Conscious meeting メンバー募集

私、なんであんなことしちゃったんだろうと、

”後になって気づく”こと、誰しもあるのではないでしょうか。

怒りたくないのに、ついカーッとなって大きな声で言ってしまったとか、

いつのまにかYoutubeを何時間も見て過ごして、後で思い返したら、特に見たい内容でもないし、自分に何のよい影響もなかったのに、なんで途中で止められなかったんだろうみたいなこととか、

信号のない横断歩道を渡ろうとしてる人がいるのに、車のスピードをゆるめる余裕がなくて停車しないでついそのまま通り過ぎてしまったこととか、

冷静な自分に戻ると、そうはしなかったよなと思えるような言動です。

このようなとき、あなたは「無意識」状態だったということができます。

ちゃんと自分の「意識」を保てていたのなら、しなかったわけなので。

だから、本当の自分らしく生きるには、細かいことから大きなことまで、

いかに「意識的にいるか」が、大事になってきます。

パワハラやモラハラといった社会的な事象なども、昔は当たり前みたいにスルーされて通っていたことですが、昨今明るみにでてきて、そこに人々の意識が向けられてきたら、

なんという恐ろしいことをやっていたんだ、

なんと意識が低かったんだ、と気づいていき、改善されていきます。

無意識状態で過ごしていたことを、意識的にみるというのは、

「自分が今、何をしているか」にはっきりと気づくことであり、
その都度、本当の自分がしたい判断や選択をできていくということになります。

ということで、無意識状態をなるべく減らして、意識的にいるように、意識を上げていく場をつくりたいなと思いまして、

Conscious Meeting コンシャスミーティング

というネーミングで定期的な集まりを企画しようと思います。

意識を上げていくとき、同じ志の仲間といることはとても大事で、そしてそれは集合意識にも影響していくものです。

ということで、その事前のお知らせです。

詳細は、これから練って、後日お知らせしますが、

5名くらいのスモールグループで、

1〜2ヶ月に1回くらいのペースで 全部で 5, 6回くらい、

zoomにて、

エッセンスやレメディも使いながら、

お互いの気づきをシェアしていくことで、意識を上げていく場になればなと考えています。

ただ話す場だけでなく、

無意識で言動を起こしてしまうのは、それぞれの人が体験してきた根本的なトラウマとリンクしてるなどの心についての学びも織り交ぜていこうかなと考えています。

この集いに、こうしてほしい、こういう内容も興味があるというような要望や、

ご意見、アイデアなどがある方がいましたら、教えてくださると嬉しいです。

日時や曜日のご希望などもありましたら、customerarnica@gmail.com までご連絡ください。

少し前に惹かれて購入したオレンジのバラが咲きました。
これに惹かれたということは、第二チャクラと関係してたんだろうな〜笑。

ーーーーーー

この企画、Mさんという方がご希望くださいまして、カタチにしました。
Mさん、もやもや&モタモタしてた私を動かしてくださり、ありがとうございます。

自分をちゃんとみてあげる

何年も前にお会いした男性の話です。

その男性は当時30代くらいで、

「お、アーティストか!?」と思わせる印象の人でした。

はっきりした色の服、自分の体型とマッチしてる独特の着こなし、

ヘアスタイルもキマっていて、どこにいても目をひくだろうオリジナリティが外観にも出ていました。

聞けば、少し前までアメリカで映像関係のクリエイティブな仕事を実際にしていた人でした。

この男性の悩みは、

「(帰国してから仕事がみつからず)アーティストになりたいけど、なれない」

というようなことでした…….(!)

