猫と山に

去年、猫と裏山をよく散歩して(登って)ました。

おかげで足腰が太く(悲鳴)いや、丈夫になりました。

その後、春になって夏に向うときに山に入るのは止めました。

ヒルやら虫やら、へびなんかがでる時期だからです。

山に生まれ育ったご近所さんでも春の終わりぐらいから夏までは山に入らないそうなんで、わざわざヒルやら蜂やらへびなんかに噛まれるリスクを避けるってことなんでしょうね。

そして今年もまたそういう厄介な生き物が冬眠する時期になりました。

ニャンコも久々に山に復帰です↓

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ワイルドに探索しております。ニャッニャッ。

古木で爪を研ぎ放題、シャーシャー。

斜めに生えてる木にジャンプしたり、駆け下りたり、なんかいいな〜(って私も体動かせよ!)

中高生の苦しさ

このところの劇場用のアニメ作品で、これは!と思ったのは「バケモノの子」(細田守監督)でした。細田監督の作品は心理の描き方がかなり好きで、よくできたフランス映画をみた後のような余韻が残ります。

以前はジブリ作品以外では、劇場用アニメをみることはあまりなかった私ですが、ここ最近は観てみたいと思うアニメ作品も多く、そして実際観ても期待を裏切られないことも多いので、私のように詳しくない者でもそう思うくらい円熟してきた分野なのかと思います。それとも”アニメだし..というような”私の個人的な偏見が単になくなったせいなんでしょうか。

今秋に映画館で

「心が叫びたがってるんだ」(長井龍雪監督)をみました。

小さい頃の出来事がきっかけで一言も話せなくなってしまった女子高校生が主人公のアニメ映画作品です。

そして先日はDVDで

「Colorfulカラフル」(原恵一監督)をみました。

森絵都原作のベストセラー小説のアニメ映画化作品。自殺して1度死んだはずの中学生男子の身体に違う魂が入って生き返るというストーリーです。

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どちらの作品もなかなか感動しました。中高生というのは可能性無限のうらやましい時期でもありますが実際には生きづらい年代でもあるように思います。特に中学生というのは、実は人生で一番つらい時期ではと私は思います。それでもこの時期にはそれを乗り越えるだけのエネルギーがでてくるのが人間の身体のよくできてるところ。

上記の2作品ですが、一言も話せなくなった少女も、自殺するほどの状況におかれていた少年もラストにはそれぞれ前進します。そのきっかけとなったのは、母親でもなく父親でもなく、ましてやセラピーなんかでもなく、まわりの1クラスメートだったというのが非常にリアルだと思いました。

少女の方は”恋”というのがキーワードにもなっているので、彼女が自分の問題を克服することになったきっかけがクラスメートの男の子だったというのはわりにわかりやすいです。恋というのはそういう力がありますから。

でも「カラフル」の方は、ぱっとしない凡人なオタクのクラスメートの男子が、重要な役割だったんです。

そのオタクな男子は、自殺した少年がいじめられていたときにかばってくれたわけでもないし、心を溶かすような優しい言葉をかけてくれたわけでもない。でも確実に少年に変化をもたらしました。

2作品とも面白いのは、問題を克服する鍵となったそれぞれのクラスメート達が、問題を抱えている前からずっとクラスメートだったことです。そこに、ずっと教室にいたのに、主人公達は以前は彼らがそんな役割をしてくれる人だったとは意識もしていなかった。

なぜ彼らの存在に気がつくことができたか?というと、それは主人公達の”見る目”が変わったからだと思いました。特にいじめを受けていた「カラフル」の主人公は、それまではまわりのクラスメートはいじめる奴らか、いじめをみて笑っている奴ら、もしくはそれに迎合している奴らの集合体でしかなかった。

それが自分の見る目を変えたら、仲間と呼べそうなやつもいたってことに気がつくのです。全部がクロでなくて、実はシロもいて、灰色なんかもいて、みたいに違ってみえてきたんだと私は解釈しました。

