ましてあげよう、寄り添ってあげようって思う自分の暖かさや優しさをも思い出したら、意外と自分は強いって思えるかもしれません。

そう思えたら、自分の悩みは思ったよりも軽いものかも、と思えて、
もしかしてなんとかできるかも、と思えてきて、
そしたら、じゃ、なんとかしようって先に進めるのではないでしょうか。

自分がつらいときに、愛する者に厳しく対応するのは、その愛する人たちが自分のつらさをわかってくれてないと思っているからでしょう。

厳しくしてつらくあたることで、自分のもつ苦しみを共有してほしくて、そこから救ってほしい、と実は願っているんですよね。

もっともっと、このつらさをわかってよ = だから、もっともっと私のことを愛してよ、という言葉の裏返しだと思います。

それに気がついたら

ストレートに、助けて、つらいよ、と弱さをみせるのもいいですよね。

マザー •  テレサの言葉から

If you judge people, you have no time to love them.

私を助けてくれないと批判ばかりしてたら、愛する人を愛する時間がなくなりますよ(私の意訳)。

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自分の愛する人々とうまくいかなくて、つらい方。ホメオパシー療法が助けになるかもしれません。

ご興味のある方はHPの方へ→ https://arnicahomeo.wordpress.com

秋晴れ、猫。

朝晩冷える時期に、ふかふかに干したふとんで寝る幸せ。
重いけど、綿のふとんがやっぱ好きですわ〜

秋晴れでおふとん干してたら、ニャンコが乗っかって毛繕いをしておりました…(汗)

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干してるふとんの上に寝転ぶ !?

思いつかなかったけど、きっと最高に気持ちいいに違いない。

思わず私も一緒に寝転びたくなったけど、この体重ではふとんは地面に落下すること間違いなしでしょう(苦笑)。

代わりにホカホカに?干されたニャンコを後で抱っこさせてもらいました。

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ピカピカの野菜

昨日、ある女性が作ったお野菜を頂きました(二度目です)。

彼女の作った野菜は、私にはぴかぴかしてみえます。不思議なものが見える力は全くない私ですが、ぴかぴかという形容が自然とでてくるほど、彼女の作った野菜はかがやいてます。
なぜかわからないのですが、畑でとれたての新鮮野菜だから、ではない、なにかが違う感じがあります。

昨日いただいた中には黒豆の枝豆があったのですが、食べて思わず声がでました
「うわ、なにこれ!」 甘いんです。
目をつぶって口にいれたら、”これ、とうもろこし?”と思えるような野菜特有の甘み。しっかりと噛みごたえがある厚みがあって、噛みしめるとじゅっと甘みがでてきます。こんな味の枝豆は大げさでなく生まれて初めて食べました。
う、うますぎる(涎)。

枝豆をもりもりつまみながら、どうやってこのようなものが作られたんだろうと思いを巡らせました。品種やら気象条件だけでない、特別な手間を感じます。

この野菜達に、どれだけ愛情=エネルギーが注がれたんだろうか….そういう観点でみると、この方は様々なことにご自分の愛情を注いでいるんだろうと想像できました。まるで自分の子供に愛情を注ぐみたいに。
そそぐ愛情が大きすぎて、その方自身が疲弊している可能性もあるだろうな、とも推測できました。

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”女性は子供のためだからと自分を犠牲にしないように” というような言葉は、よく言われますし、雑誌や本なんかでもみかけます。自分の人生を生きることはとても大事ですが、でもそこには2種あると私は思ってます。

1つは「お母さんはあなた達のために」というような言葉を使って子供に恩を着せたり、犠牲という文字をちらつかせて子供をコントロールするような母で、心が伴わないのに無理に自分を犠牲にして(いるような道を実は自らが選択して)いるパターン。

もう1種は、心からの愛情を持って、無意識に滅私的に(私利私欲はなく)子供を育てているパターン。

そういえば江原啓之さんがどこかでこんなことを言っていて印象に残っています(言葉は正確じゃないです):