見た目がアーティスト、

経歴もアーティストです。

自分のオリジナリティ(芸術性)をすでに外側に現していて、

社会の中でもそれを具現化していた人です。

この男性に足りなかったのは、

「自分で自分をアーティストと認める」ことだけでした。

ということで彼の悩みは、彼が自分をアーティストと認めることにより、あっという間に解決したわけですが、

この話は、見方によっては、笑い話のようにもとれます。

全て揃っていて、足りなかったのは、どこに探しにいく必要もない、何の努力も不要な自分自身への評価だけだったのですから。

かといって、この話を笑い話として笑い飛ばせないのは、

この彼のような状態で苦しんでいる人はわりと多いし、

自分自身も過去にこの状態だったことがあるからです(苦笑)。

あなた、すごいね〜とか、

本当によくやってるよ、とか、

いろんな評価の言葉を周りからもらっても、

いやいや、まだまだ、と受け取らなかったり、

ありがとうといいながら、全然それを本気で自分の中で受け入れてなかったりしていることありませんか。

人のことは簡単に褒めてあげたり、評価してあげるのに、いざ、自分のことになったら、

理想が高くて、自分は全然だめだとか、できてないと厳しい評価を下していませんか。

そのような自分で自分を認められない苦しさをもっていたら、おすすめしたいのは、

”鏡” をもっともっと見ることです。

この機会に大きめの鏡を1枚買い足すのもいいかもしれません。

要は、自分をもっとみてあげるためです。

鏡を見ない日はないかもしれませんが、さっと見終わらないで、ちゃんと&じっと自分をみてあげる。

目をきちんとみつめてあげたり、自分といる時間を(鏡の中の自分をみる時間を)もっと多めにとってあげるといいと思います。

自分がどうやって生活したり、行動してるかを動画にとってみるのもいいと思います。

自分に評価が辛い人は、人のことはみてあげてるけど、自分のことをみてあげてない人が多いように私は思っています。

だから、自分をもっとみてあげると、だんだん、自分がしてる言動にもちゃんと目を向けられるようになっていきます。

そしたら、自分ってわりとちゃんとやってるなとか、等身大の自分がみえてきて、自分への評価を自分でできるようになっていきます。

鏡をちゃんとみる習慣というのは、そのうち、自分を客観視する習慣に移行していきます。

そうすると、他人を評価してあげるように、自分のことも評価できるようになったり、
衝動的に感情に圧倒されてしまう自分なども客観視できるようになってきて、
自分ととてもうまくつきあっていけるようにもなっていきます。

実のところ、本当のわたしたちというのは、1つの大きな意識で(神ともいう)、

その意識が肉体をもったヒトの私たちを通して体験をしてるので、

「鏡で自分をみる」というやり方は、1つの大きな意識が、肉体をもってる私たちを高い次元からみてあげてるのとリンクする見方ではないのかなと私は解釈しています。

Youtube 見るより、自分をもっとたくさん見てあげよう(笑)!

↑ 記事と全く関係ないのですが、最近はまってるオートミールのクッキー。
バナナをつぶしてオートミールとナッツやドライフルーツと混ぜるだけ。
砂糖も小麦粉も不要で、分量も計らないでパパッとつくれるから楽です。

↑ 丸められるくらいの固さにして(柔らかくてOK)、180度で30分焼きます。
トレイに少しオイルを塗っておくと、くっつきません。
オートミールでやってるけど、今度、ハトムギでもやってみようかと思ってます。

思考は、ツール

私は瞑想をするとき、あぐらで座って、目を閉じて、何もしない状態になろうとします。

何もしないというのは、思考しないということですが、

私が「思考しない」ように意図してるのに、

思考というのは勝手に湧いてきます。

まるで自然発生するかのように、頭の中に声や映像として湧いてきて、

その思考を川のようにさらさらと流せるときもありますが、

湧いてきた思考が別の思考につながって思考の長い連鎖になっていくこともあります。

(ちなみに、その思考の連鎖をただ眺めてほおっておくと、いつのまにか思考はなくなって瞑想状態になります、また瞑想状態にならないときもあります)

一方で、私が例えば新しい講座をやろうかと思いついたとき、

その講座内容を吟味するとき、

私はよりよい内容を考えよう、アイデアを出そう、つまり具体的に思考しようと自分で意図してるわけですが、このようなときは、

私は自分が意図した通りにちゃんと「思考しています」。

この2つの思考を比較すると、

わたしが意図していないのに自然に湧いてくる思考 と

意図して行う思考 

の2種があることがわかります。

エネルギー療法をやってるので、その視点でこれを分析するならば、

前者の意図しないのに湧いてくる思考は、

わたしたちのエネルギーフィールドに存在するエネルギー(過去に体験したり、思考したエネルギー)を単にキャッチしてるのだと思います。

後者は、何かを創造していくために、思考というツールを使っている状態だと認識しています。

どんな人も十分に体験してると思いますが、

自然に湧いてくる思考というのは、私たちの精神にとって好ましくないものの方が多いです(苦笑)。

勝手に湧いてくる思考というのは、

過去にしでかした後悔だったり(あのとき、あれに気づいてこうしてれば良かったんだよ、みたいな)、

消化していない怒りや悲しみを追体験してたり(あの人にあの時、こう言われて、なんで言い返せなかったんだ、くそーとか)、

気にしてることや漠然とした恐れだったり(今度のイベント無事に問題なくできるのか?とか、親の介護のことそろそろ考えないと、とか、地球環境はこのままどうなってしまうのかな?みたいな)

他には、自分にとってどうでもいいことなのに、なぜか印象に残ってるシーンだったり(あそこでAさんにこう言われたときのBさんの変な顔とか、昨日読んだ漫画のどうでもいい1シーンやYoutubeでみたある映像や音楽がただ蘇ったり)、

いわゆるそれらを再度思考したところで、幸せになるものではないものが大半で、簡単にいうとネガティブな思考が多いです。

ある具体的な悩みを現在進行形で持ってる人の場合は、

その悩みが起きたシーンから対象相手のそのときの言動や、相手への批判など映像や思考やそれに伴う感情の連鎖が次々と起きてると思います。

何を言いたいかというと、

このように自分が意図しないのに、勝手に湧いてくる思考というのは、

「自分が起こしたものではない」と知るのがよいと思います。

セルフサービスのカフェに座っていたら、向こうからジュースのコップを運んできた人が何故かつまづいて、自分の目の前でジュースをぶちまけたとします。

それをみて、あ〜私があれを起こしたんだ、とは思わないですよね。

それが、なぜ起きたかはわからないけど自然発生的にそれは起きたのです。

だから、自然に湧いてきた思考も、自分が意図して起こしたわけではないので、それらの思考に囚われる必要はなくて、またネガティブな思考が起きてる自分も責めたりしなくていいのです。