でもこの”見る目を変える”、”見方を変える”って、いうほど簡単じゃないです。大人だって難しい。そんなんで「カラフル」の自殺して死にかけた中学生に”違う魂が入った”という設定は秀逸の選択だな〜と思いました。そのくらいのことが起きない限り、1度自殺した中学生がまわりを違う見方でみる、なんて技にたどり着かないのかもと思うからです。

話はずれましたが、この2作品をみて、中高生の世界における他者=クラスメートや同年代の子供達、の存在は本当に大きいんだなと改めて思いました。親や先生に認められることよりも、たった1人でもいいから、同じ立場の子に認められること、それがどんなに価値を持つことか、わかるように思います。

無視したり、いじめたり、最悪なのもクラスの皆、でも折れた心を修復してくれるのも、自分に力を与えてくれるのも、またクラスの誰かだったりするわけです。そして自分もまたその中の1人であって、人をおとしめることも、救うこともできる存在だと気づくと、また違う見方を持てるかもしれません。

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自分の見方を変えたいと思っているけど実際には固定観念が強すぎて実践できない方。自分の自然治癒力でその固定観念を変えることができるかもしれません。ホメオパシー療法にご興味のある方はHPの方へ: https://arnicahomeo.wordpress.com

限界をしる

思春期の世代に向けた、でも面白くて読んでしまうような

”人生について教える本” はないかと探していたら、

よしもとばななさんの

「おとなになるってどんなこと?」(ちくまプリマー新書)

という本が目にとまりました。

早速入手して読んでみると、思春期よりも20代くらいの生きづらい若者が読んだ方がいいかもしれないという感想を持ったのですが(実際、こどもだけでなくそういう世代に向けても発信されてる)、中に紹介したい箇所がありましたので、ここに勝手に書かせていただきます。

「死んだらどうなるんだろう?」っていう問いに答える章なんですが、ばななさんのお母様についてこんなことが書いてありました。(以下斜字部分抜粋です)

私と母は決して仲良しではなかったんです。

もちろん嫌っていたわけではないんだけれど、相性が悪かったというか、距離のある関係でした。

母はとにかく姉が好きで、最初から最後まで姉っ子(?)でした。

ばななさんのお母様は最後のあたりは少しボケていたらしいのですが、その頃は3分に1回くらいの割合で「お姉ちゃんはどこ?」と言っていたらしく、ばななさんは切ないなあ、と思ったそうです、確かにせつないです…

でもばななさんは感情的にはならなくて、お姉さんはお母さんとの関係を長年真摯に作ってきたし、自分はお母さんから逃げてばかりいたので、そうなったのは当然だと思ったそうです。

お母様が亡くなる最後のほうで、お姉さんが外出されたときがあり、お母様が暑くて汗をかいていたので、ばななさんが水を飲ませたり汗をふいたりお世話していたら、その暑さに耐えられなかったのかお母様が

「なんとかして」

と言われたそうです。

どんなときでも「なんとかして」、と人に言う人だったらしいです。
そしてこう思ったそうです。

私はふいに「これ以上は愛せないな」と思ったんです。

今持っているこの気持ち以上には愛せない、それが私の限界だ。

たとえば母を抱き上げて、自分の家に運んで、どうしても自分が看病したい、そういうふうには思えないかもしれないな、そういう関係ではなかったな、そんな淋しい気持ちでした。

私は心の中で、お母さん、ごめんなさい、と思いました。

生んでくれてありがとう、身体が弱いのに精一杯育ててくれてありがとう。ここまでしかできなくて、ごめんなさい。

実際にはこれがお母様との最後の日ではなかったそうですが、ばななさんにとってはこのときがお母様との別れの日だった、と後で感じたそうです。

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自分の母に対する愛の限界点みたいなものをはっきりと自覚する、というのは1つの大人になるってことかもしれないと、私は読んでいて思ったのでした。別の言葉でいうと、目の前の親を「母」としてではなく、「1人の人間」としてみれる点に達したということかなと。

