Life Lessons

エリザベス・キューブラー・ロスの「ライフ・レッスン」(角川書店)をBOOK OFFでみつけたので、読みはじめました。

キューブラー・ロスのことは以前に田口ランディさんの本の中でしりました。キューブラー・ロスは On Death and Dying =邦題「死の瞬間」という著作で話題を読んだアメリカの女性医師です。

「死の瞬間」は、死にゆく患者にインタビューを続け死に直面した人の心理を分析した本です。死に至る病いにおかされると、人はまずそんなことは無いと否認して、次になんで私が?!と怒り、いやでも薬や手術でなんとかなるだろうと取引しようとし、それが無理だと(つまり死ぬと)わかると絶望して抑うつとなり、あがいた最後にやっと死ぬという事実を受容するというプロセスらしいです。

このプロセス、インパクトのある病気になったときにも同じ心理状態をたどると思います。私が高齢出産後にアトピーを患ったときもほぼ同じ心理状態をたどりました。違いがあるとしたら、死に至る病気でない場合は、受容して初めて回復に向うことができる、もしくは回復できる道にたどりつくところです。このプロセスは恐らく失恋や愛する人の死に直面したときでも同じだと私は思います。

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そのキュブラー・ロスの「ライフ・レッスン」は、まだ読み終えていないのに内容を紹介するのもなんですが、死にゆく人々が死に直面したときに、浮かび上がってくる(というか突きつけられる)その人の人生でやり残している課題に焦点をあてています。リアル、です。そして死に直面した人々が学んだそれぞれの貴重なライフ・レッスン、言い換えるとまだ十分に生きられる間に行っておくべきことを教えていただける、非常にありがたい内容です。

読みながら息をのんでしまったある女性の例を1つ、抜粋させてもらいます:

ロサンゼルスの町はずれにさしかかったとき、まえを走っていた車がいきなり停止しました。急ブレーキをかけながらみたバックミラーには、急接近して来る後続車が映っていました。ものすごいスピードで、わたしの車に衝突しそうな感じでした。そのドライバーがまえをみていないこと、猛烈ないきおいで追突されることが、一瞬のうちにわかりました。まえで停車している車との距離も、ほとんどなくなっていました。もう、だめだと、おもいました。死ぬかもしれないとおもったんです。
ふとみると、自分の両手がハンドルをぎゅっと握りしめていました。意識的につよく握ろうとしていたわけではありませんが、いつもそうなんです。それが癖なの。なぜだかわかりませんが、こんなふうに生きたくない、こんなふうに死にたくないっておもいました。私は目をとじ、息を吸って、両手をだらんと垂らしました。力をぬいて、身をまかせたんです。生きることに、そして死ぬことに、自分を明け渡したというのかな、その瞬間、ものすごい衝撃につつまれました。

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アコーディオンのように車はクラッシュしたのに彼女は無傷だったそうです。力を抜いていたから、助かったと警官に言われたそうです…
私はこの本を読んだ数日後に、体の使い方をまなぶワークショップに参加するタイミングでしたので(→次回の記事で紹介します)
この自動車事故にあった彼女のレッスンは、私にも必要なものだと感じました。
読後にも、感想UPしたいとおもいます。

 

自分の人生を生きていない、と感じているけど、どうしていったらいいのかわからない方。あなたの自然治癒力を目覚めさせるホメオパシー療法が助けとなるかもしれません。ご興味のある方はこちらのHPから、どうぞ:

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五味太郎さん

図書館で、五味太郎さんの子ども向けの本をみつけました。

私は五味太郎さんとか谷川俊太郎さんの作品を読むと、どきっとする、いや、ぎくっとします。
自分の心の底で思っていることや、子どものころには感じていたのにいつのまにか忘れたり、すり減ったものをつきつけられたような気がして、ぎくっ!!とするんです。

今回みつけた本は「じょうぶな頭とかしこい体になるために」(ブロンズ新社)というタイトルで、かしこい「頭」とじょうぶな「体」が逆転しているところに、すでにちょっとぎくっとしました(苦笑)。

