役を降りる

仕事柄、いろんな「役」を演じてる人は多いと思います。

高級デパートの店員さんや飛行機の客室乗務員さんは、

マニュアル通りの言葉遣いと声色と笑顔で接してくれますが、私たちはその言動をその仕事柄当たり前のように受け取っています。

行政機関にいくと、それなりの市民に平等なきちんとした態度を要求してしまうし、金融機関にいけば、固いかしこまった態度をとってくれるのが当然なようにどこかで思っています。

(だから、そういう期待してる「役」を演じていない人がたまにいると、サービスが悪いと怒ってしまうこともあるのだと思います)

いずれにしろ、そういう仕事場での態度を求められてる人たちでも、仕事が終われば、その「役」を降りて「その人」に戻っていってると思います。

もしプライベートでも、社会的な「役」を演じ続けてる人がいたら、一緒にいる人や家族は心地が悪いと思います。

なぜなら、素の「その人」自身と触れ合えなくて、つながってる感覚を持てないからです。

仕事の顔というのは、社会でいつのまにか当たり前のようにできあがってきた「役」ですが、
このような「役」は家庭内にも存在しています。

料理はきちんと家事もそつなくこなす世間でいわれる良いお母さんをいつのまにか演じていたり、

何かあったらお父さんだよね、みたいな頼れる典型的なお父さんを演じていたり、

末っ子キャラでドジな(?死語)皆をなごませる役をいつのまにか演じていたり、

長女で、なんでも自分一人でできて迷惑をかけないというお姉さん役を演じていたり、

両親に不穏な空気がおきると、それを吹き飛ばすためにふざけて笑わせるお笑いの役を演じていたり、

堅苦しい家庭に新しい風を起こそうと、なにかハプニングを起こす役をいつのまにか演じていたり….etc.、

家庭によって様々な役が存在しますが、その役がいつのまにか「自分」と同化して、役を降りないままの人も多いように思います。

このような家庭内での役は仕事とは違って、

プライベートの中で割り当てられた役なので、

自分がそんな役を演じてるなんて、ましてや、

その家庭から巣立って独立した今も演じ続けてるなんて、気づかないのだと思います。

私も長いこと、演じていました。

私は長女で、父は横暴な感じで、母は父に仕(つか)えるタイプの人でした。
自分を出さずになんでも従って下にいて苦しそうな母をみて(そうみえるように母も演じていたと思います)、

私には兄がいましたが、幼少期は大人しいタイプだったので、私が家族の中では父に文句をいう、いわゆるたてつく役でした。

ブレークスルーを起こす役、被害者の代弁をするような役を演じていたのです。

私には妹もいますが、兄が悪者で妹を守るみたいなこともしていた記憶もあるので、そういう役を引き受けていたのだと思います。

そしてその役は大きくなって、実家をでて、仕事をしているときにも発揮されていました。

自分の置かれた場で、皆の不満を感じ取ったり聞き取ると、それを上にかけあう役をしていたのです。何も恐れずズバズバ言う怖い女〜(笑)

あるとき、私は自分のその「役」に気がつきました。

なぜなら、そういう役をした後に、私はいつもとても苦しいなと感じていて、

この苦しさは何だろう?とみつめていたら、

実は私自身は、皆のようにその不満自体をそこまで感じてもないのに、まるで自分のことのように権力側と対峙していたのだとわかったのでした。

しかも不満に思ってる本人たちが本当にその現状を訴えて変えようという意志があるかも定かではないのに、先走って代わりに行動を起こしていたのかもともわかったのでした(人助けでも何でもない、笑)。