親だから、母だから、愛さなきゃ、愛されなきゃ、といった思い込みは多いのかもしれません。それで罪悪感を持っている人もいるくらい。

ホメオパシー療法にかかる人でも、心の問題をさぐっていくと母との問題にぶつかる人は本当に多いです。母子というのはそのくらい特別な関係だと思いますが、それぞれの母子にそれぞれの適切な境界線があるので、それをみつけていくのも大人になるってことかもしれません。

私自身に関しても母との問題をクリアにするのには長くかかりました。ホメオパシー療法を受けて、いろいろなことが解消されて、最終的に(もしくは現時点では)母と私の間の適切な距離はものすご〜く離れているものだとわかりました。それに気づいて、そして自らその距離を設定してからが、私は本当の意味で大人になったのかもしれません。

エネルギーの観点からみても、それは親の波動の影響から抜けでるということでもあるかもしれなくて、そうしたら自分の波動で生きれるってことなのかもしれないです。

男女の関係での距離は計りやすい、身体の関係がもてるかとか、いて居心地がいいとか、友人関係もそうです。でも親子、兄弟となると冷静になれなくて、理想の暖かい愛の関係を望んでしまう。

もし自分が母をあまり好きではないとしたら、いつまでも母側からだけ無償の愛を望むのはアンフェアとも言えるかも。

まわりの人を見渡しても、「心からまるごと愛せる母」を持っている人って、実は非常に少ないのかもしれません。

でも、そういう母のもとに自分が生まれなかったとしても、自分がそういう母になることはできる。子供がいない人でも飼っている動物や植物、まわりの人々に愛を注ぐことはできる。

もらう方からあげる方になるのも、大人になるということかもしれないです。

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親の影響から抜け出せない方、ホメオパシー療法が助けになるかもしれません。

興味のある方はHPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.wordpress.com

女性が集まると

先日、近所の学校で”お紅茶の入れ方講座”なるものがありました。
家庭の教育力向上を目的にPTAが主宰する教室の1つだったんですが、私は係でした…(辛)。

その講座は、紅茶の効用/茶葉の種類などという実用主義な視点ではなく、ティータイムを楽しみましょう、できたらエレガントに、みたいなマダ〜ム視線の催し。係じゃなかったら、私はまず参加しない類いのものです(苦笑)。

会場にはスコーンなど先生お手製のお菓子が4種類もならべられ、キャスキッドソンまがい(?)のイングランドテイストのテーブルセッティング、が、たたみの和室の座卓テーブルに並べられました(汗)。

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様々な茶葉の”お紅茶”をおしゃべりしながら楽しむ会でしたが、茶葉がいいからなのか、温度管理がいいからなのか、とにかくぽっかぽっかしてきて、カーディガンを脱ぎ、腕まくりしないといけないくらいの汗がでてきました。まさにその年齢である私は思わずホットフラッシュか!?と思いましたが、他の出席者の方や校長先生(男性)まで汗がすごくでるとおっしゃっていたので、紅茶の効用のようでした。

私は朝食はずっと紅茶派で、何十年もアールグレイを飲み続け、ここ最近はチャイなんですが、それぞれリーフティでしか飲まないのにここまで紅茶の作用で汗がでることはないので、なんでだろう、この紅茶の秘密は?と思い、ふと客観的な視点で会場を眺めると、参加者のママさん達がものすごいキャピっとしておりました。

ワクワクした少女のような華やかな雰囲気で紅茶を楽しんでおられたんです。私は皆さんよりも一回りほど年上ということもあって、なんかかわいいなと思いました(それでもまあ皆さん、それなりの年齢なんでしょうが…)。

その皆さんの全体の感じは、女性特有のエネルギーなんだろうなと思いました。男子が集まってワイワイやっても決してでないこの雰囲気。不思議なものは全くみえないけど、彼女達のまわりがなんかフワフワしてピンクのような白のようなそんな雰囲気がありました。女性って集まるとなんでか声のトーンが高くなる。

本来、女性ってこういう生き物なんだよな〜。こういう可愛さとフワフワなエネルギーがあって、そこに男性がひかれる。守ってあげたくなったり、その柔らかさみたいなのに包まれたい気持ちになったり、元気づけてもらいたくなったりする。

普段のママさん達には、こういう感じの雰囲気を感じたことないから(苦笑)、日々の生活っていうのは、仕事に子育て、家事もあるしそれどころじゃない、ってことなんでしょう….

