3回シリーズ講座:『Just Be me』参加メンバー募集

私はこれまで、
クライアントさんのエネルギーブロックを、
レメディやカウンセリングで外しながら、
わたし自身の中にあるブロックも同時にはずしてきました。

自分の中の不要なパターンや思い込みが浮上するたびに、
浄化作業にせっせと励んできました。
そして、それがある程度まで終えたと思える頃に、
「いま、にいる=Being」という次の扉が開きました。

そして、それを探求し続けていたら、
いま、にいることの現実的な過ごし方として、
次のことに導かれました。

言葉で表現するならば、
”わたし”でいる、”わたし”として生きる、
と言えるような在り方で、
その在り方をいまも深化させているところです。

JUST BE ME の “わたし” とは、
自我意識のわたし、のことではなく、
真のわたしを指しているのですが、
それが何を指すのかというのを体験し理解できるように、
様々な視点、やり方を導かれながら学ばせてもらってきました。

そしてわかってきたのは、それを実践していく生き方は、
とても気楽なことだったということです。

自我の ”わたし” ではないほうでいることになるので、
自我の ”わたし” の苦しみが減ります。
自我の落ち込みも、自分へのジャッジも減るからです。

そうはいっても、今もそこに取り組み中の私なので、
起きてくる事象によっては心のさざ波が起きますが、
ベースが平安な心になってきているので、
さざ波から起きる影響が以前に感じていたような深刻なものではなく、
全体的にライト(Light) です。

この自分が体験しながら獲得してきた知識や具体的なやり方を
シェアしたいと思い、下記のような講座の形で提供してみることにしました。

1つ前の記事で書いた変容を促すレメディや、
私が体験したことをワークという形で取り入れながら、
参加者の方々にとっても、真の ”わたし” の方に変容していく流れに
なればいいなと願います。

上記の講座に参加ご希望の方は、
①お名前(よみがなも)
②希望曜日グループ
③簡単な参加志望動機
④郵便番号と住所(最初にとってもらうレメディを郵送します)
を記載の上、

customerarnica@gmail.com まで送信ください。

受け付けた方には、参加料金の振り込み先をご連絡します。

*オンラインのグループもおかげさまで開催することになりました。
初回は、2/9(月)です。
参加されたい方は、1/25くらいまでに連絡くだされば、参加可能です。
オンライングループは、毎回メンバーの都合をみて開催日時を決めていきます。

12/24 クリスマスイブの日、キャンドルつけてみました(ニューコラボで)。
静かになって自分の中の灯(あかり)とつながる、そんな講座にしたいです。

「才能」と「憧れ」

魂の役割、使命というような言葉がありますが、
自分のそれが何かを切実に知りたいという人は多いと思いますし、
実際、お金を払ってでも誰かにそれを教えてもらいに行く人もいます。

スピリチュアルな言葉でいうと、
その人の「ブループリント」という言い方になると思いますが、
要は今の肉体を持って、この世に生まれてくるときに、

この3次元世界で、こういうテーマを追求&探求しよう

といった、自分のソウルグループやガイドたちと設定してきた
「魂のプラン」のことです。

私個人の感覚でいうと、

それをしていたら、
どんどんやりたくなって、
どんどん追求したくなって、
”底なし”というか”天井なし”に進めて、
次のレベルがどんどん展開していくもの、
それがそうなんだと思います。

それにエネルギーを注ぎ込んでるのに、
疲れをあまり感じなくて、
エネルギーも枯渇するどころか、
やってるとイキイキとして、
飽くことなく続けていけるもの、それがそうなんだと思います。

何故なら、それは自分の深いところから溢れてくる
”創造エネルギー” とつながっているから、だと分析できます。

途中で挫折したり、
うまくいかないことやブランクも体験するかもしれないけど、
それでもやっぱり、そこに戻ってきてやってしまうもの、
それがそうなんだと思います。

平易な言葉でいうと、
その人が持って生まれてきた個別の「才能」とも言えます。

才能は、
社会的な職業として成功する類のものもあるでしょうが、
普通に暮らす中でみられる、
その人の段取りの良さとか、
人同志の輪を取り持つ才能とか、
優しい言葉がけができる才能みたいな
小さなコミュニティの中で発揮されるものも同等だと思います。