ですので、その「役」から降りることにしました。

そしたら、その役を降りてすぐに、当時、親友だった子に、

「XXちゃん(←彼女が私を呼んでた呼び名)、変わったね、XXちゃんは戦わなくなったよね」と言われました。

親友だった、と書いたのは、その子とは、その後、縁がきれてしまったからです。

その親友だった子は、「戦う役」を演じてた子でした。

彼女は、いわゆるお金持ちのお嬢さまだったのですが、実際の家庭の中では、事業がうまくいかないとお父さんがお母さんにDVする家でした。

彼女は次女でしたが、暴力をふるうお父さんに「やめろー!」と果敢に立ち向かっていって、お母さんを体を張って救う役を演じていました。

私と親友になったのは、彼女からみると、私も戦う方の役を演じていて、それで私を同志のように頼もしく思っていたからなのでした。

だから上記の「戦わなくなったね」という言葉を彼女が私にかけたのは、

素のあなたに戻ったね、という優しい歓迎の言葉ではなく、戦わなくなったあなたには失望したよ、というニュアンスでした。

当時の私は、家庭内での「役」を演じ続けてるというカラクリについて彼女にうまく説明することはできませんでした。

ですので、まだ戦いつづけたい彼女と、素にもどった私とでは、波動が異なってしまって、その後、縁がきれてしまったのです。

当時、しょっちゅう飲みにいって一緒に大笑いしてた彼女、今、どうしてるかな〜……

ということで、長くなりましたが、

あなたの日常での行動、言動で、もし事後に心地よくないなと感じてるなら、

それは育った家庭内で、割り振られた・もしくは自分で選んだ「役」ではないか、

その役を今も日々、演じ続けていないか、ちょっとみつめなおしてみてはいかがでしょうか。

不要なパターンも、役もそうですけれど、

そうやって要らないものを1つづつ、剥いでいくと、自分がどんどん軽くなっていきます。

↑ 台所の窓から撮ったジョウビタキ。春になり、綺麗なさえずりをよく耳にします。かわいい。

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自分の演じてる「役」について気がついたけれど、どうやって降りたらいいのか、わからない方。

エネルギー療法でそのお手伝いができると思います。

詳しいことはHPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/

マインドフルネスの奥義

去年あたりから、瞑想の時間だけでなく、日中の生活の中でも瞑想状態を持つ、というの試しています。

これは、エックハルト・トールという方が教えてくれてるやり方で、

思考にまみれてる生活の中で、意識的に思考をストップさせる時を持つという生き方です。

(エックハルト・トールは、ドイツ生まれ、カナダ在住の ”悟った人”)

別の言い方をすると、日常の生活の中でなるべくマインドフルネスの状態でいる、ということにもなります。

自分の思考を客観的に観察してもよくわかるのですが、

人というのは、いつもなにかについて思考していて、その中身は、

ー今思い出してもどうしようもない過去のことを回想していたり(あのときXXさんにこう言われたとか、同時にそのときの感情も味わったり)、

ー未来のこと(例えば明日の用事はなんだっけとか、夕飯は何する?とか)をあれこれ想定していたり、

ー目の前の出来事に自分語りのナレーション(あのレジの人は仕事が遅いな、とかのジャッジ)をいれたりしています。

マインドフルネスでいるはずなのに、気がつけば、そんな感じで、いつのまにか思考にのっとられて、目の前のこととは全然違うことを考えていたりするものです。

以前は瞑想してる時間だけで満ち足りていたのですが、思考から離れることが日中でも実践できるのだということがわかったので、そちらにも取り組んでいます。

そしたら、先月、それは車の運転中に起こったのですが、

自分にとっては大きな気づきを得たので、記事にしたいなと思います。

生活しながら瞑想状態(思考をストップ)=マインドフルネスでいるということは、

本当の意味では何をしているのか、が、ふっとわかったのでした。

箇条書きにしてみます:

