全てを愛せる

12月12日、夕方近くに帰ってきて空を見上げたら、雲の動きと背景の空になんだかとても心ひかれたので、しばらくただ見入っていました(写真もとりました) ↓

その後、家に入り1件のメールを送り、夕食の準備をしながら、そのメールの内容について思い返していました。

内容については長いので書きませんが、
「そうだ、今世で人間最後かもしれないから、もっと十分にこの人生を味わいつくしておこう….」なんてことを考えてました。

そしたら、そのとき、自分の中に…..

「全てが貴重! 全てが愛おしい!」という言葉がはっきりと湧き上がってきて

続いて、

「 全てを愛せる! 」 という言葉と、それに伴う強い思いというか確信のようなものが溢(あふ)れてきました。

自分の内側に何の揺らぎもなく、「全てを愛せる」と明言できる、そんなはっきりした感覚でした。

この言葉を口に出して人前で言ったとしても、

恥ずかしさも、空々(そらぞら)しさも微塵もなく、堂々と宣言できる、
いっさい嘘のない、そんな強い感覚です。

「ほんとうに、全てを愛せる」と、また言葉があがってきて、

胸がいっぱいになって、涙があふれてきました。

それまでは飼ってるニャンコは愛しい、家族も愛しい、でも、視界に入る整っていない部屋や、年末の大掃除を待ってる埃(ほこり)は嫌だ、と思っていた自分だったのに、

その埃を掃除していない私のだらしなさも、その埃すら、私は愛せるとはっきり思えました。

夕食準備の前にネットニュースでちらっとみた、裏金でワケのわからない答弁をしてる政治家のことももちろん愛せると思いました。

愛せるというのは、好きか嫌いかとは違う感覚です。

さっきネットニュースでみた政治家は私は好きではない、むしろ嫌い、でも愛せると思ったのです。

”愛してる” でもなくて、”愛する”でもなくて、「愛せる」です。

私が感じていた「愛せる」というのは、あえて言葉にするなら、そのまま認める、受け入れる、ゆるすみたいな表現だと思います。

そんな感じで、この世の聖なることや、優しい、美しいことだけでなく、汚いこともずるいことも、とんでもなくおぞましいことまで全てを愛せる、という確信で胸がいっぱいになりました。

私のハートの中にこの世の全ての善も悪も迎えてあげることができる、ハートが裏返って全てを包み込む、そういうイメージも出てきました。

そして、その後も幸せな感覚で満たされながら夕食を終えて数時間したとき、ある用事をふと思い出しました。

仲良しのご近所さんと年末に忘年会をするので、ある居酒屋さんを私が予約することになっていたのですが、まだやっていなかったのです。

私はその居酒屋さんに今夏に旦那さんと行ったのですが、食事は美味しかったけど接客とお勘定にあまり良くない感じを受けたので(行き過ぎた儲け第一主義を感じた)、実はあまり行きたくないなと思っていたのです。けれど、ご近所さんがそこを希望するので、じゃ、ま、それでいいかと場所はそこに決まっていました。

年末近くなってきたので早めに予約しないといけないのに、今夏のことを思い返して、なんとなく嫌だなと後回しにしていたのです。

でも、そのとき、「あれ!?私、全てを愛せるよね」と自問したのです。

そしたら、そのお店の「闇」のような部分も、店主さんの納得いかなかった今夏の態度も「そういうの全て愛せるわ!」とすぐに思えました。

「そうだ、何が起きても愛せるわ」と思って、すぐに電話をし、そして心地よく予約がとれました(しかも電話にでたのはその店主さんだった)。

この電話で、「愛せるならば、つまり何も怖くないんだ」と深く腑に落ちました。

何が起きても愛せるのだから、何が起きても平気なのだとわかったのです。

つまり、逆で、何かするときに避けたり、嫌がったり、怖がったりしてるのは、

自分が嫌な思いをしたり、傷つけられたり、心を痛めると思ってるからなんだ、

自分が起きる出来事を愛せないと思ってるから、そういう反応になるのだと気がつきました。

なんでも愛せる、なにが起きても愛せるというのは、最強の感覚です。

この日の私に起きたことは、ハートが完全に開いた体験かもしれません。

ハートは閉じたり、開いたりするから、また閉じるのかもしれませんが(苦笑)、でもあの何も怖れるものがない、全てを愛せる感覚、二度と忘れたくないなと思いました。

この日以降、心が少しでも曇る出来事が起きたら、

「愛せる?」 「問題ない、愛せる〜!」の自問自答の日々です(笑)

あの日、12-12のゲートウェイだったから、エネルギーが多く届いていたのかもしれません。

沈黙の日

あのマハトマ・ガンジーは、毎週月曜日を「沈黙の日」として、

何も話さない日をもうけていたそうです。

もし、その日に誰かが彼を訪ねてきても、ガンジーは沈黙を守り、紙と鉛筆で筆談をして対応していたらしい。

沈黙の日をもうけたのは、多忙なガンジーが手紙を読むための時間だったそうですが、そのうち、この沈黙の時間が自分の精神にはなくてはならないものになった、と本人が語るのをある本の中で読みました。

食べる回数を減らすファスティング(断食)や、

物を減らす断捨離と同じように、言葉を減らす沈黙の日は、

わたしたちに何かを教えてくれるのだと思います。

そうはいっても、1日中沈黙するのは日常生活上なかなか難しいように思うので、

夜寝る前の2時間ほどを沈黙タイムとしてお試し中です。

沈黙しだして、すぐにわかったのは、言葉を使わないコミュニケーションはとてもシンプルでもどかしいどころか逆に心地がよいということです。

私と寝る前の2時間でコミュニケーションをとるのは、我が家ではダンナさんだけなのですが(沈黙すると事前に説明済み)、

しかも、その時間に取り立てて、私たちは話し合うこともないので(苦笑)、

目が合ったら、ただにっこり笑ったり、静かに会釈や手振りで意思を示してみる……

言葉がない分、相手の目や表情、全身をしっかりと見るので、相手のそのときの真の状態をきちんと感じることができます。

”誤解”というのは、言葉によって起きてることなんだなと改めて思いました。

なにか相手に伝えたいときに選ぶ言葉や、それを受け取ったときのイメージというのは各々がもつ価値観や感覚によって異なるので、言葉に重きを置きすぎてることが、人間関係の主要な問題ではないのか、などと思ったりもしてます。

また、沈黙してみると、自分が言葉を話そうとするときにいかに気をつけていたり、気を張っていたのかにも気づきました。

相手にわかりやすい言葉を使おうと思っていたり、誤解を与えない言葉を選ぼうとしていたり、そもそも無駄な?カラ元気な?会話→ 本当はそこまで話したくもない会話、そんなこともしていたなと気がつきました。

私が黙ると、ダンナさんも黙る、とても静か…..

1日の終わりにこのような静かな時間を持てると、日中の活動でかき混ぜられた自分のマインドが静かに沈殿していき、まるで波紋がなくなった湖のような静かな感覚になります。

沈黙タイムは、瞑想に匹敵すると思います。

↑ 姫路に住んで10年経つけど、まだ訪れていなかった書写山。
今年やっと紅葉が綺麗な時期にいくことができました。