コロナ自粛中、家でいつもよりたくさん読書をしたり、映画やTVドラマをまとめてみた人も多いだろうと思います。
はい、私もそうです。
娯楽でみた映像の中で最近の私のヒット作品は:
ー Fleabag フリーバッグ
ー ゼロの焦点
でした。
「Fleabagフリーバッグ」 とは、主人公の女性の名前で、そのままタイトルにもなってます。
フィービー・ウォーラー=ブリッジという30代の女性が企画から脚本、監督、そして主演までやってのけたイギリスのTVドラマシリーズです。
TVドラマシリーズときくと、次の回もみてもらえるようなトリックを想像してしまいますが、Fleabagは長ーい映画を短編にきっただけという感じで自然にみれました。
フリーバッグは、タブーの尺度が人よりゆるめで性欲が強め、ある種変人のようにみえる女性の日常を描いた作品です。
彼女の心には亡くなった親友の存在が常にあるのですが、家族や恋人、自分の仕事に対する彼女の歪曲した接し方の方に目がいくように作られています。
しかしドラマの回を追うごとに、歪曲してるのは周りの人や社会慣習の側ではないのかと思えてくるのが上手いな〜と私は思いました。
シーズン2で完結なのですが、シーズン2のテーマの奥深さに個人的に感服しました(ネタバレになるので書けないのがもどかしい、苦笑)。
ちなみにでてくるエピソードがイギリスらしくエグいので(苦笑)、そこが面白く笑えたりもするのですが、アメリカ作品のようなわかりやすい明るさや笑いが好きな人には好みではないかもしれません(汗)。
「ゼロの焦点」は、松本清張の長編推理小説のリメイク版(広末涼子主演)をみたのですが、映画作品にというより、原作に感動したように思います。
といっても原作を読んでないので(汗)、この映画作品の描き方が監督独自のシナリオ&視点なのかわかりませんが、
古い時代の澱(オリ)が新しい時代に向かうときにすべて粛清されていく様(さま)が描かれていて、それがまさに今のコロナ時代から新しい時代へと変化していく現実と重なってみえて、深く私の心に響いたのでした。
登場人物は誰も何も悪くない、そういう時代でそうなっただけ、狭量な社会で生きるのに誰もが必死だった、そういったやるせなさににせつなくなりました。
過去を背負って生きてる人は誰も現実には救われなかった、でもそこでの必死さがあったから新しい時代に展開していくことができた、そのおかげで今があるんだなと鑑賞後に深い感謝を感じたのでした。
上記の2作品をみて、私の心が深く動かされた状態、これをカタルシスと呼ぶことができます。
カタルシスというのは、
哲学者アリストテレスが、ギリシャ悲劇をみることで観客の中におこる心理作用を指して使った用語と言われています。
私個人の解釈でいうなら、カタルシスというのは、
個人の中で抑圧されてる意識 / 感情や欲望が、
演劇や映画などの中で表現されるのをみて昇華されていく状態と捉えています。
現実生活では実現できない自分の意識/感情や欲望を、
実害のない安心な架空の劇中で鑑賞することを通して癒すことだと思います。
そういう視点でみるならば、
自分の琴線に触れる作品には、私たちが深いところで抑圧してるものが表現されてると言うことができます。
楽しい面白い映画ばかりではなく、救いようのない悲劇や、猟奇的な映画、悲惨な戦争映画やホラー映画を人が観たがるのはそういう救いを感じるからでしょう。
カタルシスというのは、違う角度から解釈すると、
この世では、どんな思いを持ってもOKだよというゆるしを体験してると私は思います。
どんなに激しい感情であっても、理不尽でも、憎しみ、残虐的であっても、悲惨でも、変態的でも、社会的にタブーとされていても、その思いや感情をもつことはOKなんだよ、なぜなら、ほらこういう人がいてこういうストーリーがあるでしょ、と架空の作品の中でそれを示してもらってるのだと私は思います。
そのようないわゆる心の暗部がゆるされて昇華されることで、私たちは心の輝く側を発揮していくことができるようになっていると私は思います。
ちなみにカタルシスは、子供たちの絵本にも同じことが言えて、
子どものお気に入りの絵本とか、何回も繰り返し読んでほしい絵本というのは、その子にとってのカタルシスになってるのだと思います。
子供たちは、まだ自分の心のことをうまく言葉で話したり整理することができません。
だから絵本をみることで体験するカタルシスがとても大事なのだと思います。
絵本を選ぶときは、そういうわけで親がこれが健全そうだからとか良さそうだからという思考からの選択でなく、
お子さん自身がなにか惹かれるものを大事にしてあげるといいんじゃないかなと、私は思っています。