マインドフルネスでいるということは、

いま、目の前で自分に起きてる体験に、関係のない思考をはさまずに
真剣に/誠心誠意、取り組むということ

真剣/誠心誠意、取り組むというのは、その目の前の事象に自分の注意を100%向けるということ

自分の注意を100% 向けるということは、
その事象に、自分の「心を込める」「心をくだく(真心をこめる)」ということ

心を込める とは 何をしてるかというと、

自分のハートをその事象に向けて完全にオープンにしてるということ

つまり、その事象に ハートを開いて愛を向けてる、
愛というエネルギーを放射してる

ということなんだなと、気づいたのでした。

別の言葉でいうと、

その体験に ”光” をあててる、ということでもあるなとわかりました(1人で勝手に深く納得、笑)。

私が、愛しい猫たちを心を込めて撫でるとき、

私が、テニスのボールを100%真剣に追いかけてるとき、

私が、クライアントさんの話を全身傾けて聴くとき、

瞑想状態です、マインドフルネスです。

これらをしてるとき、心地いいのは、

ハートがオープンで、愛を放射してたからなんだ〜、つまり源のエネルギーとつながっていたからなんだ、ととても深く腑に落ちました。

このマインドフルネスの奥義がわかると、ただ単に思考をストップするのが目的ではなく、

生活のいろんなシーンで、この心地よさを実践していきたいという違う角度からの瞑想状態でいるためのモチベーションを持てるようになりました。

日常で、洗濯物をひろげていく行為に心をこめる、干すときにも心を込める、

鼻をかむときにも、使ったティッシュを捨てるときにも、お茶をのむときにも、髪の毛を洗うときにも、掃除をするときにも….etc.,

これをしはじめると、”雑”に物事をこなせなくなります。

早いペースではなくなり、自然とゆっくりになります。

バタバタ、ざわざわ、さっさ、パッパッとできないのです。

目の前の対象に心を込めると、優しい扱いになって、ペースが静かになります。

自分の大事なものを扱うときに、誰でもそっと触れますよね、
あんな感じで、自然と丁寧になるのです。

だから、その辺にぶつかったり、つまづいたり、物を落としたり、が減ります。

人とコミュニケーションしてるときもそうです。

特に家族には、100%で心から向き合うのは真剣な話題のときだけで、わりとテキトーに

これまで向き合ってたんだなと気づきました。

猫に心くだくように、家族にもそうしよう….(笑)。

といろんな瞬間の瞑想状態にトライしてますが、はっと気がつくと、すぐに思考が入っています。

思考の波にずーっと流されていた、という漂流時間の方が、正直完全に多いです。

マインドフルネス100とすると、できてるのは、100のうち10どころか、5とか6くらいじゃないか、いや3とか4かも、とも思います。

そのくらい、マインドフルネスでいることに慣れていないのだと思います。

でも、これ、やっていくとわかるのですが、本当に心地が良いのです。

100のうち、1でも2でも日中にマインドフルネスを味わいだしたら、もうやめられません。

なぜなら、その心の平穏さ、平和な感じを体験してる自分のほうが、本当の自分だったとわかってくるからです。

目の前の事象に、心を100%込める、愛を持って接する、とても心地よい訓練?なので、おすすめしたいです。

雪が降り積もった朝のあの全ての音が吸収されたしーんとした静かな感じ。自分の内側があんな感じになります。

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マインドフルネスになりたいけど、どうしてもなれない。

それは、その平穏な状態を邪魔するノイズがあるからです。

そのノイズは、もういらない過去の出来事や感情、未来への不安だったりします。

ノイズキャンセルをエネルギー療法でお手伝いします。

ご興味のある方は、HPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/

challenge してますか

”Challenge” という言葉が降りてきたので、

自分がこれまでの人生でやってきた「チャレンジ」について、今朝、思い巡らせてみました。

ここで書くチャレンジの定義は、

「できるかできないか予想もつかない、むしろできるとはなかなか思えないけれど、

試してみた、思いきってやってみた」ことです。

私はこれまでの人生で、海外にも1人で無防備に住みにいったし、わりと色んなことをやってきた方だとは思うけれど、

上記のチャレンジの定義に当てはまることを思い返してみたら、実はあまりやったことがないということがわかりました。

海外に行ったときは、ただ行きたいという気持ちで動いていただけなので(怖さも何もなかったから思いきりも必要なかった)チャレンジとは呼べないし、

マイナーなカテゴリーに入るホメオパスという仕事を選んだときも、できるかわからないけどやってみようというチャレンジではなく、気がついたらいつのまにかなっていたというただ起きてくる流れに乗ったような出来事だったので、自分の中ではチャレンジではありませんでした。

