沈黙の日

あのマハトマ・ガンジーは、毎週月曜日を「沈黙の日」として、

何も話さない日をもうけていたそうです。

もし、その日に誰かが彼を訪ねてきても、ガンジーは沈黙を守り、紙と鉛筆で筆談をして対応していたらしい。

沈黙の日をもうけたのは、多忙なガンジーが手紙を読むための時間だったそうですが、そのうち、この沈黙の時間が自分の精神にはなくてはならないものになった、と本人が語るのをある本の中で読みました。

食べる回数を減らすファスティング(断食)や、

物を減らす断捨離と同じように、言葉を減らす沈黙の日は、

わたしたちに何かを教えてくれるのだと思います。

そうはいっても、1日中沈黙するのは日常生活上なかなか難しいように思うので、

夜寝る前の2時間ほどを沈黙タイムとしてお試し中です。

沈黙しだして、すぐにわかったのは、言葉を使わないコミュニケーションはとてもシンプルでもどかしいどころか逆に心地がよいということです。

私と寝る前の2時間でコミュニケーションをとるのは、我が家ではダンナさんだけなのですが(沈黙すると事前に説明済み)、

しかも、その時間に取り立てて、私たちは話し合うこともないので(苦笑)、

目が合ったら、ただにっこり笑ったり、静かに会釈や手振りで意思を示してみる……

言葉がない分、相手の目や表情、全身をしっかりと見るので、相手のそのときの真の状態をきちんと感じることができます。

”誤解”というのは、言葉によって起きてることなんだなと改めて思いました。

なにか相手に伝えたいときに選ぶ言葉や、それを受け取ったときのイメージというのは各々がもつ価値観や感覚によって異なるので、言葉に重きを置きすぎてることが、人間関係の主要な問題ではないのか、などと思ったりもしてます。

また、沈黙してみると、自分が言葉を話そうとするときにいかに気をつけていたり、気を張っていたのかにも気づきました。

相手にわかりやすい言葉を使おうと思っていたり、誤解を与えない言葉を選ぼうとしていたり、そもそも無駄な?カラ元気な?会話→ 本当はそこまで話したくもない会話、そんなこともしていたなと気がつきました。

私が黙ると、ダンナさんも黙る、とても静か…..

1日の終わりにこのような静かな時間を持てると、日中の活動でかき混ぜられた自分のマインドが静かに沈殿していき、まるで波紋がなくなった湖のような静かな感覚になります。

沈黙タイムは、瞑想に匹敵すると思います。

↑ 姫路に住んで10年経つけど、まだ訪れていなかった書写山。
今年やっと紅葉が綺麗な時期にいくことができました。

どちらを選ぶ

顔を洗ってたときに、ちょっとしたアナロジーanalogyが 浮かんできたので、記事にします。

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あなたには、彼氏がいます。

その彼とは、長年つきあっていて、一緒にいることにとても馴染んでいます。

しかし、彼と一緒にいて、あなたは心からの幸せを感じたことがないような気がするのです。

彼は、あなたの良いところや、頑張ったところを、
「それでいいよ、よくやったね」「おー、すごいね」などと、よく褒めてくれてるのですが、

同時にあなたがあまり良くできていないところを、
「ほら、また、やっちゃってる、ちゃんと注意しとかないと」「だめだめ、まだまだ」などとも指摘もしてくるのです。

あなたが努力してやっとできるようになったことに関しても、
「やったね、ちゃんとできたね、おめでとう」
「それで、次は何にチャレンジしていくの?」
という感じで、常に次のことが準備されていて、あなたは完全にリラックスしたり、平和な心持ちになれないのです。

一方で、あなたは最近、新しい男性と出会う機会がありました。

幾度か二人で話をしたのですが、この彼は、

あなたが素敵なところや、よくできるところを褒めはしないけれど、
失敗したことや、あなたの欠点と思われるところにダメ出しも評価もしなくて、
ただ静かにそばにいてくれる感じの人です。


その人といると、自分にマルやバツがつけられないので、
気分が特に盛り上がることもないけれど、
あとで落ち込んだりくやしくなったりすることもないので、
安心した平穏な気持ちでいられることに気がつきました。

今の長年つきあってる彼といて、彼のアドバイスに従って何かを努力し続けて、
そしてある日今より良くなったであろう私になれたとして、
それで私は最後に何を獲得するんだろう……
最後の最後に私が目指していることは何なのだろう…..