一方で、これをしたい、やってみたい、こんなことが好き、
という言葉で表現される思いを誰しも持ってるのでは、と思います。

これらも、その人が持ってきた才能の1つの側面かもしれませんが、
これは実際にやってみて体験してみないと、
それが魂のブループリントで設定してきたものなのか、
それとも、過去に(もしくは過去世で)
やりとげられなかったいわゆる
「憧れで終わったもの」だったのかが
わからない仕組みになっているんじゃないかなと思うのです。

私個人でいうと、
仕事としてやらせてもらっている
エネルギーのこととか、
精神世界、スピリチュアルなことは、
全ての事象の中で、最も自分が関心があることで、
それに最もエネルギーを注いできてると思います。

最初のうちは、何で私が(他にそういう人はたくさんいるのに)
こんなことしてるんだろう ?! と
自問しながらしていたけど、
追求していけばいくほど、どんどんのめり込むし、
やればやるほど、次のステージの扉がひらいていくし、
理解度がどんどんあがっていく感覚を感じています。

ちなみに、趣味のテニスもそんな感覚です。
傍目からみたら、
単なる素人のおばさんテニスなんですが苦笑、
やってる私自身の内側の感覚は、
もっとやれる、やればやるだけ面白くなって、
追求をやめられない、そんな体感なのです。

一方で、「歌う」こと、
これを叶えたいと過去に思っていました。
体全身で腹の底から歌う人をみると、
胸が熱くなって涙があふれてきて、
自分もそういう表現をしてみたいと思っていました。

そしてボイトレに通いました。
おかげさまで、歌は、なんとか人並みレベルにはなったのですが、
歌っていても、テニスやエネルギー療法でみられる”天井なし”の
内側の感覚はいつまでたってもやってきませんでした。

というより、天井がいつまでたっても、そこにある感じ(笑)。
努力して練習しなきゃという思いはあっても
(マインドで強行しようとしてた)、
気づけばいつのまにか歌っているとか、
歌のことばかり考えてるという自分になることは、ありませんでした。


ぐーっと引いた視点で分析するならば、
私にとって「歌で表現したい」「歌いたい」というのは、
叶えられなかった過去もしくは過去世での「憧れ」だったのだと思います。

ボイトレに通って、歌をうたう体験をしてみた自分がいえることは、
歌う表現は好きだけれど、それは、私の憧れであって、
才能ではなかったんだな、ブループリントに刻まれてはなかったんだな、
と腑に落ちた感じです。

あきらめとは異なる、スッキリした感覚です。
やり残したことを完了させた、そんな爽やかな感じがしたのです。

つまりは、この ”完了” 体験をすることが、
ブループリント上で計画されていたのだと思います。

ということで、まとめるならば、

「才能」と「憧れ」、
どっちもこの世で実際に使ってみること、
やって動いて、体験してみる、

それこそがこの世でやること、
あなたの魂が望んでいること、という結論になるかと思います。

↑クリスタル、にみえる…….気温がかなり下がった朝のメダカ鉢に張った輝く氷です。
(この写真の鉢にはメダカはおらず、雨水だけ入っています)

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5月末くらいに、加古郡稲美町のニューコラボで、
歌ったり、演奏したいという思いを叶える「音楽まつり」を開催したいと思っています。

人前で歌ってみたい、演奏したいと思ってる方は、
ニューコラボのインスタでのお知らせをチェックしてしておいてください〜

「歓喜」の体験

わたし個人に起きた体験についての記事になります。

昨年末にアメリカのサンタフェに行ったときのことです。
そのツアーでは複数のミラクルな体験をしたのですが、
どれも言葉にするのは難しいなと思っていて記事にするつもりはなかったのですが、
先日ニューコラボで行ったチェロの音浴(サウンドバス)で、
サンタフェで体験したことと非常に似た体験をしたので、
これはアウトプットしてシェアするのがよいだろうと思い、書くことにしました。

サンタフェは、古代アトランティスの聖地という波動が高いエネルギーの土地であり、
そこで波動が高く保たれたオフィスにいて、
その一室で波動が高い人からスピリチュアルなワークを受けるという
全てが揃った環境でした。

その体験が起きる前、その部屋では皆で誘導瞑想を受けていました。

誘導瞑想の声で、どんどんと自分の奥深くに入っていってるのに、それと反比例するように私は自分がどんどん上昇していってる感がありました。浮かんでるというのか、拡大していってるというのか、そんな体感です。