えー!?ちょっと、まって!ということは、私は人生であまりチャレンジしていないってこと?!と我ながら気づいて、

やれるかやれないかわからないけど、敢えてやってきたことを念入りに調べてみたら、

3つほどでてきました(良かった…..笑)。

1つ目にでてきたのは、テニスの試合にでたことです(まだこれからもでるかもですが)。

小さなコミュニティで何年もテニスをやってきた私でしたが、
少し広い世界に歩みでて自分がどれくらいできるか検討がつかない、ものすごい低レベルかもしれない、大恥かくかもしれない、それでも自分を試してみようと思って(しかもこの年齢で、汗)テニスの試合にでてみたことは、自分の中ではとても大きなチャレンジでした。

思えば、試合くらい緊張することは、私の人生では少ないと思います → つまり、緊張しない、チャレンジしようとしない自分の一面にあらためて気がつきました、笑。

2つ目に思い浮かんだのは、ボイストレーニングを始めたことです。

私は歌を歌うのが下手で、いわゆるコンプレックスでした。
そのコンプレックスに取り組むのはわりとハードル高かったけど、とりあえずやってみようと始めたのは、私にとって正真正銘チャレンジと言えます(現在も継続中、毎回レッスンで緊張して汗かきます)。

こう書いてくると、チャレンジというのは、

できなくて恥をかくかもしれない、失敗して後悔するかもしれない、自分のプライドが傷つくかもしれない、

それでもそういうエゴの痛みをも引き受けて、覚悟してやってみるってことなのかなと思いました。

3つ目に思いついたのは、移住したことです。

東京から今の姫路市の山間部に住みにきたことは、古民家暮らしも初めてなら、いわゆる村の中に入り込むのも初めてのことだし、人間関係やら暮らしやら、どうなるか全くわからないけど、とりあえずやってみようと思った、これもチャレンジだなと思いました。

とはいえ、これは私個人でのチャレンジというより、家族としてのチャレンジだと思います。

ということで、私のこれまでの人生のチャレンジで思いついたのは、上記の3つでした。

このチャレンジの数から自分のことを分析すると、

私は、ある程度予想できることしか手を出さないタイプの人だなと言えます。

予想して失敗しそうだとか、うまくいかなそうなことには、やらないようにしてきた安全圏で生きようとしていた人なのかもしれません。

もちろん、これを別の角度から言い換えるなら、自分が世間でできることがちゃんとわかっていて見通すのがうまいとかいう言い方もできますが笑。

しかし、いっけん、人生がわりとうまくいってきたように思えるとしても、

それは自分の想定内でだけ、安全圏内でやってきたとも言えますね(苦笑)。

家で、学校で、社会で、

何かをするときに助言をされることが多いです:

安全第一に。

先々のために保険を考えといた方がいい。

リスクをいつも考えなさい。

見通しが立ってやろうとしているのか。

もちろん、これらの言葉は、シチュエーションによっては大事かもしれません。

でも、安全第一すぎて、自分が失敗しない、危うい目に合わないことが、人生を生きることではないですよね。

安全でチャレンジしない人生は、違う角度からみるならば、

フルに自分のポテンシャルを発揮する機会を自分に与えていないとも言えるかなと、自分の人生を振り返りながら、思いました。

ということで、チャレンジが私に残ってる1つの課題だろうなと、新春に思いました。

なんとなく感じたのは、チャレンジすることの数を増やすより、
チャレンジすることの規模自体を大きくするほうが私には大事そう……。

2023年、あなたはのチャレンジは、どうですか。

自由な関係

先日、妹と小旅行に出かける機会がありました。

私たちは電話で近況を連絡し合うような姉妹?性質?ではないし、妹は関東に住んでることもありたまにしか会わないので、今回のような小旅行となれば、積もり積もった話がでてきて観光などほぼ眼中になく「ただ話しまくる旅」になります笑。