あーよくできた!
これでもう十分だ!やりきった!と感じて…..
そして完全に満たされた気持ちになるのかな?!

そもそも完全に満たされた状態って何だろう….
もしかして努力して「私」を良くしていくことって、
ラットレースみたいに終わりがない行為で、ただ虚しく続いていくだけなんじゃないの…..!?

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以上、

今の彼 =  あなたの頭の中のマインド(エゴ)の声

新しい彼 = ほんとうのあなたで在ること 


で喩えてみました。

あなたは、どちらの彼を選びますか…..

(顔や外見をみないと選べません、の声が聞こえる….笑)

↑ 6月頃に我が家に現れた迷い子猫(♂)。
最初、痩せていてあまり動けない様子でしたが(里親探すの無理だろうと思いました)、
いつのまにか元気になり、去勢手術も済ませ、我が家に定住することになりました。

あなたが為(な)さなくてよい

本を読んでいたら、心に響く文があったので、記事にします。

以下、私の意訳です ↓:

親愛なるひとよ、あなたは仕返ししなくてよいのです、

神の怒りに任せましょう、このように書かれています:

「恨みを晴らすのは、わたしの為すことです、私がやりましょう」

と神様が言われています。

Do not take revenge, my dear friends,

but leave room for God’s wrath, for it is written,

“It is mine to avenge;

I will repay,”  says the Lord.

新約聖書に納められてる「ローマ文書(ローマの信徒への手紙)」12章19の抜粋です。

当時、迫害を受けていた信徒あてに書かれた文章だそうですが、

誰かに悔しい思いをさせられたけれど、相手に仕返ししたり、報復することを望まない人、そのような戦いをしたくない人には、心が救われる教えではないでしょうか。


なにかのドラマみたいに倍返し?したいと思う気持ちが湧くのもわからなくはないですが、個人で報復しても、そこで終わりにならなくて、相手がさらにやり返してきたら、お互いの怒りや恨みは延々と続いていくでしょうし、それが戦争という愚かしいことの始まりだと誰しも気づいていると思います。

かといって、相手を恨んでしまう思いやそのときの悔しさは、忘れようと思っても、何度も脳裏に浮かんできて自分を苦しめるでしょうし、そうなるとその思いに毎度エネルギーを与え、回想は消えることはなく、自分が苦しい状態を保持することになります。

ということで、そういうときは、上記のように神の為すことを信じるのがベストではないでしょうか。

神=宇宙の法則は、必ず報復がなされる仕組みです。

マイナス波動を誰かに向けて発した場合、それはかならずその人に返っていくのです。

もし誰かがあなたにひどいことをしたら、その人には同等のエネルギーが必ず還ります。

ルイーズ・ヘイ(アメリカ人の亡ヒーラー)も言っていました。

財布を盗まれたと話す人がいたら、彼女はその人に尋ねたそうです。

あなたは、最近、なにかを誰かから盗みませんでしたか?と。

すると、その財布を盗まれた人は、ちょっと思いをめぐらせて、「はっ!」とするそうです。

それが、例えば会社の備品をちょっと拝借したといった小さなことでも、
物でなく友達の彼女/彼氏の横取りという形であっても、なにかしら、そういうことをしているそうなのです。