はじめにこんなことが書いてあります:

『大人の言う事は素直に聞いて、決められたことはきちんと守り、出された問題にはうまく答え、与えられた仕事はだまってやる。決してさぼったり、ごまかしたりしない、それが「かしこい頭とじょうぶな体」のよい子です。
言われたことの意味をたしかめ、決められたことの内容を考え、必要があれば問題をとき、自分のために楽しい仕事をさがし出し、やるときはやるし、さぼりたいときはすぐさぼる。これが「じょうぶな頭とかしこい体」を持った、これもまたよい子です。』

本の中味は、子ども達の疑問、悩みと思われることに五味氏流の答えが書かれているのですが、どれも無邪気そうに書かれていて実際サティリカル(汗)。ヒヤヒヤします。読み終わったら、あっしはいつのまにかこんな大人に成り果てていました…親分、すみません、と五味氏に謝りたくなりました(涙)。

一見、子どもを理解しているよ〜、わかっているよ、いいんだよ〜と子どもよりの意見を述べながら、最後はうまく「社会でのよい子」に導こうとしている本はたくさんありますが、五味氏の本はその手の本ではありません。彼が自分で考え生きて経験してきて、本当に感じたまま、子どもの純粋さをもったまま、答えた本だと感じます。
こりゃ、子どもの心に響くだろうな….

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私が一番ぎくっとしたのは: ”わたし ぼーっとしているのが好きなの ぼーっとしていてはいけないのか”
というお題のものです。一部抜粋させていただきます。

『せっせと勉強して、せっせといい学校に入って、さらにせっせと働いて、せっせとお金を稼いで、せっせとお金をためて、そして何をしたいかというと、ぼーっとしたいんだと、これは笑い話です。』

ぎくっ、ぎくっ(心の音)それから、こんなことも:

『幸せというやつには大きくふたつのタイプがあります。ひとつはたしかに自分でつかみとる努力の結晶としての幸せ、もうひとつはなぜか向こうのほうからやってくる不思議な幸せ、このふたつのタイプがあります(途中略)個人が抱いている幸せのタイプというものを見きわめる必要があります』

私がなぜこれにぎくっとしたかと言えば、私はせっせと生きてきて摩耗しているタイプ(苦笑)なのですが、本来せっせとすることが合わないとわかっているのに、自分の子どもも気がつくと「せっせ」と生きるようにしむけていたからです。本来は私の子どももぼーっとしているタイプだとわかっているのに。ぎくーっ(冷汗)!!

他にも ”なにがしたいのか自分でよくわからないんだ” というお題にはこんなことが書かれていました:

『人間にある目的、目標が生まれるのも自然なら、それに向って努力するのもまた自然です。その目的、目標がどんなものなのか誰にもわかりません。当人にもよくわかりません。そしてとりあえずの目的、目標がないというのもまた自然です。その状態でいわゆる努力しないのもまたあたりまえです。そこのところが分かっていない人が多すぎます』

ぎくーっ。
この本は子どもでなく、大人が読んだほうがいい本だと思いました。

 

猫と散歩する

主人の実家の隣に住んでいる男性は、ジャーマンシェパードと1匹の猫(ムムンという名前)を連れて川沿いの道を散歩していました。
私は猫が飼い主と散歩するのを初めてみたのですが、ムムンは、犬とご主人から少し離れたところをタタタッとついて行っていました。
そして最後は家まで一緒に帰っていました。その飼い主の男性は映画になりそうな人生を歩んできた慈悲深い人だったので、猫を散歩させることができるのもその男性の愛情が特別だからかと思っていました。

ところが今の家に引っ越してきてから、ご近所の方が二匹の猫を連れて散歩しているのをみました。その方は見た目が怖そうな男性なんですが(ごめんなさい)、その男性が歩くのと少し離れて二匹の猫がついていってました。その方いわく、二匹の猫は「散歩が大好き」なんだそうです。彼らの組み合わせが可愛すぎ(汗)。