妹は、子どもの頃にやりたくて親に頼んだけれど叶わなかったピアノを、1、2年前から習い始めたのですが、旅行中の彼女の話はもっぱらそのことでした。

彼女は子どもの頃にオルガン(近所の人が譲ってくれた)を習わなくても弾けていたし、歌もとても上手だったので、もともと音楽の才能があるんだろうなと私は思ってます。

だからなのか、大人のイチからの習い事といっても、想像以上に真剣に突き詰めているようです。

練習曲を弾くためのテクニック以上のこと、例えば根本的な体の運び方を学ぶためにある本を読んで、自分のこれまでの姿勢や力の入れ方がおかしかったと気づいたとか、音が響くというのはこういうことだみたいな話までしていて、彼女のプライベートの時間のほとんどがピアノのために使われているのもわかりました。

そんな感じでお互い話しまくって、あっという間に時間が過ぎて、妹と別れ、私は車で帰途についたのですが、

妹から聞いた話を運転しながら無意識に反芻していたら、とても重い感覚を感じました。

正確にいうと、旅行中も彼女の熱い話を聞いてる途中からすでに、なんだか重たいな、苦しい感じがするなと思っていたのですが、はっきりそう認識したのは、一人になった帰り道の車の中でした。

大人になってそんなに夢中になれるものに出会うなんて、とても素敵な話で、しかもやりたかったことを叶えた喜ばしい話なのに、なんだろう、この重い感覚は?!

妹の情熱に圧されたのかな?!

自問してみましたが、自分が感じる重さが「何か」わからなかったので、この件は、そのまま忘れて、私もまた自分の日常に戻っていきました。

そうしていたら、昨日、ふっと私が重さを感じた理由がわかったので記事にしてみます。

私が感じた重さは、

ピアノという習い事を妹が自分と ”アタッチ(attach) させてる” と感じたから、でした。

アタッチとは、何かと何かをくっつけることで、

人が何か(モノや人)に強くこだわったり、

執着したとき、

両者にエネルギーコードが形成されることがあるのですが、そのコードのついた関係が私には重く感じられたのだと思いました。

わかりやすい言葉でいうならば、ピアノが彼女にとっての「執着」になったと感じたからだったのです。

「何か」を自分とアタッチさせると、人はその「何か」と ”自由な” 関係ではなくなります。

自分に何かとつながる ”ヒモ”  が物理的にくっついてると想像すると、

自由自在に、軽やかに動けなくなるとイメージできるのでは、と思います。

アタッチしてる/されてる関係は、人間関係でみるとわかりやすいです。

彼が大好きでたまらない、

彼なしでは私の生活は成り立たない、彼がいなくなったら私の人生はおしまい、

みたいに表現できる関係が、それです。

私から一生離れないでね、私を幸せにするといったじゃない、みたいなのも、

アタッチしてる関係です。

母子間でもこれはみれます。

この子が私の全てですとか、この子が成功することが私の望みです、みたいなのもアタッチしてる関係です。

自由な関係とは、

彼が大好きだけど、でももし彼が私から離れたとしても、まあ、なんとかなるでしょ、他の男もいるしね…、みたいな関係で、

あなたが好きで結婚したけど、気がついたらもうウン十年も一緒に過ごしてるね、みたいなのも自由な関係だと思います。

これはモノとの関係も同じで、

お金がないと暮らしていけない、はお金とアタッチされてる関係で、

お金があるほうがいい、でも、まあ、お金がなくなっても、なんとかやれるでしょ、自給自足でもいいし、みたいに思えるのは、お金と自由な関係と言えます。

モノだけでなく、名誉だったり、地位だったり、評価といった抽象的なものへのアタッチも同じです。

アタッチという視点で、自分の人間関係やモノとの関係が自由な関係かどうか点検してみたら、

エネルギー療法という仕事も以前は”自分の”ライフワークと考えていてアタッチしかけていたけど汗、今は、いつやめてもいいな〜と思ってるし、

モノもお金も、なくてもまあ、なんとかなるでしょと思えてる、と思いました。

大好きな趣味のテニスは、正直、以前はアタッチしてたかもと思うのですが(真剣すぎた)、

今年の春に肩の腱をケガして、その時、もしかして今後テニスできなくなるかもと思ったことをきっかけに、目が少し覚めて?!今はほどほどにと思えてるので、以前よりかなり自由な関係でいられてるかも、と思いました。