それとも、ひょっとしたら女性って複数集まらないと、こういうエネルギーが出せないのか??

エレガントであることとか、目の前のお菓子やお茶をたわいもないおしゃべりしながら楽しむって、女性にものすごく向いてる=本来備わっている性質なんだろうな…などと先生のアフタヌーンティーパーティの起源のお話を聞きながら思いました。

そんなフワフワ感やキャーキャー言う元気が完全に欠落している自分に気がついて、この会に参加できてなんだか良かった、と思いました。女性特有のエネルギーに包まれて、身体がぽっかぽっかしたんでしょうね、きっと。

猫がでてくるおはなし:「順番を守ること」

こんなお話(漫画)みつけました ↓

動物を飼っている人は特に、ぐっと来るでしょう。

http://togetter.com/li/780318

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そして同じ作者の方の別の作品。

おかしいやら、恐ろしいやら (汗)
ページ下にある「次のマンガ」もクリックして続けて読んでみてください… ↓

http://www.comic-essay.com/episode/read/45

愛する者に厳しすぎる

タイトルの「愛するものに厳しすぎる」という言葉は、
先日観た映画の中のセリフでした。
(”Love and other impossible poursuit” 邦題 ”水曜日のエミリア”  日本公開は2011年)

このセリフの言語が気になったので、何度も再生して聞き取ってみると

It’s the people who you love you’re hardest on. のようでした。

直訳すると、あなたが一番きつくあたるのは、あなたが愛している人々ですね、
になるでしょうか。

映画のストーリーは、ナタリーポートマン演じる新米弁護士が、
就職した事務所で出会った既婚で息子がいる上司と恋愛関係になり、
彼の子供を妊娠したのがきっかけで、既婚だった上司が離婚を選び、
彼女が彼の新しい妻になるという恋愛話です。

ただの恋愛映画でないのは、彼女は念願の彼との子を出産するのですが、
その赤ん坊が生後3日でSIDS(乳幼児突然死症候群)で亡くなってしまい、
そこから彼女がもがいていく過程がメインだからです。

タイトルのセリフは、彼女が赤ちゃんを亡くしてから、うまくいかなくなってしまった彼(上司)との関係をやりなおそうと二人で話し合いをしているときに、彼から言われた言葉です。

このセリフのあとに、

彼はもう彼女との関係をつづけることは無理だと言い渡し、別れとなります。

私はアメリカ映画というのは全般的にあんまり好きではなくて、それは心理描写が嘘くさいというか全然心に響かないからなんですが、軽い気持ちでみたこの映画は意外に真にせまったものがありました。

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ナタリーポートマン演じるヒロインは、赤ちゃんを亡くした後、自分の心の痛みだけにフォーカスして生きてます。

自分だけがつらい大変な思いをしてると思い込んで、周りの親しい人に接しています。

彼女の親友にも彼女より少し前に流産したエピソードがでてくるのですが、その親友が赤ちゃんをなくした彼女を優しくなぐさめようとしても、

流産と生誕後に死ぬのはわけが違う、一緒にしないで!