報復は、いつ、どんな形で起こるかは、神にしかわかりません。

しかし、報復はあなた個人が為す必要はなくて、あなたがするのは、そのとき自分の中にわきおこった感情の解放だけです。

ああ、いやだったな、悔しかったな、と。

そして、あとは、神(宇宙)を信じて、神(宇宙)にお任せしてみると良いと思います。

初めての場所を歩いていたら、軒下に咲いていたグラジオラス、華やかでした。

みんな、つながりたい

先日、海に行ってきました。

いつもなら、波打ち際で足を水につけるくらいだけど、今回は水着をきて、しっかり泳いできました。

海でがっつり泳ぐなんて、子供が小さかったとき以来なので10年以上ぶりです。

サイコーでした。 

そこのビーチには、いわゆるインスタ映えしそうなブランコが設置されており、そこでお互いにポーズをとり写真をとりまくる若い女子たちがいました

彼女たちは濡れてもよさそうな格好ではなかったので、海の水に触れることもなく、海をじっくり眺めることもなく、写真を取り終わるとそのビーチを離れていきました。

私は、海とつながりたくて、海に入り、海とつながった感覚をもち、

彼女たちは、人とつながりたくて、写真をとり(勝手な推測ですが)インスタにあげて、いいね!をもらうことで、人とつながった感覚をもつ。

自然とつながりたい、人とつながりたい、違うものにつながりたいようにみえるけれど、

全ての人の全ての行為は、その体験の奥の奥にあるなにか、
私たちを生かしてくれてる大いなる存在とでもいいましょうか、
1つのいのちみたいなものとつながりたい衝動から動かされてるんじゃないのかなと、思います。

ナイアガラの滝をみて圧倒されたい気持ちも、

過酷なエベレスト登山に挑戦したい気持ちも、

猛烈なスピードでバイクを飛ばしたい気持ちも、

大好きなシンガーの歌をライブで聞きたい気持ちも、

一流シェフの最高級の料理を食べにいってみたい気持ちも、

沈みゆく見事な夕陽や、愛する人の笑顔をみたい気持ちも、

それらに魅了される体験を通して、

自分の心がその奥にあるなにかに触れることができるから、
なにかにつながれて満たされるから、やってるんじゃないかなと思います。

その誰もがつながりたい何かとは、

遠くまで探しにいかなくても、

外側に求めなくても、

実は自分の中に存在していたことに気がついていく旅、

それが人生なんだろうな、と波に体を浮かばせながらぼんやり考えていました。

↑ 夕方、宿から撮影。光が海面に反射して綺麗でした。
(京都/京丹後市のビーチ)

早朝の海。人いなくて静か、爽やか、波の音だけ。
海は塩分のおかげで浄化作用があるといいますが、海に入って心身丸ごと清められた感がすごかったです。
いい年になってくると(汗)、海に入ろうと思わない人が多いと思いますが、色々背負ってる大人ほど海に入ったほうがいいなと、自分のことを含め思いました(笑)。

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自分の中に存在する大いなる何か、それを皆でみていく5回シリーズのミーティングをします。

土曜グループと午後グループ、まだメンバー募集中です。

ご興味のある方は、こちらの記事をどうぞ。

「心」を超えていく

いつの頃からか、ずっと自己実現というのを目指していました。

自己実現が自分にとって何を指しているのかはわかっていなかったけれど、若い頃に「これから何をやりたいの?」と聞かれると「自己実現です」と答えていたのを覚えています。

その私がずっと子供の頃から惹かれていたのは、「心」を扱った物語や、「心」の問題を話すことでした。

それを学問にするなら「心理学」ということになるのでしょうが、しかし、何故か心理学の道には行かずに、気づけば、ホメオパシーやエネルギー療法を使いながら、スピリチュアルな道に入っていました。