そして気がつくと我が家の猫も、いつのまにか、私達家族と散歩ができるようになっていました。私達がご近所に歩いてでかけるときは猫も後を追ってくるようになり、いつのまにか彼女のテリトリーを超えてもついて来ることも。そして一緒に散歩ができるようにまでなっていました。まるで飼い主と一緒だとテリトリー圏外にも出られるとわかっているかのようです。

川沿いを散歩すると(といっても小さい川です)、↓こんな風に石に飛び移ったりもします。

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ただハーネスをつけていないので、車に気をつけないとならず(車が通るのはものすごく少ないんですが)、それでいつの間にか車のこない裏山の中を散歩するようになりました。山の中を動き回る猫を改めて見ると、”トラ”か”豹”にしかみえません。竹や笹、雑木の間に入ると猫の柄が迷彩となり姿がみえなくなる!トラの縞模様はそのためだったと妙に納得したりして。

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山にいると顔も野性味あふれてきます。その辺りの木に昇ったり、嵐で倒れて積み重なった木々の上にのっかったり、草むらの獲物を探したりして、生き生きと動き回ります。
猫のおかげで私も山の中に入るいい機会になります。猫も私も楽しいけれど、1つ問題が….. 慣れてくると猫はいつまでも山から帰りたくなくて、そんなときは抱っこして家まで無理矢理連れて帰ることになります(寂)。

猫と散歩している話をお世話になっているHさんに話したら、彼女のご実家で飼っている猫も、彼女のお母さんと一緒に散歩しているそうです。
もしかして猫の散歩って実は普通のことだったんですか!?

 

 

 

 

 

動物のきもち

先日漫画を買いたい家族と一緒にBOOK OFFに行き、本のコーナーをブラブラしていたら「動物と話せる女性ハイジ/アニマルコミュニケーター」(ワニブックス)という本が目に留りました。

ハイジというそのアメリカ人女性がテレビの番組で動物の気持を読み取っているのをみたことがあります。
私は”目に留った”ものや出来事、言葉は、潜在意識からのお知らせとして、なるべく採用(?)するようにしているので、この本も買うことにしました。

読んでみて正直「本」として中身が濃いかはさておき、彼女が伝えてくれる動物たちの気持は、とても興味深く、色々なことを考えさせられました。特に今は猫を飼っているので、すとーんと心の中に動物たちの気持が入ってくるような気がしました。

ハイジさんは小さい頃から動物達の気持がよみとれるところがあったらしいです。動物の気持を読むといっても、動物達と人間の言葉でやりとりするわけではなく、動物達は彼女になにか伝えたいイメージを送ってきたり、味や音や怖さなどの感覚をハイジさんに伝えてきて、それを彼女が人間の言葉に言語化しています。ただ動物によっては、人間の言葉を短いながら伝えたりもできるそうです。

彼女が動物の気持をよみとる動画はYoutubeにもたくさんアップされていて、本を読んだあと、もっと動物の気持が知りたくなって、それらの動画もたくさんみました。涙なしには見られない感動的な動物の気持がたくさんあります。

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へーっと驚いた楽しい例をだすと、
彼女が実家で飼っていた1匹の猫は、クリスマスなどのときの綺麗にテーブルセッティングされたテーブルの上に乗っかって、グラスなどを倒すことなく、しっぽを振り振り食器の間を上手に縫って歩きまわっていたらしいのですが、そのときのその猫の気持は、
”何も壊さずにすいすいと食器の間を縫って歩くことがすごく得意げで楽しかった”そうです。ディズニー映画にでてくる猫とかがやりそうな行為ですが、あれ、猫は楽しんでいるんですね。