思考というのは、上記したように、意図して使うときは、私たちがよりよく人生を送れるように使えるツールです。

よりよくするにはどうしたらといいだろうと意図したときに思考を使うだけでよくて、

湧いてくる思考の方は引きずりこまれないでスルーしておけばいいのです。

もちろん、湧いてくる思考が自分にとって苦しかったり、具体的な悩みがあって苦しい場合は、

この湧いてくるネガティブな思考から解放されるにはどうしたらいいだろうと、

敢えて意図してツールとして思考すればいいと思います(解決法を探るのに思考を使う)。

といっても、勝手に湧いてくる思考をスルーしていくのは実際にはなかなか難しいですが、

多くの時間、自分の頭の中を占領してる「意図してないのに勝手に湧いてくる思考」に
巻き込まれてる状態に気づく回数が増えていくと、

もっと目の前のことに集中できて、日々の心の調子はかなり軽くなるし、寝つきもよくなります。

と、これを記事にしてる私ですが、

昨晩、瞑想していたら、昨日ご近所さんにいただいた「たらの芽」を天ぷらにして食べたことが思考としてすぐに浮かんできて、

そしたら、20代の頃に働いていた会社の社長さんに都心のおしゃれなカウンターの料理屋さんに連れていってもらって、そこで新春の山菜のこごみだかたらの芽が出された記憶がつながって湧いてきて、それを私はあまりにも苦くて一口しか食べられなかったな、今は全く苦いと思わないのに、あのときあんなに苦く感じたのは何だったのか……、新春の山菜でデトックスするのを私の体が拒んでいたのかなとか、思考の連鎖が始まり、そういえば、あの社長さんはある社員の女性とそういう関係だとうわさされてて、他の女性社員たちがその女性社員にすごい不満をもらしていたなとか……. はっと気がつくと、どんどん湧いてきた思い返したところで本当に全くどうでもいい思考に溺れていたのでした。

はい、それで、この思考のことを今朝、記事にしてみました(笑)。

↑ たらの芽の写真は、撮り忘れた… ホームセンターで買ってみたチューリップがいい感じに咲きました。 

あなたはあなたを愛しています

あなたには、この人みたいになりたいなと憧れたり、目指してる人、いますか?

もし「その人になれますよ」と神様が願いを叶えてくれるとしたら、

本当にその人になりますか?

その人の憧れてる部分だけじゃなくて、顔から体、体質、性質、遺伝子、過去の記憶まで、

そっくりそのまま、自分がその人になるのだとしたら、

はい、わたしはその人になりたいです!と望む人は、ほぼいないのではないかと思います。

なぜなら、あなたは、

「あなた」のままで在りながら、他人のいいところだけを欲しいと思ってるからです。

別の言い方をすると、

あなたは、実は「あなた」と思ってる自分のことを好きなのだと思います。

「あなた」ではない、他の人として生きていくことは望んでいないのです。

自分で自分をあまり評価していなかったり、嫌いなところも幾つもあるかもしれないけれど、

あなたは、あなたを愛していて、「あなたとして」生きていきたいのです。

「あなた」で在りながら、

「あなた」をできたらもっと良い存在にしていきたい、

そして良くなった「あなた」を受け入れて好きになりたいのだと思います。

つまり、「あなた」をもっと愛していきたいと願っているのです。


良くなった「あなた」を好きになるには、

たくさん「あなた」を良くしていかないといけないのですが、

究極の目的が「あなたをもっと好きになること」「あなたをもっと愛していきたい」のだとしたら、

「あなた」を好きになることを、いますぐ始めてみるのは、どうでしょうか。

ということで、簡単にできるミラーワークを紹介したいと思います。

これは、偉大なアメリカ人ヒーラー Louise Hay (ルイーズ・ヘイ)が教えてくれたワークですが、以下、少しアレンジしています。

毎日、鏡をみて、そこに映る自分を好きだ、と言っていくのです。

あなたは、日常で何気なく、こどもや家族、パートナーや恋人、友達や仲間や同僚を、

褒めたり、励ましたり、してると思います。

よく頑張ったね、よくやったね、とか

よくXXXができるよね、尊敬するわ、とか、

うわー、それ素敵だね、とか

かっこいいねとか、

わたし、あなたのこと好きだよ、とか、

それでも、ママはあなたの味方だからね、みたいな

そんな相手を肯定する言葉をフツーにかけてますよね。

肯定するというのは、その人のよい面をあげて、それが好きだと言ってるわけですが、

ところで、自分には、そんな言葉を日常的にかけてあげてますか?