家族のことは大好きですが、それぞれが自由に生きていくことを望んでいるし、それぞれ自由にやってくれるだろうと思えてるので、家族とも自由な関係かなと思えました。

結局、そうやって点検していくと、もっとも私がアタッチしてるのは「猫」だと思いました。

猫がいなきゃ、だめという感覚ではないですが、

猫がいつかいなくなるときが来たら(魂は死なないとわかっていても)耐えられるのだろうか…とは思ってます汗。

しかし、アタッチメントコードをつけると、つけた自分だけでなく、つけられた猫も軽やかにいられないので、意識して自由な関係でいよう、と思いました。

最後に、

この記事のネタにさせてもらった妹ですが(ごめん!)、彼女はそういうのにちゃんと気づく人なので、そのうち、「うっわー、このピアノとの関係は重いっ」と自分で気づくと思うので、アタッチしてるかもよ、ということは、今のところ、伝えていません。

ちょうど紅葉の季節に旅行できました。

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アタッチしてる、コードをつないだ関係を持ってると気づいた方、

そのコードを切りたい場合は、

ハサミやナイフでカットするイメージを使って、コードを断ち切ることができます。

まずは、自分がそのコードは不要だ、もっと軽やかに生きていこうと意識することから始めるとよいです。

Higher selhとlower self

突然ですが、あなたという存在には、

ハイヤーセルフ(高次の自己) と  

ロウワーセルフ(低次の自己)と呼べる幅があること、ご存じですか?

わかりやすい例で説明すると、

例えば、あなたに高慢なタイプの知り合いがいて、

いつもその人はあなたに上からモノを言っている。

ある日、その人が誰かにギャフン(死語?)と言わされる出来事が起きたとき、

「ふふん、いい気味〜、私はいつもあなたからそんな目に遭わされてるんだからね!」

とほくそ笑むのが Lower Self、

「あの人、プライド高いからものすごく傷ついてるかも、大丈夫かな……でも、今回のことであの人が何かに気がつきますように」と、相手を思いやったり、良きことを願うのが Higer Self  みたいな感じです。

上記のように書くと、

うわ〜、人によくないことが起きたときにそんなこと思う人になりたくない、私はLower Self は要らないわ、みたいなことを思う人がいるかもしれませんが、

Lower Self も Higher Self もどちらもあなたなのです。

低い自己も高い自己も、あなたは含有してるのです。

別の言い方をすると、私たちは、固有の波動の範囲内で、低い波動にもなるし、高い波動にもなるエネルギー体なのです。

ちょっと、思い出してもらうといいのですが、

あなたのこれまでの人生で、

ああ、あの頃の自分はどうかしてたなとか、

あのときの自分には絶対戻りたくないなとか、

あのときの自分は最悪の人間だった、どうしてあんな馬鹿なことしたんだろうとか、これまでの人生で、そんな時ありませんでしたか?苦笑。

私は、あります。

1つどころか、複数、ある、ある……ある!