親が自己犠牲をしているから、子供が輝くことができる
自己犠牲がないと子供の輝きはでてこない

これはもちろん上で書いた2種めのパターンの親のことです。

こんなことを考えていたら、リリーフランキーさんの書いた「東京タワー」にでてくる彼のお母さんを連想しました。

リリー氏のお母さんは、まさにそういう滅私的なお母さんで、どうしようもない怠惰な息子に愛情を注いで尽くして尽くして(周りの人にもたくさんの思いやりをあげて)、最後には、小さく小さくなって亡くなりました。
まるで自分の与えられるエネルギーを全て注いであげた後のように。このオカンの死ぬあたりの場面は、今思い出しても涙がにじみます(読んだときは、号泣でした)。

自分の愛情、エネルギーを他の人(こどもを含む)に与え尽くして人生を終える、なんて尊い行為だろうと思いました。

そんなことまで考えて目を潤ませながら、目の前の”尊い”野菜をバクバク食べて、ついつい赤ワインを3杯も頂いてしまいました(コラーッ!)。

苦しい自己犠牲を自らに課して暮らしている方。もっと違う生き方を選択できるお手伝いができるかもしれません。ご興味のある方はホメオパシー療法のHPを御覧ください:https://arnicahomeo.wordpress.com

寂しさ

先日、孤立感が際立ってみえるケースをとりました(ホメオパシー療法で)。
そしたら、翌日なぜか私の中にも孤立感が沸き起こり、気づくと家族に私の孤立感について語っておりました。

ん、ん?私は自分の生活の中で、孤立感を感じたりしていなかったんだけど??
そのケースの波動で私が感化されてしまったのか…..。
こう考えたのは、実はこれまでにも、ケースの中で強くでてきた症状が翌日に私にもみられたことがあるからです。

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そんなことを思いながら、先輩ホメオパスと会う機会があったので、ケースをとった後にそういう体験があるかについて意見交換しました。ちなみに、あるイギリス人ホメオパスはケースを取った後、プルービングしているので(そのケースのレメディの影響を受ける)そのケースと同じレメディ1粒を毎回取ることにしている話は聞いたことがあります。

先輩ホメオパスが言うには、私の中にあるなにかとケースのなにかが引き寄せ合っているのだから(私の中にそういうものがあるので、そういうケースがやってくる)、ケースをみたあとで、私の中にあったその部分がフォーカスされるということはある、でした。まあ、言われてみたらホントにそれは十分ありえることなんですよね。

というわけで、どうやら、私は自分の中の孤立感を眠らせていたようです。確かに知り合いもツテも全くない新しい土地にきてから、仲良くさせていただいている人はいるけど、深い付き合いをしている人はいないです。私は浅く広くより、深くせまくのタイプで(子供の頃は真逆でしたが)いわゆる内向的な性格なので、すぐさま友人に囲まれるようなことは起こりません。グループでの集まりや行動というのも特に求めておらず、1人でいるのは結構好きなので、なんというか友人関係については一種のあきらめ的な感覚を持っていたように思います。
でもどこかで寂しいって思っていたんですね、そしてそれに気がつかないようにしていた。

ここまで思い至って、ふと「寂しさ」を感じました。

おー、寂しいわ〜(悲)

こういう1つのテーマが浮き上がってくるときは、次々と学びやらヒントが降りて来るもので、今度は他のホメオパスから別の件で、こういう考えが流れて?きました。簡略化して紹介すると、

寂しさは隠したりフタをするものではなく、”気づく”べきもの。これまで他人事的にみていた寂しさ、辛さを自分でちゃんと引き受けて、実生活の中でそれをなんとかしようとタフになっていくこと。

それは寂しさという感情だけに限ることではないけれど、自分の中にある1つ1つの感情に向き合って、引き受けて(心が痛かったりしますが)、毎日の生活の中でもがいていくこと、これが自我を統合していく、ということであるわけです。

いや、ほんと、納得します。
まずは気づく、ことから始まりますね。

秋になって寒さを感じてきたときに、寂しさに気がつく。五感と感情のつながりについても考えた秋の日でした。

なぜかわからないけど寂しさを感じている方、ホメオパシー療法が助けになるかもしれません。ご興味のある方はHPの方へもどうぞ:https://arnicahomeo.wordpress.com

インドの「赤ひげ」

連休に京都で行われたインド人医師でホメオパス Dr.サルカールのセミナーに参加してきました。

サルカール氏はホメオパスの間でどのくらいの知名度があるかわかりませんが、歴史に名を残すホメオパスであることは間違いないでしょう。

Dr.サルカールは一日に100人を越す患者をみています、しかもデリーやムンバイでない片田舎?のコルカタで。この数字は、いろんな意味で驚きです:

ーホメオパスにかかる人が毎日100人以上もいるということ
ーホメオパシー療法で1日100人以上をスピード処方できて(急性的な処方ですが)、しかも治癒に導けているということ

ちなみにインドでは毎日100人以上をみているホメオパス医師は彼だけではありません(汗)。それだけみれるキャパにも当然驚きますが、それだけの患者がホメオパシー療法を受けている事実も驚きです。

そこには現代医療にかかる経済的な問題があるわけなんですが、インドでは裕福な方々は現代医療、そうでない方はホメオパシー療法ってのが一般的な図式らしいです。お金がないほうが健全な療法にたどり着けるなんて、なんて素晴らしい。いいな〜インド(憧)。

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Dr. サルカールの毎日の患者のうち何十人かはがん患者です(インドではホメオパシーは政府が認めた合法的な医療行為)。
セミナーでは驚くべき症例がたくさんみれました。

あと3時間後くらいに(数日後ではなく)亡くなるだろうと現代医学の病院の医師に言われ、救急車にのってサルカール氏のクリニックにきた肺がんの男性。レメディを処方された3日後には普通に車にのって話をし、鼻からのチューブもなく、よく眠れているとのこと(注:この時点でがんが消滅したわけではないです)、まるで別人のような顔つきでした。そのどちらの状態も映像でみましたが、人間の治癒力のすごさに驚くしかありません。

ネットでホメオパシーのことを”科学的に”批判するのに一生懸命な方が複数いますが、私はDr.サルカールの症例をみながら、その人々のことを思い浮かべました。

議論しても結論は得られないと思うので、例えば Dr.サルカールのクリニックに行って、みてくるっていうのはどうでしょうか?と 。ただ、その後症例をみていくうちに、偽科学だとかそうじゃないとかいう議論にはまることすら恥ずかしいと思うほど、サルカール氏の臨床は確かなものでした。

ホメオパシーが批判されるのも、そもそも日本ではDr. サルカールほど有効&有用にホメオパシー療法の効果を示せていないからかもしれません。Dr. サルカールのようにひたすら臨床に専念して膨大な数の患者を救ってこそ、療法はみとめられるのでしょう。議論よりも事実、ですからね。

というわけで、彼の処方について学んだことを実践しつつ、「赤ひげ」を目指して精進していく、それができることですね。

あーいいもん、みせてもらった〜

未熟ながら、こつこつやってます、ホメオパシー療法。ご興味のある方はこちらへどうぞ:

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God is in the detail

今朝、TVをつけたらマイケル•チャンがインタビューに答えていて、テニス好きな私は手を止めました。

マイケル•チャンがグランドスラムに臨む錦織選手に伝えたいアドバイスとして「フリーポイントをあたえない」と話していたとインタビュアーが話してましたが、上位での戦いになると細かいミスをしないことが勝つことにつながるという意のようでした。

あのレベルまでいくと、大技やテクニックよりも細かいことでミスしないことが最も大事なことになってくるんでしょうね。小さなミスが命取りみたいなことでしょうか。

マイケル•チャンって目力がすごいというか、彼のまなざしをみるだけで「師」という感じがします。彼の目をみると、テニスは浮かばなくて、空手やカンフー映画にででてくる「師」にどうしてもみえてしまう私です。

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で、マイケル•チャンのその朝の言葉を聞いて、ふと 「魂は細部に宿る」という言葉を思い浮かべました。

God is in the detail. の日本語訳ですが、これを言ったのは、ドイツ人の前衛建築家のミース(Mies)って人です。建築だろうが芸術だろうが、スポーツだろうが、そして仕事でも日常生活でも、同じことが言えるな〜と思い、なんだか妙にマイケル•チャンのアドバイスに納得しました。

Miesは、インテリア好きの人なら、バルセロナチェアを思い浮かべるかもしれません(あれ、ネットでみると11万円くらいで買えるんですね、買わないけど…苦笑)。建築作品でいうと、壁がガラスでできてる建物(雑な説明すみません)といえばなんとなくどういう作品を作った人かイメージがわくかと思います。