そしてこの過程で、ずっと自分が惹かれていた「心」を扱う仕事をやってくることができました。

思考、感情、精神を含めたいわゆる「心」をどう扱うかということに取り組んできました。

つかみようのない心ですが、仕組みや取り扱いがわかってくると、かなりうまく付き合えるようになってきます。

カルマに気づいたり、過去からのブロックを外したり、物事の見方、捉え方などで、心の持ち様が変わってくるからです。

しかし、ある程度浄化というものをしてくると、

「心」の掃除にはキリがないことに気づいてきます。

どんなに心を鍛錬しようと、どんなに自分を愛そうとも、終わりがありません。

誰も住まなくなった家にも、自然とホコリが絶えることなく積もっていくように、「心」もどんな大掃除をしたとしても、永久に安定した状態のままであることはないのです。

全てが諸行無常なように、それに反応する心もそうなのです。

しかし、人は心の平安を願い、

それを強く願う気持ちが次のステージに進ませることになります(というか人間はそのようにプログラミングされてると私は理解しています)。

次のステージは、なにかというと「心を超える」ことです。

心を超えるというのは、

私の言葉で簡単に言うならば、

心をなんとか扱いやすくしようとしていたことを止める

です。

頑張ってやってきた相棒?である心と訣別する、という言い方もできるかもしれません。

心というのは自分ではないのだ、と気づくことが、心を超えるということになります。

では自分とは何か、が続く問いになると思いますが、

それが、私が目指していた「自己実現」、ほんとうの自分を現す旅なのでした。

ということで、心を超えたいと思った方、

心を超え、大いなる1つの意識に気づいていくミーティングに参加しませんか。

ただいまメンバー募集中です。

詳しいことは ↓

こちらの記事をどうぞ。

*ご希望を頂き、午後開催のグループを追加しました。

 午後グループは、1回目が 7/24 (月)15時スタートです。
午後グループは、2回目以降の日時は、参加メンバーの都合に合わせて決めていこうと思っています。

 午後なら参加できるという方、customerarnica@gmail.comまでご連絡お待ちしています!

ユリが美しい季節ですね。

究極の望み

あるとき、それは起こりました。

それは何年も前のある夜の出来事で、寝る前にいつもの瞑想をした後だったと思います。

そのとき、私は「わたし」が胸のあたりにいると、気づきました。

ピッタリする言葉で言うと

「わたし」がハートにいる、と感じたのです。

それまで、「わたし」がどこにいるかなどと考えたことはなかったと思いますが、
そのとき、私は「わたし」はいつも脳の辺りにいるのに、今はハートにいるなと気づいていました。

「わたし」がハートにいる感覚、これを言葉で表現するのは難しいです。

なぜなら、「わたし」がハートにいる感覚は、それまで何十年も生きてきた私が一度も体験したことがない感覚だったからです。

それでも、その感覚を敢えて言葉でいうなら、

完全なる平和 とか

完全なる安心感 という表現になるかと思います。

それまでも生きてきて、”あ〜今日は平和だな”とか、”すごい安心感だ”みたいな表現をする状態を味わったことはありますが、そういう平和や安心感とはケタ違いの感覚なのです。

どんなスキも、一分の疑いもない、完全なる、まったき平和な感覚でした。

その後も、瞑想中などにそのまったき平和を体験してきましたが、2回目からは、それが「空 Kuu」つまり「大いなる源の意識」なんだとわかりました。

私の究極の望みは、この平和の感覚と共にありつづけることです(ありつづけられないので、それが望みになっています)。

この私が望む状態を、インナーピース Inner Peace と呼べると思います。

この世で、どんなに才能を発揮し成功しようとも、お金をたくさん稼げたとしても、どんなによい人間関係を持てたとしても、 Inner Peace に勝るものはないと思います。

というのも、Inner Peace は、私たちの外側で起こることや、外側で獲得するものに全く影響を受けないからです。

そして、実はこれがどんな人の内側にも在るもので、全ての人は遅かれ早かれ、その道を求めることになっているのだろうと思います。


あなたの中に常にあるインナーピースに気づいていく集まり、
コンシャスミーティングConscuous Meeting というのをやります。

メンバー募集についての記事は、コチラをどうぞ。

Conscious meeting メンバーを募集します

私はレメディやエッセンス、コンサルテーションを使って、
エネルギーブロックをはずすことを仕事というカタチでやってきましたが、

自分の深いところで目指してきたのは、ずっとEnlightment (啓発)でした。

2017か2018年あたりに最初の目覚めと呼べる体験をし、
その後も「空」を一瞥で体験したりしながら、ずっと大いなる源とつながりながら生きることを望んできたと思います。