ミラーワークでは、

あなたが「あなた」に対面して、そういう言葉をかけてあげるのです。

朝、夜など鏡の前にたって、自分の目をみて、

自分を好きだという言葉、自分を肯定する言葉をかけていきます。

声を実際にだせない環境の人は、心の声でOKです。

このワークをやってると、すぐに日常の自分の言動に変化がみられます。

その変化はとても面白くて、それにとても心地よくなります。

あなたは、他の誰にもなりたくないくらい実はあなたを愛してるのだから、それを自分で自分に表現していくといいと思います。

↑ 先日、桜舞い散る中、テニスしました(このコート初でした)。
ミラーワーク:「テニス、上手くなってる!素敵!」
「たくさんミスしたけれど、それでもあなたが好きだよ!」

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ある人と自分をそっくり入れ替えてしまいたい、

自分を失くしてしまっても平気だと思った方、

とても大きなエネルギーブロックがかかってると思います。

一体、あなたに何が起きて、あなたはあなたを愛せないのか、

レメディというエネルギー物質を使いながら、一緒にひもといていくことができます。

ご興味のある方は、コンサルテーションを受けてみませんか。

詳しくはHPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/

役を降りる

仕事柄、いろんな「役」を演じてる人は多いと思います。

高級デパートの店員さんや飛行機の客室乗務員さんは、

マニュアル通りの言葉遣いと声色と笑顔で接してくれますが、私たちはその言動をその仕事柄当たり前のように受け取っています。

行政機関にいくと、それなりの市民に平等なきちんとした態度を要求してしまうし、金融機関にいけば、固いかしこまった態度をとってくれるのが当然なようにどこかで思っています。

(だから、そういう期待してる「役」を演じていない人がたまにいると、サービスが悪いと怒ってしまうこともあるのだと思います)

いずれにしろ、そういう仕事場での態度を求められてる人たちでも、仕事が終われば、その「役」を降りて「その人」に戻っていってると思います。

もしプライベートでも、社会的な「役」を演じ続けてる人がいたら、一緒にいる人や家族は心地が悪いと思います。

なぜなら、素の「その人」自身と触れ合えなくて、つながってる感覚を持てないからです。

仕事の顔というのは、社会でいつのまにか当たり前のようにできあがってきた「役」ですが、
このような「役」は家庭内にも存在しています。

料理はきちんと家事もそつなくこなす世間でいわれる良いお母さんをいつのまにか演じていたり、

何かあったらお父さんだよね、みたいな頼れる典型的なお父さんを演じていたり、

末っ子キャラでドジな(?死語)皆をなごませる役をいつのまにか演じていたり、

長女で、なんでも自分一人でできて迷惑をかけないというお姉さん役を演じていたり、

両親に不穏な空気がおきると、それを吹き飛ばすためにふざけて笑わせるお笑いの役を演じていたり、

堅苦しい家庭に新しい風を起こそうと、なにかハプニングを起こす役をいつのまにか演じていたり….etc.、

家庭によって様々な役が存在しますが、その役がいつのまにか「自分」と同化して、役を降りないままの人も多いように思います。

このような家庭内での役は仕事とは違って、

プライベートの中で割り当てられた役なので、

自分がそんな役を演じてるなんて、ましてや、

その家庭から巣立って独立した今も演じ続けてるなんて、気づかないのだと思います。

私も長いこと、演じていました。

私は長女で、父は横暴な感じで、母は父に仕(つか)えるタイプの人でした。
自分を出さずになんでも従って下にいて苦しそうな母をみて(そうみえるように母も演じていたと思います)、

私には兄がいましたが、幼少期は大人しいタイプだったので、私が家族の中では父に文句をいう、いわゆるたてつく役でした。

ブレークスルーを起こす役、被害者の代弁をするような役を演じていたのです。

私には妹もいますが、兄が悪者で妹を守るみたいなこともしていた記憶もあるので、そういう役を引き受けていたのだと思います。

そしてその役は大きくなって、実家をでて、仕事をしているときにも発揮されていました。

自分の置かれた場で、皆の不満を感じ取ったり聞き取ると、それを上にかけあう役をしていたのです。何も恐れずズバズバ言う怖い女〜(笑)

あるとき、私は自分のその「役」に気がつきました。

なぜなら、そういう役をした後に、私はいつもとても苦しいなと感じていて、

この苦しさは何だろう?とみつめていたら、

実は私自身は、皆のようにその不満自体をそこまで感じてもないのに、まるで自分のことのように権力側と対峙していたのだとわかったのでした。

しかも不満に思ってる本人たちが本当にその現状を訴えて変えようという意志があるかも定かではないのに、先走って代わりに行動を起こしていたのかもともわかったのでした(人助けでも何でもない、笑)。