あのときの自分はどうかしてた、あのときの知り合い達には恥ずかしくてもう二度と会いたくない、というような自分が幾つも幾つも思い出されます(冷汗)。

それらの自分、それがつまり、 Lower Self が現れていたときなのです。

私のようにたくさん思い出した人もいるかもですが、しかし、落ち込まなくても大丈夫。

そういうLower な自己を認識できてるのは、幸(さいわ)いなのです。

その Lower Self も自分の一面だったと体験して、

その自分はどうかしていたんだ(本来の自分ではない)、と学んでいるので、

その後、生きていく上で、何を選択していくかが、はっきりしていくのです。

Lower Self を表現していたことで、心地悪かったり、自分を責めたり、後悔した人は、

そちらのSelf を選びたいとは思わなくなっていくのです。

なぜなら、本当の私たちというのは、実は Higher Self の方の波動なのです。

肉体をもったことで、エゴ(自意識)が付随し、 Lower Self も出現するのだけど、

この肉体を動かしてる真の存在は、Higher Self の方なのです。

真の自分が一致するのが Higher Self の方なので、

Lower Self として現れた自分を思い出すと、居心地が悪かったり、自責したりするのです。

Higher Self と一体となって日々を生きてる人は、実際にはごく少数と思いますが、

誰しも段階を追いながら、Higher Self の方に近づく旅をしてると思います。

あなたが、今の自分をそんなに好きでないのなら、

それは、あなたが Lower Self の方を表現してるだけかもしれません。

私たちは、自分を Lower にも Higher にも表現できる存在です。

それなら、Higher の表れのほうを選びたいですよね。

もちろん、時々 Lower がでても、それも自分の一部で仕方なし笑。

明るくまぶしく軽く感じるのがハイヤーセルフ、
暗くて重くて粘っこいのがロウワーセルフ。毎時、自分はどちらか気づけるといいなと思います。

Higher Self を発揮したいけど、どうしてもLower Self の方が強くて、その表現で終わってしまう方、

それは、あなたの Higher Self を自由に表現させないようなブロックや傷ついたトラウマがあるからだと思います。

それらを解放して、本来のあなたらしくいきませんか。

コンサルテーションと、エネルギー物質のレメディを使って、それらの解放のお手伝いをします。

ご興味のある方はHPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/

色んなこと、楽しんでいい

今朝、瞑想しててふと降りてきた見方ですが、

何か1つのことだけに全てをかける

という生き方は、1つ前の時代で終わったのかもしれないと思いました。

確かに、このところのクライアントさんたちのお話を聞いていても、

例えばある方がビジネスに秀でた才能を持っていても、それだけに集中して人生を展開していこうとは思ってはいない、そういう傾向が全体的にみえます。

そのビジネスの才能は、ご両親から譲り受けているわけですが、幼少期の体験で、親がそれに集中するあまり、家族の生活が大事にされず、子供だったご自身が寂しい思いや不足感を味わったことにより、1つのことだけで燃え尽きる生き方を選びたくないという学びが、そうさせてるように思います。

自分個人の道だけでなく、家族やプライベートでも充実した人生を選んでいく、というのが今の時代の全体的な傾向としてあるように私は思います。

アイドルは落ち目になるまで結婚しないと思っていた時代が終わり、絶頂期に結婚し家族や子供たちとの生活も大事にした木村拓哉さんがそうであるように(これが一番わかりやすい先駆者の例だと浮かんだ笑)、

テニスのバーティ(豪州の女性プレーヤー)が世界ランキング1位のときに、しかも25歳の若さで早々に引退し、別のことを始めたいと会見したように、

今の&これからの時代は、なにか1つのことだけに人生を捧げる時代ではなく、色んなことを体験したり、自分だけが何かをやり尽くして自分だけが幸せで終わらず、周りの人との関係も調和させていく、そんな時代なのではないかと思いました。

これを精神世界の言葉でいうならば、今世に、複数のことを体験するような魂のプランを持ってきてる人が多い、といえるかもしれません(転生最後の方はそうなる)。

その視点で、自分のことをみると、私もエネルギー療法という仕事についてはライフワークという感覚をもっていて大事にしてるけれど、

同時にプライベートでやってるテニスも、やりたい気持ちがなかなか減らなくて、いつまで勝ち負けのゲームやっとんねん!と時々、自分を突っ込んだりしてたけど笑、これも、私が体験したいプランの1つなんだろうなと思いました。

また自分個人のしたいことだけでなく、家族での生活も同じくらい大事にしたい、という思いも持っています。

一言でいうと、どれも楽しみたい、ということになりますが、
この記事を書きながら、自分も含め、こういう時代なんだよな、と改めて思いました。

18歳になった私の息子も、メインで学びたい専門を既に決めてますが、同時に副業でやりたいこともすでにあり(すでに「副業」というカテゴリーに入れてる笑)、さらにもう1つお金を稼ぐためにチャレンジしたいと思ってることもあるそうです。

以前は、息子のそういう話を聞くと、
1つに絞れないの?!エネルギー分散するよ….とか、
でも、まあ、そのうち、何かに絞られるかも、とか、
いや、どこかでそれらが1つにつながるときが来るかもね、