「魂(神)は細部に宿る」とは、抽象的にいくらでも解釈ができるから、味わい深いな〜と思います。
文字通り、細部こそが重要ともいえるし、全体で初めて魂を表現できるけど、それは細部にも当然現れているともとれるし、細部に魂をいれるからこそ偉大なものがつくりあげられる、なんて解釈もできるし、それはこの文章がビビッと来た人千万の解釈が成り立つのでしょう。つまりは、この文章1文にこそ、魂が宿っているってことにも解釈できて、この文章を発せられるってことは、その普遍的な真実=神、魂を理解していたのだとMiesのことを解釈したりもできます…だんだん言葉遊びになってますが。

私に限っては、自分の生活&仕事に振り返って、細部にも魂をこめつつ大事に精進していくことが、なにかを成し遂げていく道なんだろうと、腐らずコツコツやっていくしかない、と戒め&励ましの言葉として受け取りました。

こつこつとホメオパシー療法やってます。ご興味のある方はHPの方へもどうぞ:

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モフる季節

秋を感じる事象は人により様々でしょうが、

今年は、いわし雲(サバ雲、とかうろこ雲とも言われる)を見たときだったでしょうか。

秋が深まったのを自分の身体を通して実感するのは、いつも

白ワインとビールでなく、「赤ワイン」が飲みたくなるときです。

ふと赤、赤を飲もうと身体が要求します(苦笑)。

もしこれが私の身体機能の声と一致しているならば、身体が少し冷えだして血流が悪くなる時期(赤のポリフェノール効果)と合致しているのかも(妄想)。

もう1つ秋の深まりを確信できる事象がこれ↓

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モフモフしながら、眠るニャンコ。暖かさと幸せの事象です(?)

毎年違う

自然豊かなこの土地に越してきて、もうすぐ3年になる。

最初の秋にかめ虫が大量に発生したのをみたときはびっくりした。でも次の年には数は少なかった。
ムカデが梅雨前に何匹もでたときがあった。でも今年は秋になるまでとうとう一匹もでなかった。
私が一番嫌いなゴキブリも、それまでは夏の終わりのある時期に現れてたのに、今年は一匹もでなかった。
アリが夏前と夏の終わりに家の中を行列するのを去年はみたのに、今年は夏前にほんの数日だけみかけただけだ。

裏の川のほとりにセリが群生していて、お浸しにできるので喜んでいたのに、今年はほとんど生えてなかった。
今は秋なのに、なぜか家の前のみぞ(清流)に野生のクレソンがちょろちょろ生えている。
裏の川に今年はカワウが飛んで来るようになって、魚の姿がほとんどみえなくなった。

毎年なにかが違う、今更ながら自然はいつも同じ状態ではないんだ、てことに気づく。

そんなことを思っていたら、はじめてマムシがでた ↓(驚)

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ムカデが一匹もでなかったこと、ゴキブリもいなかったこととなにか関連しているのか?
(写真のマムシは既に死んでいます…)

マムシはアオダイショウと違って、短いからみたらすぐわかる、といわれていたけど、ほんとに短かった。
お腹の側に白と黒の細かい模様があるのも初めて知った。
ご近所さんによると、マムシは昔に比べて随分と減ったらしい。

私が3年の経験で知るこれらの変化は、生態系が崩れていく長い過程の一点なのか、それとも毎年こんなに自然とは違うものなのでしょうか。

ある種が減ったら、別の種が増えて、あるグループの種は影響を受けない、どことどこが結びつくのかさっぱりわからないけれど、自然界はバランスをとりながらなんとか保たれているんですね(かろうじて保たれている状態かもしれないけど)。

人間の身体も毎日いろんな変化にさらされて、一歩一歩老いに向いながらも、微妙にバランスをとっているんだと思いました。

食べ過ぎたり、飲み過ぎたり、働きすぎたり、運動不足になったり、精神的にまいっているときにも、なんとか私という身体のバランスを取りながら存続させてくれている私の身体の仕組み(=自然治癒力)、ありがたいです。

そしていつもお決まりの↓

身体が自分でバランスを取れなくなったら、ホメオパシー療法が助けになるかもしれません。よかったらHPの方へもどうぞ:https://arnicahomeo.wordpress.com