というようなことをその友人に言ってしまいます。

可愛い赤ちゃんを失くした悲しみは、上司である彼女の旦那さんだって父親としてショックなのに、自分一人だけがつらい思いをしてると思い込んでます。

まあ、つまり自己中心的な感情の中で日々生きてるわけです。

でも彼女の心理状態というのは、よくあるものだと思います。

なにかで悩んで苦しんでいる人というのは大概こういう思考です。

自分だけがつらい、自分の世界だけでしかものをみてない状態です。

私もこの状態に陥っていた時期があり、そのときはこういう思考でしたし、今でもこういう思考になりそうなときはあります。

自分だけがひどい目にあっていると思い込んでいるから、つらくなる。

自分だけが苦しいと思っていて、誰もわかってくれない、孤独だと思ってるから、それが「悩み」になる。

もし、楽しそうにしている周りの人々も深刻に悩んでいることがあると知ったら、かなり気が楽になるのではないでしょうか。

つらさの度合いを他人と比較するということではなくて、

自分だけが苦しみもがいてるという悲しさどっぷりの小さな世界のフタを開いて、

具体的に何もしてくれなくても、人が苦しんでるのを聞くと心を痛めてくれる人の優しさや、

手を差し伸べてくれなくても、ただ優しい視線を送ってくれる人の暖かさに気づけたら、自分の悩みは軽くなるのではないでしょうか。

また悩んでるあなた自身も、
自分より苦しんでるひとがいたら、
私もですよ、とか、なんとか励ましてあげよう、寄り添ってあげようって思う自分の暖かさや優しさをも思い出したら、意外と自分は強いって思えるかもしれません。

そう思えたら、自分の悩みは思ったよりも軽いものかも、と思えて、
もしかしてなんとかできるかも、と思えてきて、
そしたら、じゃ、なんとかしようって先に進めるのではないでしょうか。

自分がつらいときに、愛する者に厳しく対応するのは、その愛する人たちが自分のつらさをわかってくれてないと思っているからでしょう。

厳しくしてつらくあたることで、自分のもつ苦しみを共有してほしくて、そこから救ってほしい、と実は願っているんですよね。

もっともっと、このつらさをわかってよ = だから、もっともっと私のことを愛してよ、という言葉の裏返しだと思います。

それに気がついたら

ストレートに、助けて、つらいよ、と弱さをみせるのもいいですよね。

マザー •  テレサの言葉から

If you judge people, you have no time to love them.

私を助けてくれないと批判ばかりしてたら、愛する人を愛する時間がなくなりますよ(私の意訳)。

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自分の愛する人々とうまくいかなくて、つらい方。ホメオパシー療法が助けになるかもしれません。

ご興味のある方はHPの方へ→ https://arnicahomeo.wordpress.com

秋晴れ、猫。

朝晩冷える時期に、ふかふかに干したふとんで寝る幸せ。
重いけど、綿のふとんがやっぱ好きですわ〜

秋晴れでおふとん干してたら、ニャンコが乗っかって毛繕いをしておりました…(汗)

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干してるふとんの上に寝転ぶ !?

思いつかなかったけど、きっと最高に気持ちいいに違いない。

思わず私も一緒に寝転びたくなったけど、この体重ではふとんは地面に落下すること間違いなしでしょう(苦笑)。

代わりにホカホカに?干されたニャンコを後で抱っこさせてもらいました。

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ピカピカの野菜

昨日、ある女性が作ったお野菜を頂きました(二度目です)。

彼女の作った野菜は、私にはぴかぴかしてみえます。不思議なものが見える力は全くない私ですが、ぴかぴかという形容が自然とでてくるほど、彼女の作った野菜はかがやいてます。
なぜかわからないのですが、畑でとれたての新鮮野菜だから、ではない、なにかが違う感じがあります。

昨日いただいた中には黒豆の枝豆があったのですが、食べて思わず声がでました
「うわ、なにこれ!」 甘いんです。
目をつぶって口にいれたら、”これ、とうもろこし?”と思えるような野菜特有の甘み。しっかりと噛みごたえがある厚みがあって、噛みしめるとじゅっと甘みがでてきます。こんな味の枝豆は大げさでなく生まれて初めて食べました。
う、うますぎる(涎)。

枝豆をもりもりつまみながら、どうやってこのようなものが作られたんだろうと思いを巡らせました。品種やら気象条件だけでない、特別な手間を感じます。

この野菜達に、どれだけ愛情=エネルギーが注がれたんだろうか….そういう観点でみると、この方は様々なことにご自分の愛情を注いでいるんだろうと想像できました。まるで自分の子供に愛情を注ぐみたいに。
そそぐ愛情が大きすぎて、その方自身が疲弊している可能性もあるだろうな、とも推測できました。