他にはある猫が楽しいイメージとしてハイジさんに送ってきたものが、飼い主と穴みたいなところで一緒に遊んでいる映像だったそうなんですが、その映像のことを飼い主の若い男性に尋ねると、ある雪が積もった日にカマクラを作って、その中にその猫と一緒に入ってじゃれたり携帯で一緒に写真を取ったりして過ごしたことがあったそうです。そんなこと人間が勝手に楽しんでいるだけかと思ったら、猫も飼い主と一緒に楽しんでいたんですね、そうやって一緒に過ごすことが楽しいのは私達と同じ気持なんだなって妙に感動しました。

涙をさそった例だと、ある猫が突然凶暴になって噛み付いたりするようになって困った家族がハイジさんに相談して気持を読み取ってもらったら、その猫と小さいときからいつも一緒だった飼い主が進学をするために家を離れたことが原因でした。ずっと一緒にいたのに突然いなくなって猫は相当に悲しい思いをしたそうです。最初はなぜその飼い主が家に帰ってこないかわからず、ずっと帰りを待っていたそうですけど、その悲しみや寂しさがいつのまにか怒りに変わってしまって、その飼い主がたまに家に戻ってきても爪をたてて威嚇していたそうです。
ハイジさんからそれを聞かされた飼い主は愕然として、とにかく猫にあやまり続け、好きだよという思いを送り続けていました。
動物は人間の言葉がわからないかと思いきや、ちゃんと話せば伝わるようです。だから留守にするときや、長く家を空けるときはきちんと何度も説明してあげたほうがいいなと思いました。

動物達に異変がおきたり、なにか調子がわるかったりするのには、ちゃんと原因があって、それは人間が病気になるのと同じプロセスだなとホメオパシー療法をやっているものとして感慨深かったです。

私が中でも特に興味深いと思ったことは、ハイジさんを通して説明された動物達の気持に「感謝」「ありがとう」がなかったことです。
飼ってくれてありがとう、とか、感謝している、という言葉はなかったのです。
その代わりとなる言葉は、飼い主さんのことが「好き」でした。
よく考えたら、ありがとう、感謝、って、人間が宗教的に考えだした言葉なのかも。社会として成り立つのに必要な言葉だったのか、もしくは人間がもてる特別な感情なのか?!動物達にありがとうという感情や言葉やイメージはないのかもと、ちょっとした発見でした。

人間は、飼ってあげている、と上から目線で、動物達に「感謝」や「ありがとう」を人間同志のように期待しているかもしれないけど、
動物達にしたら上も下もないわけで、ただ一緒にいる飼い主が好きか嫌いか怖いか怖くないか、そしてそこの家でエサをくれるのかくれないのか、その家にいてもいいのかどうか、だけなのかもしれないです。別の言い方をすると、人間は動物はペットという位置づけですが、動物からしたら人間と自分達は同等なんだと思いました。

ホメオパシー療法は動物にも使えて、動物専門で診ているホメオパスも結構います。
私はいまのところ動物は診ていませんが、ハイジさんの本と動画をみたことで、動物も人間と同じように扱えばいいんだなと(飼い主さんから情報を得たりすれば)思えて新たな発見でした。

 

上述の猫みたいに、誰かを失ったショックや悲しみから抜け出せないもしくは調子を崩している方には、ホメオパシー療法が助けになるかもしれません。ご興味のある方はこちらのHPへどうぞ:https://arnicahomeo.wordpress.com

 

ホワイトシチューのとろみのコツ

冬になるとたまに作るホワイトシチュー

ルーはバターと小麦粉から手作りしていますが(いわゆるベシャメルソース)、最後に野菜スープと合わせる段階でとろみがうまくつかないときが多々あります。
とろみのある里芋を入れるときは間違いなく成功なんですが…

それが先日、ネットで偶然たどり着いたホワイトシチューのレシピをみていたら、驚きの(私にとってですが)発見がありました。

一般のレシピは、鍋にバターを溶かしたら小麦粉をまぜ、弱火にかけながら牛乳を徐々に足して練っていくやり方。

発見したレシピは、バターを溶かして小麦粉を混ぜ粉っぽさをなくすように炒めるとこまでは同じ。
しかしその後は火をとめて、そのバター&小麦粉を炒めた鍋に牛乳を全分量入れて、泡立器などを使って溶かしていくんです。
溶かし終わったら、火をつけてまぜながら温めていくと、とろみがつくシチューソースができるとのこと。