そのうち誘導瞑想は終わり、そのまま各自の瞑想タイムになり、しんとした中で、私も瞑想を続けていました。

その間も私の上昇は続いており、ある地点まできたら、体感的にはハートチャクラあたりだと思うのですが、なんともいえない心地よさの波がやってきて、もっと、もっと、上昇したいという感覚になりました。

そして、その流れに伴い、ある呼吸法を自然と行っていました。

口蓋の部分というか鼻の先端辺りに向けて吸い込んだ息を送り続ける呼吸法で、
この呼吸法がエネルギーを上昇させるということを知識的に知ってはいたのですが、
それをいつのまにか自然と自分が行っていたのです。

この呼吸法は呼吸音がかなり大きくて周りにもはっきり聞こえるし、
はぁぁ、みたいに合間に声も自然とでてきたので、
瞑想タイム中の周りの方には迷惑だったかもしれませんが、
そんなことには構ってられなくて、ひたすら上昇する流れに身をまかせていました。

そして、その上昇が最高地点に達したとき、

歓喜 ”  

の感覚が訪れました。

言葉でいうと、「歓喜」なんですが、「至福」とも表現できると思います。

白い鳩が飛んでいて、天使がラッパをふいてくれてるような祝福された感覚です。

実際、私の全細胞は、歓喜!歓喜!歓喜!と本当に湧いていて
(各細胞が光のように点滅&脈動するのがみえていた)、
その波動に共鳴しているから、ほかの状態になることなどできない、
その歓喜の波動状態にいるのだから、問答無用でわたしはその状態なのだ、
そんな圧倒的な状態でした。

最高潮に達したとき、あぁぁー、と声も漏れていて、
同時に暖かい涙が両目から自然と流れていました。

自分だからみれないけど、おそらく顔は光輝いていたと思います。

あとから、これを分析するならば、いわゆる”昇天”したんですよね。
クンダリーニエネルギーが突き抜けたのだと思います。

その後は、自分が3,5mくらいの高さにいるという感覚でした。

なんで3,5mかというと、そのオフィスに高い天窓があって、
私はそのあたりにいるなと思っていて、
その天窓が推定するとそのくらいの高さにあったからです。

拡大したわたしは、なんでもみえる、わかる、なんでもできる、
という無敵な感覚でした。

その感覚のまま、その部屋にいた他の参加者である一人の女性の背中に
牛乳瓶のフタの形状をしたエネルギーブロックがみえたので、
勝手に部屋を歩き回って(単なるイチ参加者なのに汗)、
それに手をあてて外そうとしたり、
浄化が始まって涙がでそうな他の人のところにいって勝手に抱きしめたりしてました。

拡大した私には、思考がほとんど起きていなくて、
下方の床のところにしゅっしゅっと2、3回黒い影が動いたのですが、
それが私の思考なんだということもわかっていました。

話がずれていくので、この拡大した私の話はここで終わりにしますが、
拡大した私は、その日の夕方か夜くらいには、
ほぼ、もとの私に戻っていたと思います。

戻るときに、地に足をつけるのに非常に苦労したのを覚えています。
足をつけるのに自分の足を電信柱のように重くして、
よいしょっと地に埋め込むような作業を行ったので。
なぜ、戻したかというと、移動したり、食べたり、
日常の活動をしないといけなかったからです。

やっと、ここから、
先日ニューコラボで行ったチェロの音浴(サウンドバス)の話になります。

チェロの演奏は、バッハの無伴奏チェロ組曲1番プレリュードから始まったのですが、
演奏を聞いてるうちに、各曲に対して、
自分の各チャクラが反応してることを感じてました。

6曲目のシューベルトのアヴェマリアのときでした。

ハートチャクラの後ろが反応して、回転していました。
この回転は、他の曲よりも、反応が明確でした。

それを味わっていると、
上記に書いたサンタフェで上昇していくときの感覚が起こりました。

もっと、もっと、という流れです。

前述のようにこの体験を既にしていたので、あーあれだわ、と感じて、
ここでサンタフェでもやったエネルギーをさらに上昇させる呼吸法を
やりたかったのですが、大きな呼吸音だけでなく、
声もでてしまうこともわかっていたし、
この音浴の場では自分は運営側の立場でもあったので、
あの呼吸法を存分にやることを理性により遠慮しました。

しかし、この上昇の心地よさを止めることはできないので、
呼吸法を小さく小さくしながら、わーすごいすごい、
と小さな歓喜状態は味わいました。
(あの歓喜状態はミニサイズでも味わえるのだと発見、笑)