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”女性は子供のためだからと自分を犠牲にしないように” というような言葉は、よく言われますし、雑誌や本なんかでもみかけます。自分の人生を生きることはとても大事ですが、でもそこには2種あると私は思ってます。

1つは「お母さんはあなた達のために」というような言葉を使って子供に恩を着せたり、犠牲という文字をちらつかせて子供をコントロールするような母で、心が伴わないのに無理に自分を犠牲にして(いるような道を実は自らが選択して)いるパターン。

もう1種は、心からの愛情を持って、無意識に滅私的に(私利私欲はなく)子供を育てているパターン。

そういえば江原啓之さんがどこかでこんなことを言っていて印象に残っています(言葉は正確じゃないです):

親が自己犠牲をしているから、子供が輝くことができる
自己犠牲がないと子供の輝きはでてこない

これはもちろん上で書いた2種めのパターンの親のことです。

こんなことを考えていたら、リリーフランキーさんの書いた「東京タワー」にでてくる彼のお母さんを連想しました。

リリー氏のお母さんは、まさにそういう滅私的なお母さんで、どうしようもない怠惰な息子に愛情を注いで尽くして尽くして(周りの人にもたくさんの思いやりをあげて)、最後には、小さく小さくなって亡くなりました。
まるで自分の与えられるエネルギーを全て注いであげた後のように。このオカンの死ぬあたりの場面は、今思い出しても涙がにじみます(読んだときは、号泣でした)。

自分の愛情、エネルギーを他の人(こどもを含む)に与え尽くして人生を終える、なんて尊い行為だろうと思いました。

そんなことまで考えて目を潤ませながら、目の前の”尊い”野菜をバクバク食べて、ついつい赤ワインを3杯も頂いてしまいました(コラーッ!)。

苦しい自己犠牲を自らに課して暮らしている方。もっと違う生き方を選択できるお手伝いができるかもしれません。ご興味のある方はホメオパシー療法のHPを御覧ください:https://arnicahomeo.wordpress.com

寂しさ

先日、孤立感が際立ってみえるケースをとりました(ホメオパシー療法で)。
そしたら、翌日なぜか私の中にも孤立感が沸き起こり、気づくと家族に私の孤立感について語っておりました。

ん、ん?私は自分の生活の中で、孤立感を感じたりしていなかったんだけど??
そのケースの波動で私が感化されてしまったのか…..。
こう考えたのは、実はこれまでにも、ケースの中で強くでてきた症状が翌日に私にもみられたことがあるからです。

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そんなことを思いながら、先輩ホメオパスと会う機会があったので、ケースをとった後にそういう体験があるかについて意見交換しました。ちなみに、あるイギリス人ホメオパスはケースを取った後、プルービングしているので(そのケースのレメディの影響を受ける)そのケースと同じレメディ1粒を毎回取ることにしている話は聞いたことがあります。

先輩ホメオパスが言うには、私の中にあるなにかとケースのなにかが引き寄せ合っているのだから(私の中にそういうものがあるので、そういうケースがやってくる)、ケースをみたあとで、私の中にあったその部分がフォーカスされるということはある、でした。まあ、言われてみたらホントにそれは十分ありえることなんですよね。

というわけで、どうやら、私は自分の中の孤立感を眠らせていたようです。確かに知り合いもツテも全くない新しい土地にきてから、仲良くさせていただいている人はいるけど、深い付き合いをしている人はいないです。私は浅く広くより、深くせまくのタイプで(子供の頃は真逆でしたが)いわゆる内向的な性格なので、すぐさま友人に囲まれるようなことは起こりません。グループでの集まりや行動というのも特に求めておらず、1人でいるのは結構好きなので、なんというか友人関係については一種のあきらめ的な感覚を持っていたように思います。
でもどこかで寂しいって思っていたんですね、そしてそれに気がつかないようにしていた。

ここまで思い至って、ふと「寂しさ」を感じました。

おー、寂しいわ〜(悲)