ですので、その「役」から降りることにしました。

そしたら、その役を降りてすぐに、当時、親友だった子に、

「XXちゃん(←彼女が私を呼んでた呼び名)、変わったね、XXちゃんは戦わなくなったよね」と言われました。

親友だった、と書いたのは、その子とは、その後、縁がきれてしまったからです。

その親友だった子は、「戦う役」を演じてた子でした。

彼女は、いわゆるお金持ちのお嬢さまだったのですが、実際の家庭の中では、事業がうまくいかないとお父さんがお母さんにDVする家でした。

彼女は次女でしたが、暴力をふるうお父さんに「やめろー!」と果敢に立ち向かっていって、お母さんを体を張って救う役を演じていました。

私と親友になったのは、彼女からみると、私も戦う方の役を演じていて、それで私を同志のように頼もしく思っていたからなのでした。

だから上記の「戦わなくなったね」という言葉を彼女が私にかけたのは、

素のあなたに戻ったね、という優しい歓迎の言葉ではなく、戦わなくなったあなたには失望したよ、というニュアンスでした。

当時の私は、家庭内での「役」を演じ続けてるというカラクリについて彼女にうまく説明することはできませんでした。

ですので、まだ戦いつづけたい彼女と、素にもどった私とでは、波動が異なってしまって、その後、縁がきれてしまったのです。

当時、しょっちゅう飲みにいって一緒に大笑いしてた彼女、今、どうしてるかな〜……

ということで、長くなりましたが、

あなたの日常での行動、言動で、もし事後に心地よくないなと感じてるなら、

それは育った家庭内で、割り振られた・もしくは自分で選んだ「役」ではないか、

その役を今も日々、演じ続けていないか、ちょっとみつめなおしてみてはいかがでしょうか。

不要なパターンも、役もそうですけれど、

そうやって要らないものを1つづつ、剥いでいくと、自分がどんどん軽くなっていきます。

↑ 台所の窓から撮ったジョウビタキ。春になり、綺麗なさえずりをよく耳にします。かわいい。

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自分の演じてる「役」について気がついたけれど、どうやって降りたらいいのか、わからない方。

エネルギー療法でそのお手伝いができると思います。

詳しいことはHPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/

challenge してますか

”Challenge” という言葉が降りてきたので、

自分がこれまでの人生でやってきた「チャレンジ」について、今朝、思い巡らせてみました。

ここで書くチャレンジの定義は、

「できるかできないか予想もつかない、むしろできるとはなかなか思えないけれど、

試してみた、思いきってやってみた」ことです。

私はこれまでの人生で、海外にも1人で無防備に住みにいったし、わりと色んなことをやってきた方だとは思うけれど、

上記のチャレンジの定義に当てはまることを思い返してみたら、実はあまりやったことがないということがわかりました。

海外に行ったときは、ただ行きたいという気持ちで動いていただけなので(怖さも何もなかったから思いきりも必要なかった)チャレンジとは呼べないし、

マイナーなカテゴリーに入るホメオパスという仕事を選んだときも、できるかわからないけどやってみようというチャレンジではなく、気がついたらいつのまにかなっていたというただ起きてくる流れに乗ったような出来事だったので、自分の中ではチャレンジではありませんでした。

えー!?ちょっと、まって!ということは、私は人生であまりチャレンジしていないってこと?!と我ながら気づいて、

やれるかやれないかわからないけど、敢えてやってきたことを念入りに調べてみたら、

3つほどでてきました(良かった…..笑)。

1つ目にでてきたのは、テニスの試合にでたことです(まだこれからもでるかもですが)。

小さなコミュニティで何年もテニスをやってきた私でしたが、
少し広い世界に歩みでて自分がどれくらいできるか検討がつかない、ものすごい低レベルかもしれない、大恥かくかもしれない、それでも自分を試してみようと思って(しかもこの年齢で、汗)テニスの試合にでてみたことは、自分の中ではとても大きなチャレンジでした。

思えば、試合くらい緊張することは、私の人生では少ないと思います → つまり、緊張しない、チャレンジしようとしない自分の一面にあらためて気がつきました、笑。

2つ目に思い浮かんだのは、ボイストレーニングを始めたことです。

私は歌を歌うのが下手で、いわゆるコンプレックスでした。
そのコンプレックスに取り組むのはわりとハードル高かったけど、とりあえずやってみようと始めたのは、私にとって正真正銘チャレンジと言えます(現在も継続中、毎回レッスンで緊張して汗かきます)。

こう書いてくると、チャレンジというのは、

できなくて恥をかくかもしれない、失敗して後悔するかもしれない、自分のプライドが傷つくかもしれない、

それでもそういうエゴの痛みをも引き受けて、覚悟してやってみるってことなのかなと思いました。

3つ目に思いついたのは、移住したことです。

東京から今の姫路市の山間部に住みにきたことは、古民家暮らしも初めてなら、いわゆる村の中に入り込むのも初めてのことだし、人間関係やら暮らしやら、どうなるか全くわからないけど、とりあえずやってみようと思った、これもチャレンジだなと思いました。