火にかけながら牛乳をちょっとずつ加えて練っていくか、最初に全量どばっと加え溶かしてから火をつけるかの違いです。

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で、早速、この方法で作ってみたら、最後に野菜と鶏肉を煮込んだスープと合わせても、すぐにコテコテにとろみがつきました。
とろみつきすぎて、あわてて牛乳を足したくらい(苦笑)。
材料は同じでも、順番が違うだけで、状態がここまで違ってくるなんて!
しかもこのやり方は手間がかからない、助かる〜。

これでもとろみがつかないという人は、ホワイトソースをスープ(野菜や鶏肉を煮込んだ)に入れてから、煮込む時間が少ないかもしれません。ソースを溶かした後にコトコトこげつかないように煮込むことでトロミがさらに増します。

ついでに他の方のレシピも参照していたら、Cookpadに載っている人気レシピでは、ベシャメルすら作らないものがありました。
最初に野菜を炒める時点で、野菜に小麦粉をふりかけるらしいです。それでその後牛乳を注ぐだけでシチューのようになるんだとか。

十分にわかっていたつもりの事でも、まだまだ改善の余地があったわけです。

ひょっとしたら、現在のあなたの考え方&身体の不調にも改善の余地があるかもしれません(強引な持っていきかた)。
そのお手伝いができるかもしれないホメオパシー療法にご興味のある方はこちらのHPへ:

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とんどの火

昨日は地域の「とんど」焼きでした。

私が育った地域ではこの行事はなく、また長く住んだ東京でもお目にかかったことがなかったため(あれだけ家が密集してたら無理)、とんど焼きという行事を全く知りませんでした。
しかし調べてみると「とんど」は、田のある地域ならあちこちであるらしいです。

呼び名は、とんどだったり、どんとだったり、どんどだったりと地域によって違うみたいですけど、
姫路では「とんど」のようです。

「とんど」とは稲を刈り取った田に竹や木などを組んで火をつけ、お正月飾りや門松を焼いて神様を送る行事だそうです。近辺の田んぼのある地区では、伝統通り田んぼに高々と竹や木が組んでありますが、私の今住んでいる地区ではもう田んぼがないため、広い空き地に川掃除で集めた木々や、竹などをつみあげています。高さおよそ10メートル。

こんな感じ↓

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これに点火して豪快に燃やしている中に、それぞれの家の正月飾りや門松、書き初めなどをくべます。
書き初めを燃やして天高く舞っていくと字がうまくなるんだとか。

火事も気にしないでこんな豪快な火がたけるなんて、圧巻です。
集まった子ども達は大フィーバー(死語?)。まわりが山なのでその辺りの枝を持ってきて、その枝に火をつけたり、いわゆる火遊びしまくり(笑)。こういう豪快なものをみていると、大人だってテンションあがります。
竹が入っているので、燃えて行く途中でバチバチと爆竹のような音がするのも迫力があって爽快。
火というのは不思議なもので、火の前にいると自分の中にあるもやもやまで焼かれていくようです。そういう観点でみると、この行事は神様を送るだけでなく、人の中にたまったストレスも昇華させる副次的な作用もあるのかもしれません。煙にも恐らく浄化の作用があるのでは、と思います。

 

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大きな火が落ち着いて炭となったら、その炭で鏡餅などを焼いて食べます。
地域によってはお餅をあぶるだけで、その後は自宅に持ち帰って食べる、というのでこの行事がフィニッシュらしいのですが、私の地区では、「とんど」でできた炭を使ってその場で、お餅を焼いたり、するめをあぶったり、野菜や肉を焼いたりして近所の人が一杯飲んだり、食べたりします。なんというか冬のバーベキュー?!
昨日は午前中雪でしたけど、大きな残り火があるので、外でもそんなに寒くなかったです。

お昼から炭であぶったものを食べてお酒のんで、近所の人や家族と話します。
火や炭を囲んで、ぼちぼちとでてくる話をして、最期のお正月気分を味わいます。
お正月ってこんなに長く味わえるものだったんですね。スローライフな年の始まりでした。

 

 

 

 

怒りは笑いで?!