ちなみに、アヴェマリアの2つ前に「いのちの名前」というジブリソングが
演奏されたのですが、この曲ではハイハートチャクラが
反応していたので(この曲は波動が高いんだ、と発見でした)、
その反応も、このときの小さなクンダリーニのエネルギー上昇を手伝ったのでは?!
と勝手に推測しています。

この音浴の日、家に帰ってから、
確認のためにアヴェマリアを再度普通の音源で聞いてみたのですが
(この曲は過去にも数えきれないくらい聞いたことあり)、
心は震えましたが、あの歓喜の状態にはならなかったので、
生演奏、生の音の振動というのは、わたしたちにダイレクトに影響してるのだな、
と実感しました。

歓喜の体験は、サンタフェという特別な条件が揃った環境での体験だと
思っていたけれど、他でも体験できるのだというのも発見でした。

おまけの話になりますが、
演奏最後の曲が、パッヘルベルのカノンだったのですが、
この曲を浴びてると、第2チャクラが思いきり脈動してました
(チャクラの反応はあくまでわたし個人の体感なので、
他の方の反応とは異なるかもしれません)。

カノンは第2チャクラを動かす曲なんだ〜!と思っていたら、
この曲が大好きで、この日の演奏曲の中でも最も感動したと感想を話していた、
チェロ音浴を主催したみきちゃん(https://www.instagram.com/miki_cocoro22/)が、
この日、第2チャクラ=オレンジ色の服を着ていたので、なんだか妙に納得した私です笑。

今後、このような皆の感性を開いたり、チャクラを活性化させるような深い体験を
ニューコラボで提供していけたらなと思っています。

そういう企画をされたい方(自分がやってもよいし、誰かを招いてやってもらってもよいし)、よかったらニューコラボに話をしにきてください。

毎月1回、N(エヌ)カフェというカフェを開いて、こういうのをやりたいとか、そういう話をしにこれる場をつくっています。

今月は、2月26日(水)です。お待ちしています。

3/5(水)に開催される「にじみ絵とスープのじかん」は、
そういう企画ではないかな〜と、なんとなく心がウキウキしています(私も参加するつもりです笑)。
ご興味ある方は:こちらのインスタ記事をどうぞ

先週の寒波、私の住むところは、↑15cm近く積もりました。降った雪に太陽の光があたるときれいです。

そのままのあなたで

ここ最近受けたメールだったり、人との会話のやりとりで、自分の中に上がってきたことを書こうかなと思います。

そのままのあなたでいいんだよ、みたいなことが言われます。

そして、この言葉を聞くと、ぐっと胸にせまる人も多いのではないかなと思います。

しかし、この言葉を聞きながら、

そのままのわたしでいい、って、どうやったら本当にそんなふうに思えるの?とか、

この言葉のようにありたいけど、実際には自分にどうやってこれを落とし込めばいいのかわからないという人も多いのではないかなと思います。

ということで、わたしが体験し探索?してきた ”そのままのあなたで、よい” とは、具体的にどういうふうにするのか!?について書きます。

そのままのあなた、とは、

いま、この瞬間の、

その瞬間の、

あなたを指していて、

いまのあなたを、自分で認めることが、

いまのあなたのままでよい、ということになります。

具体例をあげると、

友達といて、その人が言ったことに対して、「えーそれは、違うんじゃない」みたいにあなたが何か意見を言ったとします。

すると相手の顔がみるみる曇り、それを見て「あ、しまった、余計なこと言っちゃった….」と思ったとします。

こういうとき、すぐにその場で「ごめん、そんなつもりじゃ、なかった」と言ったとしても、そう言えなくて黙ったままになったとしても、いずれにしても、多くの人は、後から「あーしまった、なんであんなこと言っちゃったんだろう」みたいに反省することが多いと思うんです。

深刻に考える人なら、その晩中、自分にあれこれダメ出ししたりとか、
次にその人に会うときに、ああ言おう、こう言おうと考えつづけたり、はたまた誰かに相談したりして、すごく長引かせるかもしれません。

このケースで、

「そのままのあなたで、よい」を導入する時点は、

「あ、しまった、余計なこと言っちゃった….」と思ったときになります。


そこで、「余計なこと言っちゃった…..でも、これが今のありのままのわたしなんだ」と

認めるのです。

余計なことを言わないで済ませられた自分もいるかもしれない、
でも、言っちゃったのです。

事象として、そうなったのです。

だから、今の言っちゃったそのままのあなた、が、今のあなた、なので、それをよし、とするのです。

簡単にいうならば、
自分をジャッジしてることが、そのままのあなたでよし、としていないことになるので、
ジャッジしないで、単に、今、自分がしたこと、自分に起きてることをよし、とするのです。