とはいえ、これは私個人でのチャレンジというより、家族としてのチャレンジだと思います。

ということで、私のこれまでの人生のチャレンジで思いついたのは、上記の3つでした。

このチャレンジの数から自分のことを分析すると、

私は、ある程度予想できることしか手を出さないタイプの人だなと言えます。

予想して失敗しそうだとか、うまくいかなそうなことには、やらないようにしてきた安全圏で生きようとしていた人なのかもしれません。

もちろん、これを別の角度から言い換えるなら、自分が世間でできることがちゃんとわかっていて見通すのがうまいとかいう言い方もできますが笑。

しかし、いっけん、人生がわりとうまくいってきたように思えるとしても、

それは自分の想定内でだけ、安全圏内でやってきたとも言えますね(苦笑)。

家で、学校で、社会で、

何かをするときに助言をされることが多いです:

安全第一に。

先々のために保険を考えといた方がいい。

リスクをいつも考えなさい。

見通しが立ってやろうとしているのか。

もちろん、これらの言葉は、シチュエーションによっては大事かもしれません。

でも、安全第一すぎて、自分が失敗しない、危うい目に合わないことが、人生を生きることではないですよね。

安全でチャレンジしない人生は、違う角度からみるならば、

フルに自分のポテンシャルを発揮する機会を自分に与えていないとも言えるかなと、自分の人生を振り返りながら、思いました。

ということで、チャレンジが私に残ってる1つの課題だろうなと、新春に思いました。

なんとなく感じたのは、チャレンジすることの数を増やすより、
チャレンジすることの規模自体を大きくするほうが私には大事そう……。

2023年、あなたはのチャレンジは、どうですか。

ぶれないために開発する能力

昨夜、とても変わった非現実な夢をみていたら、ミャウ〜と鳴くのが聞こえ(繁殖時期になると時々やって来るオスのかわいいノラ猫)、

枕元のipodをつけると「4:4 4」でした。

2日前も、ぼんやりと目がさめていって(なにか思考していた)、今、何時だろう?と

ipodつけたら「4:4 4」でした。

早く起こされすぎですが笑、これは、もう疑いようのないサインだなと受け取りました。

そんなわけで、今朝も4:44に起きて、瞑想をしました。

すると、ここ最近メールのやり取りをした4者の方にお伝えするとよいだろうなと思う(そこも4!笑)インスピレーションが降りてきたので、記事にします。

・なにかを選択するときに迷ってしまい、自分一人で決めきれない

・とりあえず決めたのだけど、不確かでずっと落ち着かない

・なにか事象が起きると、解釈を他人に委ねる、そしてそれが正解だと安堵する
(判断するときに誰かを頼る)

このようなとき、

その部門の情報を調べたり、比較検討したり、経験のある人のアドバイスを参考にすることは基本的に有効だし、それも必要だと思います。

とはいえ、上記のようなことが度々起きているなら、

気がつくとよいのは、現実的な思考レベルを超えた能力を使っていくことです。

それは何かというと

サードアイに関連した能力です。

サードアイというのは第3の目ですが、それと関わる能力は、

一般に知られてる有名な「透視力」だけでなく、

直感力、洞察力、判断力、集中力や記憶力なども含みます。

いわゆる自分が何かを行っていくときに総合的に「司令」を下す能力ということができます。

上記のような傾向がある方というのは、

どれが質が良いか、無駄がないか、どちらが得か、失敗しないのはどれか、どれなら実行可能か、

というような物質レベルで比較検討し思考することはできています。

不足しているのは、

直感力、洞察力といった感性を使う能力です。

簡単にいうと、「感じる能力」です。

思考を超えた力、みえないなにか(エネルギー)を感じる力です。

例えば、ネットでとても素敵そうな商品をみつけた。

とても素晴らしい効用が、数々、謳(うた)われ、レビューも褒め言葉であふれてる。

パッケージも素敵なデザインで綺麗な色の仕上がり。これが入手できたら、私にとって有益ではないか…..

ここまでは思考の世界、物質レベルでの判断力を使っています。

ここから使ってほしいのは、サードアイの能力です。

商品をみたときに受けた感じや、
そのサイトの運営者/販売者、商品開発者の写真や、開発の意図などに目を通して、自分が「何を感じるか」、その感じる力を使ってみてください。

その過程で、ちょっとでも違和感を「感じるな」ら、それをスルーしないで大事にしてほしいです。

違和感というのは、自分の波動と共鳴しない波動を教えてくれてるからです。

この販売者のページをみると「なんだか心地が悪い」とか「ちょっとざわっとした」「なんか変」「ん?って感じた」とか、そういう抽象的な感覚を大事にしてみてください。

サードアイの能力というのは、皆、誰しも持っているのだけど、あまり使わない時代を過ごしてきて開発されていないだけなので、これからはそれをどんどん使っていき、開発していくのをオススメしたいです。