こういう1つのテーマが浮き上がってくるときは、次々と学びやらヒントが降りて来るもので、今度は他のホメオパスから別の件で、こういう考えが流れて?きました。簡略化して紹介すると、

寂しさは隠したりフタをするものではなく、”気づく”べきもの。これまで他人事的にみていた寂しさ、辛さを自分でちゃんと引き受けて、実生活の中でそれをなんとかしようとタフになっていくこと。

それは寂しさという感情だけに限ることではないけれど、自分の中にある1つ1つの感情に向き合って、引き受けて(心が痛かったりしますが)、毎日の生活の中でもがいていくこと、これが自我を統合していく、ということであるわけです。

いや、ほんと、納得します。
まずは気づく、ことから始まりますね。

秋になって寒さを感じてきたときに、寂しさに気がつく。五感と感情のつながりについても考えた秋の日でした。

なぜかわからないけど寂しさを感じている方、ホメオパシー療法が助けになるかもしれません。ご興味のある方はHPの方へもどうぞ:https://arnicahomeo.wordpress.com

インドの「赤ひげ」

連休に京都で行われたインド人医師でホメオパス Dr.サルカールのセミナーに参加してきました。

サルカール氏はホメオパスの間でどのくらいの知名度があるかわかりませんが、歴史に名を残すホメオパスであることは間違いないでしょう。

Dr.サルカールは一日に100人を越す患者をみています、しかもデリーやムンバイでない片田舎?のコルカタで。この数字は、いろんな意味で驚きです:

ーホメオパスにかかる人が毎日100人以上もいるということ
ーホメオパシー療法で1日100人以上をスピード処方できて(急性的な処方ですが)、しかも治癒に導けているということ

ちなみにインドでは毎日100人以上をみているホメオパス医師は彼だけではありません(汗)。それだけみれるキャパにも当然驚きますが、それだけの患者がホメオパシー療法を受けている事実も驚きです。

そこには現代医療にかかる経済的な問題があるわけなんですが、インドでは裕福な方々は現代医療、そうでない方はホメオパシー療法ってのが一般的な図式らしいです。お金がないほうが健全な療法にたどり着けるなんて、なんて素晴らしい。いいな〜インド(憧)。

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Dr. サルカールの毎日の患者のうち何十人かはがん患者です(インドではホメオパシーは政府が認めた合法的な医療行為)。
セミナーでは驚くべき症例がたくさんみれました。

あと3時間後くらいに(数日後ではなく)亡くなるだろうと現代医学の病院の医師に言われ、救急車にのってサルカール氏のクリニックにきた肺がんの男性。レメディを処方された3日後には普通に車にのって話をし、鼻からのチューブもなく、よく眠れているとのこと(注:この時点でがんが消滅したわけではないです)、まるで別人のような顔つきでした。そのどちらの状態も映像でみましたが、人間の治癒力のすごさに驚くしかありません。

ネットでホメオパシーのことを”科学的に”批判するのに一生懸命な方が複数いますが、私はDr.サルカールの症例をみながら、その人々のことを思い浮かべました。

議論しても結論は得られないと思うので、例えば Dr.サルカールのクリニックに行って、みてくるっていうのはどうでしょうか?と 。ただ、その後症例をみていくうちに、偽科学だとかそうじゃないとかいう議論にはまることすら恥ずかしいと思うほど、サルカール氏の臨床は確かなものでした。

ホメオパシーが批判されるのも、そもそも日本ではDr. サルカールほど有効&有用にホメオパシー療法の効果を示せていないからかもしれません。Dr. サルカールのようにひたすら臨床に専念して膨大な数の患者を救ってこそ、療法はみとめられるのでしょう。議論よりも事実、ですからね。

というわけで、彼の処方について学んだことを実践しつつ、「赤ひげ」を目指して精進していく、それができることですね。

あーいいもん、みせてもらった〜

未熟ながら、こつこつやってます、ホメオパシー療法。ご興味のある方はこちらへどうぞ:

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