もう1つ、時間軸が長めの例をあげると、

自分の体や顔のどこそこが嫌い、例えば、

あー、もっと目が大きくぱっちりとしてれば、と常々思ってる人は、

確かに目が大きかったら自分はもっと可愛かったかもしれないけど(汗)、

でも、今の自分はそうじゃないなら、その今の自分をよし、とするんです。

鏡をみて、あーなんか顔がぱっとしないな〜と思っても、
いまの自分は、その姿であるので、そのいまの状態を、よし、とするのです。

もっとそのうち可愛くなれるかもしれないけど、
でも、いま、目の前でみてる自分は、目が小さくて、
そんなに(自分では)可愛く思えないかもしれないけど、
その今の状態をみとめて、よし、今の私はこれだ、とちゃんと対面して、
いったん受け入れるのです。

それが、そのままのあなたでいいんだよ、ということになります。

私たちは、

もっとよくできるかもしれない自分、

本当は、もっとよい自分がいるはずだ、と

いま、”目の前にいる自分とは違う自分” を、探し続けています。

確かに、そうなる可能性がある自分がいるかもしれないし、

未来にそうなってる自分がいるかもしれない。

でも、それは、いま、目の前にはない、だから、ただ、それを認める、

いま、の状態に 抗(あらが)わない、ということなのです。

いまのあなたをそのまま認めたら、

その次には、何をしてもいいんです。

友達に言っちゃったことをなんとかしたいなら、
あやまってもいいし、

目が小さなことをなんとかしたいなら、メイクして大きくみせてもいいし、
眼輪筋マッサージ?してもいいし笑、

ただ、その何かを起こす前に、

いま、目の前の自分、そこから逃げたり、それを否定する必要はなくて、

いったんそのまま、今の状態を認めたら、

それでよしということなんです。

いまのそのままの自分をよし、としだすと、

思考の量が減ります。

すると、思考に使っていた無駄なエネルギーが減るので、全体的に軽くなります(つまり波動が上がる)。

そして、自分を責めなくなるので、人をも責めることが減ってきて、優しくなれます。

はー、楽ちん笑。

お店のお隣さんの駐車場に生えていた白い彼岸花、美しい!
昔はここは田んぼだったんだな〜(彼岸花は害獣など対策のために畦に植えられていたそうなので)。

「いま」にしかいれない

なにか問題が起きていたり、悩みがあったり、うまくいかないことがあったとしても、

それが過去に起きた問題であれ、未来に起こるだろう心配事であったとしても、

いずれにしろ、わたしたちがいることができるのは、「いま」しかない。

過去に起きた嫌な出来事を頭の中で回想しても、その過去の気持ちを味わったとしても、わたしたちは「過去」にいることはできなくて、「いま」にしかいれない。

「いま」にいながら、頭の中だけで過去を味わってるだけ。

明日の用事をあれこれ考えても、「明日」にいることはできない。

「いま」にいながら、明日のことをあれこれ、頭の中だけで想定してるだけ。

わたしたちは、どうあがいたって

「いま」にしかいれないのだから、「いま」にしか解決法はない。

もし、いま、問題や悩みや心配事があるなら、

「いま」できることはあるのか?

それを考える。

「いま」できることがあるなら、それを「いま」最大限にやる。

それしか、できることはない。

もし、いま、とくに困り事も悩みもないのなら、「いま」を味わう。

「いま」やってること、それだけに集中する。

座ってお茶飲んでるなら、お茶を味わいつくす。

人と話してるなら、その人とじっくり向き合って話を聞く。

歩いてるなら、体を通り過ぎる風を味わったり、聞こえてくる音を聞いたり、歩調を楽しむ。

どうやってみても、わたしたちという存在は「いま」にしかいられないし、

「いま」にしかいたことはない。

「いま」何をしてるのか、に意識を持つことにしよう。

もし、何かで苦しんでるなら、「いま」できることは何だろう?!