なぜなら、サードアイの能力で選択したものは、思考で選択したものと違って、ぶれることがないからです。

それは自分の波動と共鳴した、自分の真実だからです。

検討比較や有利不利、得か損かの範疇を超えているので、何を言われても、それが自分にとっての正解になるからです。

ですので、この能力を開発していくと、ぶれなくなっていきます。

内面の不確かさがどんどん減っていき、安定した自分になっていきます。

自分の感覚が自分の強力な味方になっていくので、他者の判断はそんなに必要なくなっていきます。

今朝、4:44に起きたことも、

たまたま猫に起こされただけでしょ、偶然だよ〜、

もう1回寝たら、と思考力だけの自分はいうでしょう。

でも、私は、この数字をみて、何かを感じたのです。

とても意味のある何か、それを大事に受け取りました。

思考力だけで生きていたとき、私も不確かでした。

でも感じる力を大事に開発してきたら、不確かさが減っていきました。

かといって思考力も大事なので、思考力と感じる力のタグを組むのが最強な気がします。

ちなみに、感じる力や思考力を使っても、迷ったり、判断できないなというときも、あります。

そのときは、タイミングが絡んでるんだな、と、今のところ、受け取っています(つまり、時がくるまでほおっておく、たくさんほおってるものアリ笑)。

感じる能力の開発には、テキストも講座代金も不要、講師も不要、即、始められます。

文字通りのアンチエイジング

私は毎晩、瞑想しているのですが、最近は時間があれば朝にもするようになりました。

先日、朝の瞑想から覚めたときに

「瞑想状態って 冬眠状態と同じだ」

と気がつきました。

早速、ネットで冬眠状態について調べてみると、

冬眠状態の動物たちは、

低体温や低心拍状態になっていて、それは”代謝を低下させてる”状態だ
ということが書いてありました。

ちなみに冬眠状態については、様々な分野で研究されてるらしく、

例えば、寝たきりの方々などは体を動かせないので筋萎縮が起こり、どんどん弱っていってしまうのですが、

冬眠状態の動物には筋萎縮が起こらず、それは代謝を低下させてる状態だからで、この冬眠のメカニズムを介護や医療の方面に使えないかというようなことが考えられているようです。

瞑想とリンクしてる冬眠の情報は探せませんでしたが、

その数日後に入手して読んだ瞑想の本に(導かれた…)、

瞑想してる状態では、人によるが代謝が16-20%くらい落ちている(医療機関で瞑想中の血液中の酸素濃度を計測した)と書いてありました。

瞑想状態では代謝の低下状態になってるんだ〜、だから冬眠してるようなもんだよね、と勝手に一人で納得しました笑。

私が瞑想を始めるきっかけをつくってくれた方が、

「瞑想してるとどんどん若返るよ〜」と言っていたのは、そういうことだったのね、

と、やっとここで腑に落ちました(その方は上記のような根拠はなく、ご自身の感覚で言っていたと思います)。

ということで私の理解で言うと、瞑想してると

「若返る」のではなく、

「老いていく速度が、瞑想してる時間分(代謝が落ちるので)少しゆっくりになる」です。

いわゆる抗老化タイム、つまり文字通りのアンチエイジングになる、のだと言えると思います。

これまで瞑想いいですよ、とオススメしても、なかなか実践する人はいませんでしたが、
アンチエイジングと聞けば、きっとやる気になるのではなかろうか……!?(今朝、この話を聞いた二人がすぐにやると言ってました笑)

洞窟にこもり瞑想してた僧の過去世(男性だった)があるといわれたことがあります……今世はせまいとこ嫌いだけど(笑)


カウンセリング講座やります

2つ前の記事でお知らせしたカウンセリングの講座が具体的に決まりましたので、お知らせします。

講座名:CC講座(カスタマイズカウンセリング講座)

講座内容:カウンセリングとは何か?という一般的な見方から始
     まり、相談者特有の悩みの核を理解し、それを解放さ
     せる働きかけまでを解説します。

     *講座という名称ですが、ワークショップ的に
      参加者同士での練習も含まれます      

具体的なプログラム:6回コース

         1) カウンセリングとは何か?

         2) カウンセラーという役割

         3) ヒアリングテクニックと実践

         4) 質問、整理テクニックと実践

         5) カスタマイズカウンセリングの仕組みとHow to 1

                                6) カスタマイズカウンセリングの仕組みとHow to 2

 
  コースプログラムを 2つづつ組み合わせて、1日の集中講座にします:

  1日目は、1) と2) コース

  2日目は  3)と4)コース

     3日目は、5)と6)コースの組み合わせにしますので、

実質的に「3回」で 3日間の講座になります。 

 
  料金: 1日(2コース)につき、11.000円税込

  

  場所:1回目は 加古川総合文化センター 会議室 
     にて行います。   

  

  日程: 1回目 2022年 7月9日(土) 10時〜16時
      お昼休憩あり

     *2回目以降の日時と場所は、皆さんと都合を合わせて事前
      に決めていきます。

  

  募集人数: 5名前後

        先日の記事で参加を決めてくださった方々が
       いますので、この記事で募集するのは、
       1、2名になります。


この講座を受けると起こるかもしれないよいこと:

 ・人の話を聞いて相談にのってあげたり、人の気持ちを軽くしてあげる
  ことができる。
  同時に自分の悩みへの向き合い方も大幅に変わってきて楽になる。

 ・カウンセリングに興味があったり、やりたいと思う気持ちがある人は、    
  そこに導かれているわけで、なんらかの形でそういう仕事につなげてい 
  くことができる。
  悩みの仕組みがわかるのでヒーラーなどのスピリチュアルな仕事にも
  つなげていける(その後、ご要望があればエッセンスやレメディの使
  い方を教えることも考えています)。

 ・参加者の方には、私がホメオパスになるときに大いに学びとなった
 Reflective Journal (自己内省日誌)を定期的に書いてもらいます。    
  Reflective Journalを書くことは、カウンセリングマインドを地道に
  しかし確実に身につけることになるし、同時に内面の自己浄化も     
  行うことになります。Reflective Journal にはフィードバックを送り
  ますので、まるで個人セッションを定期的に受けたような効果もえられ
  ます。
  

 心が動いた方、customerarnica@gmail.com までご連絡ください。
 (氏名、携帯電話番号、志望動機をお書きください) 

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私にとっても新しい一歩。なにがどうなるかわからなくても、ちょっとだけ勇気をもって踏み出せば、いつのまにか自然の流れにのってることになる。

寛容=愛の別名

自分を愛しましょう、なんて言葉がフツーの声かけのように使われる時代になってきてますが、

自分を愛するって、結局のところ、そもそもどういうことを指してるのかわかりにくいので、

自分を愛したくても、なにから始めたらいいの?!と実践するのも難しいように思います。

「愛」が大事というのは感覚的に皆がわかっていても、具体的にそれを日常に取り入れる方法がわかりにくいのだと思います。

簡単にそれを始めるコツとして、

「愛」→「寛容」に変えるのがよいのでは、と私は思っています。

家族につい感情的に怒ってしまって、

なんでそんなことするの!

とどなってしまった自分をすぐに「愛する」のはできそうにないけど、

その自分にちょっと「寛容になる」のはできそうに思います。

「寛容」をオンライン辞書でひくと、

「他の罪や欠点などをきびしく責めないこと」

という文章がでてきます。

罪や欠点をゼロにするわけじゃなくて、”きびしく” 責めないんです、

起こったことを全面的に許容するわけじゃなく、ああ、そんな自分はまだまだだ、とも思うけど ”きびしく” 責めずに、

ちょっと / ゆるく責めるで終わりにするんです。

→ またイライラして怒っちゃったよね、でも、まあ、それはそれでいいよって、自分に寛容に接してあげるのです。

誰かからひどいことをされたときも、

そのひどいことをした相手を「愛する」なんて、

とてつもないことのように思うけど、

「寛容になる」くらいなら、ちょっとできそうな気がしませんかね。

なんてひどいことするの!…、でも、まあ、ちょっと、このことに寛容になってみようか…..くらいにゆるめてみるのはどうでしょう。

これは自己肯定感を高めましょう、みたいなことにも、

使えるのではないかと思います。

今すぐに、自分はすごい!自分はできてる!という肯定感を持つことは難しいけど、

自分がやらかしたミスやら、自分ができなかったことを、

寛容にみてあげる、はできるんじゃないかなと。

やらかしちゃったけど、まあ、仕方ないよ、それでとりあえずいいよ、とか、

できなかったけど、いいさ、いいさ、とか、

完全にいいよと思えはしなくても、ちょっと寛容になるくらいなら、手が届く範囲なんじゃないかなと思うのです。

自分で自分に寛容な言葉がけをするのが難しいなら、

仙人のようなおじいさん(おばあさんでもいいけど笑)がすぐそばにいるイメージで
「いいんじゃよ、それで」(おじいさん口調、笑)と、
代わりにささやいてもらってください。

あ、別に仙人じゃなくて、女神さまとかマリア様とか誰でもいいですけどね汗。

寛容というのは、これまで自分のことや、他人のことをジャッジしてた点数の数値を少しあげてあげることでもあります。

これまでなら、ああ、こんな自分は嫌だな、点数でいうと自分は50点くらいだなと評価していたのを、

ちょっと寛容につけてあげよう、
そうだな、70点にしてあげよう笑、みたいに点数を甘くつけてあげるようなことです。

寛容になるというのは、

自分に愛を今よりもう少しだけ多くあげること、

他人に愛を今よりもう少しだけ多くあげること

なんじゃないかなと思います。

宗教のキリスト教信者ではないのですが、なにかあると私に浮かんでくる人は Jesus です。
しかし自分や人を寛容にゆるそうとするときは「いいんじゃよ、それで」というおじいさん仙人の言葉がしっくりきます笑。

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やってみたけど、ほんの少しも、自分に寛容になれないよ、という方。
寛容になるのをゆるさない自分が何かの理由で存在するのかもしれません、
それは、いったい何なのか、コンサルテーションで一緒に探ることができます。
ご興味のある方は、HPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/