年明けに近県にでかけたときのことです。
地下街で新年のセールをやっていたので、その中にあるカジュアルな服のショップに寄りました。

ディスプレイされていたワンピースとロングカーディガンの組み合わせ色が気に入ったので、その2点を購入することに。
話しかけてきた店のスタッフ(女性)にマネキンから取り外してもらいレジへ。
ついでに他の棚にあった毎日着れそうなセーターも入れて3点合わせて購入することにしました。棚にあったセーターは、セールで出されていたせいか、糸が一部ほつれていたので、そのスタッフに言ったら、

「現品じゃないのが在庫にありますので大丈夫ですよ〜」と笑顔で対応してくれました。

彼女とレジに行くと、少しお待ちください、とのこと。
裏から新しいセーターを持ってくるんだと思い、店内をぶらついて待つことに。

もうそろそろいいだろうとレジに見に行くと、お店の常連っぽい親子が私に対応していたスタッフとレジで服のことをあれこれ話しています。
彼女らのやりとりをうしろで待つこと、7, 8分。それでも、その親子とスタッフの話は終わらず….
私は単にレジでの支払いだけを待っているので、だんだんイライラしてきました。
その後さらに数分待って、ついにしびれを切らしたので、他の店内にいるスタッフに、おしゃべりしているスタッフに代わって精算をやってもらえないか尋ねました。

そのスタッフがレジで相変わらずおしゃべりしているスタッフに私のことを伝えると、そのおしゃべりスタッフは、私をレジからみえないところまで連れていき、
「すみませんが、あのロングカーディガンは既に他の方のおとり置きとなっていました」
へ?!おとり置き?って?私が欲しいというまでディスプレイしてあったじゃないの??

恐らくレジの前で話し込んでいた常連の親子が買いたいと言っているのでは、と推測したけど、ごねようにも、いずれにしても購入はできないとわかったので、むっとしながらも、「じゃあ、もう一点選んだセーターだけでも買います」と伝えると
「あ、あれ、現品のみでした(つまり糸がほつれたものしか残ってなかった)」
は?!じゃあ、なんで10分近くも私を待たせていたんだ!!しかも自分から声をかけにもこないで!!(怒、噴出)

以前の私ならここで、このスタッフに罵詈雑言浴びせたと思います(汗)。
しかし、私はこのとき、ふと「結局、ここの服、私には合わないからかも」(だからこういうことになった)と思いました。
それで、目の前の失礼なスタッフ女に少しばかりの文句を言って、その場から去りました。

いざ、買おうと思ったものが買えなかったことも残念でしたけど、それよりも、彼女の行動が失礼すぎて、そっちのほうがひっかかりました。

宿泊するホテルに戻って家族にそのできごとを伝えて、あったまきたー!とぶちまけました。
それでその怒りは終わっていたと思ったのですが….

翌朝4時30分に目が覚めました。直接の原因はホテルの暖房が効いているのにふとんをかぶっていて暑かったから。
しかし目が覚めたときに、頭の中にすぐに浮かんだのは、そのスタッフからされた失礼なこと。服が買えなかったこともくやしいと思いました。
根にもってたんだ….やっぱり罵詈雑言浴びせたら良かったのか(汗)。