「いま」できることだけを、意識的に選択していこう。

「いま」できることだけをやったあとは、それがどうなるのかは未来のことなので「いま」考えなくてよし。

このところ、いろいろ考えることが多くなっていたせいなんでしょうね、今朝、上記のようなメッセージを受け取りました。感謝。

芝桜が地面を埋め尽くしだしましたね。

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「いま」にしかいないのに、頭の思考が「いま」にベクトルを向けることは実際とても難しいです。それでも起きている間、一度も「いま」にいれてないなと思う人は、エネルギーを過去や未来に使いすぎて、とても疲労してると思います。

「いま」にいれなくしてるのは、過去にこしらえたある思いへの執着であることがしばしば。その執着を手放して、「いま」に少しでもいるようにできると、もっと楽に生きられるようになります。執着=エネルギーブロックとも呼べますが、それは外すことができます。 カウンセリングやレメディを使って、執着を手放すお手伝いができます。

詳しいことはHPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/

狭き門より入れ

狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。

新約聖書マタイ福音書7からの一節ですが、「狭き門より入れ」は、アンドレ・ジッドの小説のタイトルにも使われたせいか、ことわざのように使われているかと思います。

私は、これまでの人生で何度か、この言葉を受け取ったことがあります。

この「狭き門」から通ずる道は、神の国なので、悟りへの道を示しているのが本来でしょうが、

私はこれを、次の意味のように受け取っています。

「狭き門から進みなさい。それは、あなた独自の道。

誰かが言った通りにすることや、世間がすでに示している道は、その他大勢の人が流されて進んでしまう広い道。

しかし、その狭い独自の道を進むなら、あなたのソウルに従った道を進むことになる。」

という感じで、私たちはヒトという形で似たようにみえても、それぞれが全く独自でオリジナルな存在なのだから、
独自の道を進むことが、本当のあなたらしい人生の道を進むことになります、という導きの言葉として受け取っています。


他の大勢の人がやるように、こうやったらもっと楽だよ、簡単にできるよ、こうしておけば波風立たないよと、いうような広い道は一見簡単で従いやすいのだけど、その広い道を進んでいると、あなたらしく生きられない道を歩むことになりますよ、という教えだと思っています。

この文言を、一番最初に受けとったのは、ホメオパスになるための学校選択で悩んでいたときでした。

ホメオパシー自体がそもそもマイナーな道なのですが、
それでも日本で一番大きな学校があり、そこの見学会に行ったあとに、どの学校を選択するかで自分の中で迷いが生じていたときでした。

その学校は施設もカリキュラムもしっかりしてるし、生徒の人数も多い、そして卒業後の進路まで道筋をつけてくれてるような学校でした。

その道がホメオパスになるのに一番の近道、いわゆる広い道でした。
でも、自分の中には迷いがありました….

それで公園に座りこんでいたのですが、考えても選択できないので、ぶらっと周りを散歩しようとしたら、そこに教会がありました(当時、東京に住んでた)。

信者でもないのですが、ふらりとその教会の扉をあけて中に入ると、教会だとフォーチュンというのか?、おみくじ的な箱が置いてあり、自由にひくことができました。

手をいれて、1つの小さく折りただんだ紙を取り出し、開いてみると、

「狭き門より入れ」と書いてありました。

この導きが、私のその後のホメオパスになる道へのシフトとなりました。

狭き学校を選び、狭き?ホメオパスとして活動することになりました笑。

もし、あなたがやろうとしてること、やりたいことが、狭き門を通らねばならず、

その狭さゆえに、他のさっさと進む多くの人と比べるとうまくいかなかったり、早く進めないこともあるかもしれません。

でも、その狭さは、あなたのオリジナルさを表してるのです。

狭ければ狭いほど、あなた独自の道です。

自分がどのような門から入っているか、それに気づくよう、まさに今朝もこの言葉を受け取りました。

去年植えた水仙が咲きました。
正面からみると、マカバと呼ばれる星形正八面体に見える〜

波動の上げ方:「愛」を伴う反応の実例

波動をあげる具体的な方法は、

「愛」を伴った見方をする、「愛」を伴った言動をとる

です。

以下、具体例:

住む家をずっと探していたところ、「これはすごくイイ!」と希望にピッタリの物件をみつけた。

不動産会社に連絡をしたら、「あ〜、その物件は今もう契約段階に入ってるんで、ご紹介できません」と言われ、電話を切った。

この事象に対して↓↓↓

▶︎「愛」を伴わないどころか、恨みや怒りを放つ波動の見方と言動

「ったく、もう契約段階に入ってるなら、この情報ネットから削除しといてよ!」

「なんかの都合で、その先約の人、契約破棄にならないかな」

▶︎「愛」を伴わない見方と言動

「あー、もっと早く電話してたら、私にもチャンスがあったのかな、どうしてもっと機敏に動けなかったんだろう」

「あーあ、私にとってベストの物件だったのに、私はなんてついてないんだろう….」

▶︎「愛」を伴う見方と言動

「私よりもあの物件を本当に必要とした人がいて、その人が契約することができたんだ、良かったな」

「知らない人だけど、その人がぴったりの物件に巡り会えたことを喜ぼう」

▶︎さらに上級の「愛」を伴う見方と言動

「私でなく、その人が望むものに先に巡り会えたことを祝福します」

「その人が幸せで良かった、ありがとうございます」

「どんな人も、その人みたいに望むものに巡り会えますように」

ーーーーーーーー

上記を解説するならば、

一番低い波動は、

起きた事象について他人のせいにしたり、他人を落としたり、批判する反応

そこまで低くないけど、高くない波動は、

他人に矢を向けないけれど、自分に矢を向ける反応
自分を責めたり、自分を下げたりする反応

高い波動は、

起きたことを良いこととしてただ受け入れる反応
他人に起きた幸せを自分のことのように喜ぶ反応
他人のことでも喜ばしいことが起きたことについて感謝する反応

さらに高い波動は、

自分のことより他人の幸せを願う反応
自他を問わずに、幸せな事象自体に感謝する反応
全ての人に対しての幸せを願う反応

という具合になります。

別の言葉でいうと、起きてくる事象に
どれだけ大きな愛を伴った見方と言動ができるかということが、
波動をあげることとリンクしています。

波動をあげていくというと抽象的で何を目指してるのかわからないけれど、
「愛」を伴った言動をしていくことで、「愛」を伴った現象がつくられ、「愛」が波及していく世界になっていきます。これからは、そんな時代になっていく流れだと思います。

ーーーーーー

上記の例は、自分が今、やりたいことのために物件を探してるので、思いつきました。
昨日まさに、畑付きの素敵そうな物件をみつけて電話したら、契約進行中だった汗。

その伸び伸び過ごせそうな田舎環境の物件に、ぴったりの人たちが巡り会えたんだろうなと思ったら、私でなくて良かったなと思い、そう思ったら、波動が上がったのか、自分も本当に幸せな心持ちになりました。

もちろん電話で断られたときは「あー、遅かった!」と思いましたよ→波動低っ、笑!

アーモンドの花が満開中、アーモンドの実は今のところ1粒しかなったことない….
濃いめのピンクで香りも濃い、このピンクをみてると気分が上がります。

「愛」を持った見方をするのが、どうしてもできない方、あなたの温かいハートを閉じる出来事が過去にあったのだと思います。その出来事のときに閉じたあなたのハートを開きませんか。エネルギー療法でそのお手伝いをすることができます。

ご興味のある方は、HPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/

一人ぼっちになれたことなんか、ない

なんだかもやっとする夢をみて、もやっとした気分のまま、台所の窓をあける。

空をみてたら、春の野鳥がさえずった。

つーぴー、つつぴー、

ホーホケキョッ、

途端に、私の気分は完全に「春」になって軽やかになる。

誰かが、悲しい気持ちをつづったSNSをあげる、それにいたわりや共感のコメントがつく、それを読んで優しい気持ちになる。

誰かが、誰かに毒づく動画、それに賛同するコメントがあがったり、憐れむコメントがあがる、色々だな〜と自分も複雑に感じる。

入ったお店の店員さんが元気がよいと、その快活さに心地よくなる。

雨が降り続くと、なんとなく、どよんとしてくる、晴れるとからっとした気分になる。

風がふくと桶屋がもうかる、も同じこと。

どんな人も、こんな数々の影響の連続で毎日を過ごしてるはず。

ということは、間違いなく、私たちは、影響しあう世界で生きている。

影響し合うというのは、なにかがつながっているから、影響しあう。

これを、ワンネスということができる。

そういう意味で、わたしたちは、決してひとりぼっちにはなれない。

ひとりぼっちになんかなれたことない。

ひとりぼっちなら、この影響しあう世界に生まれることはできなかったから。

菜の花畑でどんな影響をうけてるかな〜

ダウンしてるなら、体を動かす

気分のアップダウンが激しくて、みたいなお悩みを聞きますが、

人はアップだけを望んで、ダウンしてる状態を良くないこととして嫌がり、避けようとします(自分も然り)。

嫌がるだけならいいけど、ダウンしてる自分をほじくり返して、ああでもない、こうでもない、自分はうまくできてない、こんな自分はどうしようもないと思考でさらにダウンしていく状態に導いてる人もいます。