啓発いわゆる悟りと呼ばれるものは、言葉では説明できない、体験するしかないと昔から言われてきましたが、今のエネルギーの高い時代は、覚者が格段に増えていることから情報も増え、エネルギー場への理解等からも、悟りとはつまりどういう現象なのかという仕組みが以前よりみえてきてると思います。

また今は以前とは異なり、ほんのわずかな覚者たちだけが一瞬で悟りに導かれたような時代ではなく、これから多くの人々が徐々にその状態になっていく時代だとも言われていて、私にはこれが腑に落ちています。

そして私もその道を歩んでいると感じていますが、この集いに何かが響いた方もまた同じ道を歩んでいると思います(本来、全ての人がこの道にいるのですが)。

ということで、同じ道を歩むものたちが集まり、お互いに意識を高める機会にできたらと思い、この集いを企画します。

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Consicious Meeting コンシャスミーティングのメンバー募集

このネーミングにした理由は1つ前のBlog記事をご覧ください。

ミーティングの形式&内容:

ペルーからの話 + メンバーの皆さんが感じたり気づいた話のシェア 

ペルーからする話の主な内容(予定です)

・なぜ今、皆が目覚めに向かう時代なのか

・意識をあげていくための話
(源とつながるとは何を指してるか、エゴとは何か等)

・人の根源トラウマ5パターンについての知識

 (これを理解すると、人を嫌いになれないし、この世の問題とは実は個人的なものではないことがわかってくると思い、チョイスしました)

・今後の世界について起こると言われてることについて

2023年内に5回連続したミーティングをします

月曜グループ:7/10, 8/28, 9/25, 11/6, 12/11

水曜グループ:  7/12, 8/30, 9/27, 11/8, 12/13

土曜グループ:7/29, 9/2, 10/1(日), 11/11, 12/16
*土曜グループのみ都合により、1回日曜が入ります

午後グループ:1回目 7/24(月)15時〜18時 
午後グループの2回目以降の日付は参加メンバーで毎回相談し決めていきます 

        

各回のミーティングは、

10時〜13時の3時間で、zoomで行います。

グループメンバー: 各グループ 5名まで募集します

参加費:各回 5.000円 x  5回  = 25.000円税込

*人数が2名以下の場合は早めに終了することがあります。

*トラウマパターンの話が終わった後に、
 ご自身の中に認めるトラウマパターンを動かすレメディを処方&郵送します。

 (このレメディ代金は参加費に含まれています)

*参加費のお振込は一括をお願いしたいのですが、分割がご希望の場合はご相談ください。

*ミーティングを欠席される場合、事前にご希望があれば当日のzoomを録画し送信します。

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メンバーになってくださる方は、customerarnica@gmail.com まで

以下の項目を記載してメールをお願いします:

①お名前

②ご住所(レメディを送付するときのため)

③携帯などの電話番号(zoomなどでつながらないときのため)

②希望曜日グループ

③応募した動機やご要望等

深い話をして、お互いが深くつながる場になるといいなと思います。

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↑ 先日、曇りの日出てた太陽、ハートに見えた。

Conscious meeting

私、なんであんなことしちゃったんだろうと、

”後になって気づく”こと、誰しもあるのではないでしょうか。

怒りたくないのに、ついカーッとなって大きな声で言ってしまったとか、

いつのまにかYoutubeを何時間も見て過ごして、後で思い返したら、特に見たい内容でもないし、自分に何のよい影響もなかったのに、なんで途中で止められなかったんだろうみたいなこととか、