おさまらない怒りどうしますか?
これまでで私が学んだうちで一番効果的だった処理法は、自分の怒りから目を背けないでじっとその怒りを感じることです。
私、怒っている、怒っているよ、という感じで、その怒りをじーっと感じて対面する。
持っている怒りがかなり激しいときは、先にクッションみたいなものを実際に打ったり、その相手を爆破させる(怖)イメージを頭で描いたり、
実際に罵詈雑言を浴びせるイメージを頭で想像したりした後に、自分の怒りとじっと向き合うのがいいです。

よくないのは、怒りをごまかすことで、
昼間の私みたいに「あの服どうせ欲しくなかったし、私に合わなかった」みたいに頭で考えて、怒りをすり替えることで(苦笑)これやると、いつか噴出します。

そんなわけで私は早朝のホテルのベッドで自分の怒りと対峙していたんですが、そのときふと年末にみたアメトークスペシャル(お笑い)を思い出しました。
その番組の中で、私の笑いのツボにはまったコーナーがあって、あまりに面白かったので後でまた動画でみたりしてたんですが、その箇所がなぜかふいとその早朝のベッドの中で思い出されて、私は軽く吹き出して笑っちゃったんです、小声で(早朝ですから)。
しかも何回かその面白かったところを頭の中で反芻して。

そしたら、あのショップスタッフへの怒りがなくなっていました。
もう1回彼女のやったことを思い出してみても、全然腹が立たない。大げさでなく、これホント。

笑いと怒りは表裏一体というのを聞いたことがありますが、なんか妙に納得した私です。
また 怒り<笑い で、笑いのエネルギーのほうが強いらしい、とか。確かに笑いは怒りを消せるパワーがあるかもしれません。

私、昔から”お笑い”好きだったんですが、それは私の怒りを昇華させる方法だったからかもしれません。

怒りをなんとかする心理的&解析アプローチ、スピリチュアルな方法などたくさんありますが、
一番シンプルなのは「笑う」ことなのかも。
そんなことに気づかせてもらった出来事でした。

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↑ニャンコのとりわけブスな画像。このブスさ具合が、笑えてなごみます。

 

何度も繰り返される怒りのパターンをお持ちの方、そのパターンから抜け出したくありませんか。
ホメオパシー療法がその助けになるかもしれません。ご興味のある方はこちらのHPからどうぞ:

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明けまして

おめでとうございます。

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不格好な鏡餅ですが、自分でついてこねました。

ご近所の方のお餅つきに参加させてもらったときに、前日からお水につけておいた餅米を持参して一緒に杵でつかせてもらいました。

この辺りの方は、12月30日に各家庭でお餅つきをするそうです。
ご家族の人数が少なくなったりして、杵と臼を出してきてお餅をつかない方でも、餅つき機でこの日にお餅をつくるそうです。

小さい頃は祖父の家でついたお餅を食べていたこともありましたが、大きくなってからはお餅は単に嗜好品みたいに気の向いたときにしか食べていなかったので、お餅をきっちりとお正月にあわせて作ることを新鮮に感じました。

それにしてもお餅の量が多い! 一升サイズの臼で何回お餅をついたことか…いや、ほんと、どんだけお餅食べんの (汗)。

たくさん作るからか、定番の白餅だけでなく、色んなお餅も作ります。これにもちょっとびっくりしました。

黒豆入れたり↓

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ごま入れたり↓

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写真はないけど、芝えびとか、緑大豆、フジッコこんぶも入れたり… 合いそうなものならなんでもあり、です。
今回はなかったけど、バターを混ぜ込むのも、なかなかいけるそうです。

チョコ入り、ココア入りお餅もいけるのではないか…..?!

お正月に杵と臼でついたお餅を食べるという習慣を経験させていただき、そのお餅を食べながら感じたのですが、
お正月にお餅を食べるというのは歴史的や行事的な意味だけでなく、またお餅の栄養成分がどうのこうのという意味だけでなく、お餅というのはやはり特別なパワーをもらえる食べ物なんじゃないんでしょうか。
杵と臼でつくということもそのパワーに関係あるような気がする….

ということで、古い日本の習慣を再発見したありがたいお正月です。