ダウンというのは、エネルギー的にみるならば、その人の本来循環してるエネルギーが停滞気味のことを「体感してる状態」と言えます。

その人のエネルギーが澱(よど)み始めてる不快さを、「ダウンしてる」と感知してるわけです。

だったら、そこでさらにダウンに導くことをやめて、エネルギーを動かしていくのがよいです。

空気の淀んだ部屋の窓を開け放して、風通しをよくするのと同じ。

エネルギーを動かす最も簡単な方法は、体を動かすことです。

スポーツでもよいし、家の掃除でもよいし、少し早めに歩く散歩でもよいし、歌を歌うとかでもよいし、とにかく体を動かすことから、全体のエネルギーを動かすことができます。

今朝、起きたら、自分がダウンしてる感じがあり、これは何を教えてくれてるのでしょう?!と、問うたら、(メンタルについての答えが返ってくるかと思いきや)、上記の気づきを受け取りました。

まさに、今週は雨でいつものテニスができていなかったので、なるほど〜と唸りました。

私は毎日ヨガの呼吸法でエネルギー動かしているのだけれど、テニスをして大きくエネルギーを動かすことは、今の私のエネルギー状態にとって必要だったようです。

ということで、朝、この言葉を受け取って、すぐにゴミ捨てに颯爽と?でかけて(歩いて200mくらいのところですが)、外の空気を吸って深呼吸したら、もうダウンの感覚はなくなっていました。

↑青い空の下、蓮の間を延々と散歩したとき気持ちよかった(去年の7月のことですが笑)

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ダウンが大きすぎる方、なかなか抜け出せない方は、過去に自分がこしらえたエネルギーブロックという雲みたいなものを晴らすことができていないのかもしれません。

自分がつくったものは、自分で晴らすことができます。

エネルギー物質を使って、それを晴らすガイドができます。

興味のある方はHPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/

子どもの頃、どうやって遊んでた?

こどもの頃、ぶらーっと小学校の運動場にいって、

そこにいる子たちで遊んでた

何をして遊んでたかはっきり覚えてないけど….

校庭に一人で鉄棒してる子いたら声をかけて誘って、

引っ越してきたばっかりで隅っこで土をほじほじしてる子がいたら声をかけて誘って、

その日のメンバーで、その組み合わせで、その日にできあがる遊びが、楽しかった

女子らしく、いつもの2人や3人組でおしゃべりするより、近所の子たちだけで遊ぶより、そこに居合わせた子たちで、その日のメンバーの組み合わせで起こる、その日にできる遊びをするのは楽しかった

これが、わたしの遊びの原点だなと思う

私のダンナさんに子どもの頃の遊びを聞くと、

一人で絵を描くのが好きだったそうだ

彼は、当時貴重で皆の憧れだったディズニーなどのアニメの絵をトレーシングペーパーで写して、その絵をキャラクターごとに切り抜いてを小学校に持っていってたらしい

なぜなら、クラスの皆が、その絵をすごい欲しがって(ブロマイドみたいな感じ?笑)、当時流行っていたビー玉と絵を交換してくれ!となって……
彼はそのおかげでクラスでもっともビー玉を多くもっていた子だったらしい

彼は、今もこれと似たことをしている

トレーシングペーパー →  ペンタブレットに進化してるけど、

自分のインスピレーションにしたがって、自分で絵を描いて、それをSNSであげたり、漫画本を自費出版したりしてる

大人の言葉でいうと、

私の仕事は、とか、わたしのやりがいは、人生の使命は、なんて、もっともらしく語れるけれど、

わたしたちが大人になってしてることや、したいことは、

こどもの頃の遊びの大人バージョンだと思う

なぜなら、それが、わたしたちの内側のピュアな喜びのエネルギーから起こってることだから

それが子供なら「遊び」と呼ばれ、大人になると、それが「仕事」とか「使命」なんて呼ばれる

ということで、わたしも、こどものころの遊びを再度やろうとしています

声をかけて、そのときのメンバーで、”いま”を楽しむ遊びの場をつくること、

カタチになってきたら、一緒に遊びたいひとに声をかけます〜

↑ AIが描いてくれました、ここに皆で寝っ転がりたい