信号のない横断歩道を渡ろうとしてる人がいるのに、車のスピードをゆるめる余裕がなくて停車しないでついそのまま通り過ぎてしまったこととか、

冷静な自分に戻ると、そうはしなかったよなと思えるような言動です。

このようなとき、あなたは「無意識」状態だったということができます。

ちゃんと自分の「意識」を保てていたのなら、しなかったわけなので。

だから、本当の自分らしく生きるには、細かいことから大きなことまで、

いかに「意識的にいるか」が、大事になってきます。

パワハラやモラハラといった社会的な事象なども、昔は当たり前みたいにスルーされて通っていたことですが、昨今明るみにでてきて、そこに人々の意識が向けられてきたら、

なんという恐ろしいことをやっていたんだ、

なんと意識が低かったんだ、と気づいていき、改善されていきます。

無意識状態で過ごしていたことを、意識的にみるというのは、

「自分が今、何をしているか」にはっきりと気づくことであり、
その都度、本当の自分がしたい判断や選択をできていくということになります。

ということで、無意識状態をなるべく減らして、意識的にいるように、意識を上げていく場をつくりたいなと思いまして、

Conscious Meeting コンシャスミーティング

というネーミングで定期的な集まりを企画しようと思います。

意識を上げていくとき、同じ志の仲間といることはとても大事で、そしてそれは集合意識にも影響していくものです。

ということで、その事前のお知らせです。

詳細は、これから練って、後日お知らせしますが、

5名くらいのスモールグループで、

1〜2ヶ月に1回くらいのペースで 全部で 5, 6回くらい、

zoomにて、

エッセンスやレメディも使いながら、

お互いの気づきをシェアしていくことで、意識を上げていく場になればなと考えています。

ただ話す場だけでなく、

無意識で言動を起こしてしまうのは、それぞれの人が体験してきた根本的なトラウマとリンクしてるなどの心についての学びも織り交ぜていこうかなと考えています。

この集いに、こうしてほしい、こういう内容も興味があるというような要望や、

ご意見、アイデアなどがある方がいましたら、教えてくださると嬉しいです。

日時や曜日のご希望などもありましたら、customerarnica@gmail.com までご連絡ください。

少し前に惹かれて購入したオレンジのバラが咲きました。
これに惹かれたということは、第二チャクラと関係してたんだろうな〜笑。

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この企画、Mさんという方がご希望くださいまして、カタチにしました。
Mさん、もやもや&モタモタしてた私を動かしてくださり、ありがとうございます。

自分をちゃんとみてあげる

何年も前にお会いした男性の話です。

その男性は当時30代くらいで、

「お、アーティストか!?」と思わせる印象の人でした。

はっきりした色の服、自分の体型とマッチしてる独特の着こなし、

ヘアスタイルもキマっていて、どこにいても目をひくだろうオリジナリティが外観にも出ていました。

聞けば、少し前までアメリカで映像関係のクリエイティブな仕事を実際にしていた人でした。

この男性の悩みは、

「(帰国してから仕事がみつからず)アーティストになりたいけど、なれない」

というようなことでした…….(!)

見た目がアーティスト、

経歴もアーティストです。

自分のオリジナリティ(芸術性)をすでに外側に現していて、

社会の中でもそれを具現化していた人です。

この男性に足りなかったのは、

「自分で自分をアーティストと認める」ことだけでした。

ということで彼の悩みは、彼が自分をアーティストと認めることにより、あっという間に解決したわけですが、

この話は、見方によっては、笑い話のようにもとれます。

全て揃っていて、足りなかったのは、どこに探しにいく必要もない、何の努力も不要な自分自身への評価だけだったのですから。

かといって、この話を笑い話として笑い飛ばせないのは、

この彼のような状態で苦しんでいる人はわりと多いし、

自分自身も過去にこの状態だったことがあるからです(苦笑)。

あなた、すごいね〜とか、

本当によくやってるよ、とか、

いろんな評価の言葉を周りからもらっても、

いやいや、まだまだ、と受け取らなかったり、

ありがとうといいながら、全然それを本気で自分の中で受け入れてなかったりしていることありませんか。

人のことは簡単に褒めてあげたり、評価してあげるのに、いざ、自分のことになったら、

理想が高くて、自分は全然だめだとか、できてないと厳しい評価を下していませんか。

そのような自分で自分を認められない苦しさをもっていたら、おすすめしたいのは、

”鏡” をもっともっと見ることです。

この機会に大きめの鏡を1枚買い足すのもいいかもしれません。

要は、自分をもっとみてあげるためです。

鏡を見ない日はないかもしれませんが、さっと見終わらないで、ちゃんと&じっと自分をみてあげる。

目をきちんとみつめてあげたり、自分といる時間を(鏡の中の自分をみる時間を)もっと多めにとってあげるといいと思います。

自分がどうやって生活したり、行動してるかを動画にとってみるのもいいと思います。

自分に評価が辛い人は、人のことはみてあげてるけど、自分のことをみてあげてない人が多いように私は思っています。

だから、自分をもっとみてあげると、だんだん、自分がしてる言動にもちゃんと目を向けられるようになっていきます。

そしたら、自分ってわりとちゃんとやってるなとか、等身大の自分がみえてきて、自分への評価を自分でできるようになっていきます。

鏡をちゃんとみる習慣というのは、そのうち、自分を客観視する習慣に移行していきます。

そうすると、他人を評価してあげるように、自分のことも評価できるようになったり、
衝動的に感情に圧倒されてしまう自分なども客観視できるようになってきて、
自分ととてもうまくつきあっていけるようにもなっていきます。

実のところ、本当のわたしたちというのは、1つの大きな意識で(神ともいう)、

その意識が肉体をもったヒトの私たちを通して体験をしてるので、

「鏡で自分をみる」というやり方は、1つの大きな意識が、肉体をもってる私たちを高い次元からみてあげてるのとリンクする見方ではないのかなと私は解釈しています。

Youtube 見るより、自分をもっとたくさん見てあげよう(笑)!

↑ 記事と全く関係ないのですが、最近はまってるオートミールのクッキー。
バナナをつぶしてオートミールとナッツやドライフルーツと混ぜるだけ。
砂糖も小麦粉も不要で、分量も計らないでパパッとつくれるから楽です。

↑ 丸められるくらいの固さにして(柔らかくてOK)、180度で30分焼きます。
トレイに少しオイルを塗っておくと、くっつきません。
オートミールでやってるけど、今度、ハトムギでもやってみようかと思ってます。

思考は、ツール

私は瞑想をするとき、あぐらで座って、目を閉じて、何もしない状態になろうとします。

何もしないというのは、思考しないということですが、

私が「思考しない」ように意図してるのに、

思考というのは勝手に湧いてきます。

まるで自然発生するかのように、頭の中に声や映像として湧いてきて、

その思考を川のようにさらさらと流せるときもありますが、

湧いてきた思考が別の思考につながって思考の長い連鎖になっていくこともあります。

(ちなみに、その思考の連鎖をただ眺めてほおっておくと、いつのまにか思考はなくなって瞑想状態になります、また瞑想状態にならないときもあります)

一方で、私が例えば新しい講座をやろうかと思いついたとき、

その講座内容を吟味するとき、

私はよりよい内容を考えよう、アイデアを出そう、つまり具体的に思考しようと自分で意図してるわけですが、このようなときは、

私は自分が意図した通りにちゃんと「思考しています」。

この2つの思考を比較すると、

わたしが意図していないのに自然に湧いてくる思考 と

意図して行う思考 

の2種があることがわかります。

エネルギー療法をやってるので、その視点でこれを分析するならば、

前者の意図しないのに湧いてくる思考は、

わたしたちのエネルギーフィールドに存在するエネルギー(過去に体験したり、思考したエネルギー)を単にキャッチしてるのだと思います。

後者は、何かを創造していくために、思考というツールを使っている状態だと認識しています。

どんな人も十分に体験してると思いますが、

自然に湧いてくる思考というのは、私たちの精神にとって好ましくないものの方が多いです(苦笑)。

勝手に湧いてくる思考というのは、

過去にしでかした後悔だったり(あのとき、あれに気づいてこうしてれば良かったんだよ、みたいな)、

消化していない怒りや悲しみを追体験してたり(あの人にあの時、こう言われて、なんで言い返せなかったんだ、くそーとか)、

気にしてることや漠然とした恐れだったり(今度のイベント無事に問題なくできるのか?とか、親の介護のことそろそろ考えないと、とか、地球環境はこのままどうなってしまうのかな?みたいな)

他には、自分にとってどうでもいいことなのに、なぜか印象に残ってるシーンだったり(あそこでAさんにこう言われたときのBさんの変な顔とか、昨日読んだ漫画のどうでもいい1シーンやYoutubeでみたある映像や音楽がただ蘇ったり)、

いわゆるそれらを再度思考したところで、幸せになるものではないものが大半で、簡単にいうとネガティブな思考が多いです。

ある具体的な悩みを現在進行形で持ってる人の場合は、

その悩みが起きたシーンから対象相手のそのときの言動や、相手への批判など映像や思考やそれに伴う感情の連鎖が次々と起きてると思います。

何を言いたいかというと、

このように自分が意図しないのに、勝手に湧いてくる思考というのは、

「自分が起こしたものではない」と知るのがよいと思います。

セルフサービスのカフェに座っていたら、向こうからジュースのコップを運んできた人が何故かつまづいて、自分の目の前でジュースをぶちまけたとします。

それをみて、あ〜私があれを起こしたんだ、とは思わないですよね。

それが、なぜ起きたかはわからないけど自然発生的にそれは起きたのです。

だから、自然に湧いてきた思考も、自分が意図して起こしたわけではないので、それらの思考に囚われる必要はなくて、またネガティブな思考が起きてる自分も責めたりしなくていいのです。

思考というのは、上記したように、意図して使うときは、私たちがよりよく人生を送れるように使えるツールです。

よりよくするにはどうしたらといいだろうと意図したときに思考を使うだけでよくて、

湧いてくる思考の方は引きずりこまれないでスルーしておけばいいのです。

もちろん、湧いてくる思考が自分にとって苦しかったり、具体的な悩みがあって苦しい場合は、

この湧いてくるネガティブな思考から解放されるにはどうしたらいいだろうと、

敢えて意図してツールとして思考すればいいと思います(解決法を探るのに思考を使う)。

といっても、勝手に湧いてくる思考をスルーしていくのは実際にはなかなか難しいですが、

多くの時間、自分の頭の中を占領してる「意図してないのに勝手に湧いてくる思考」に
巻き込まれてる状態に気づく回数が増えていくと、

もっと目の前のことに集中できて、日々の心の調子はかなり軽くなるし、寝つきもよくなります。

と、これを記事にしてる私ですが、

昨晩、瞑想していたら、昨日ご近所さんにいただいた「たらの芽」を天ぷらにして食べたことが思考としてすぐに浮かんできて、

そしたら、20代の頃に働いていた会社の社長さんに都心のおしゃれなカウンターの料理屋さんに連れていってもらって、そこで新春の山菜のこごみだかたらの芽が出された記憶がつながって湧いてきて、それを私はあまりにも苦くて一口しか食べられなかったな、今は全く苦いと思わないのに、あのときあんなに苦く感じたのは何だったのか……、新春の山菜でデトックスするのを私の体が拒んでいたのかなとか、思考の連鎖が始まり、そういえば、あの社長さんはある社員の女性とそういう関係だとうわさされてて、他の女性社員たちがその女性社員にすごい不満をもらしていたなとか……. はっと気がつくと、どんどん湧いてきた思い返したところで本当に全くどうでもいい思考に溺れていたのでした。

はい、それで、この思考のことを今朝、記事にしてみました(笑)。

↑ たらの芽の写真は、撮り忘れた… ホームセンターで買ってみたチューリップがいい感じに咲きました。