みたいに思ってましたが、
今朝のインスピレーションで降りてきた見方でみると、
彼はすでにそういう時代の子なんだよな、とわかりました。

私たちの肉体を生かしてるエネルギーが体のまわりにあるのですが、
それらのエネルギーは7つのチャクラ (出入口みたいなもの)を通して流れていて、その7つに人生を通して取り組むテーマがそれぞれあります。

それらのテーマをクリアしていくと、心身のエネルギーバランスがよく、
現実の人生自体にもバランスがとれていくわけで、
つまりは、上記に書いたような、人生のいろんなカテゴリーでもバランスのとれた、自分の充実だけではなく、まわりの人も充実する幸せな人生になるのだと思います。

ということで、

何か1つだけにかけなくてもいい(かけるのもよし)、

これ、やりたいなとか、楽しいなと感じること、

その自分の感覚に素直に従って色んな体験をするのがよいと思います。

虹の7色は、7チャクラ の色を表しています。

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7つのチャクラのテーマを学んでみたい方に、

腸内細菌レメディプログラム

というのを提供しています。

それぞれのチャクラに対応したレメディを取りながら学ぶので、
同時にそれぞれのテーマで自分が抱えてる問題(ブロック)についても
みていくことができます。

7、8ヶ月かかりますが、1通り終えると、以前とは違う自分になってると思います。

ご興味のある方は、上記のプログラム名をクリックしてみてください〜

あなたの直感を遮(さえぎ)るもの

先日、講座をやったのですが、久しぶりに複数の方と対面でお会いするので、着ていく服についてチラリと前日に考察しました。

(”チラリ”というのは、私は各シーズンに2, 3コーデと決めてるので選ぶの簡単)

最初にパッと思い浮かんだのは、今年さんざん着回してるノースリーブの夏バージョンの服で、よし、それにしよと思いました。

とはいえ、かなり涼しくなってきたので、明日の朝に気温を見て、もし涼しそうなら秋バージョンもありだなとも思いました。

さて、当日の朝、その日は31度まで気温があがるという天気予報でした。

だったら、最初に浮かんだ通り、夏バージョンだよね、と思ったものの…….

いやいや、待てよ、もう9月だよ、9月といえば秋を感じさせる季節、少し早くても秋バージョンの方がふさわしくないかな?!と自問が起こりました。

そうだよ、参加者さんたちは秋の装いで来てるかもしれないのに、ノースリーブで夏バリバリの格好というのはどうなのさ?!

季節感ないって思われるかもしれないよ…

と、こんな思考が湧いてきて、そうかもな、と秋バージョンの服を準備しようかと思い始めました。

そこで、ん?!と気がついて、その場でほんの1分ほど内省してみました。

夏バージョンを推してるのは、最初にパッと思い浮かんだその感覚です。

秋バージョンを推してるものって何だろう?と思考を点検してみると、

その思考の声は、

季節を考えたらフツーはこうでしょ、というどこで仕込んだか不明の判断、

参加者さんたちの(勝手にこちらが想像した)格好に合わせておいたほうがいいでしょうという調和を求める謎の誘導、

こう思われるかもしれないよ、という不安を煽(あお)る根拠のないまさに妄想、

でした笑。

ああ、危なかった、自分の直感を遮(さえぎ)るところでした汗。

ということで、スパッと夏バージョンの服を着て、車を講座会場に飛ばしました(実際は飛ばしてません…笑)。

この服選びの話を軽く講座の中で披露したら、参加者さんの中にも、やはり服選びに迷い、服をいったん秋バージョンに着替えてから、夏バージョンに戻したという方が2名いて、シンクロしてました。

”直感”という言葉の定義はいろいろあると思いますが、

心と直接つながって感じることを ”直感” と定義すると、

直感を大事にしていくというのが、自分の深いところとつながっていく生き方になると思います。

自分の深いところとつながりたいとか、本当の自分を生きたい、こんなことを望む人がどんどん増えてきてるように感じますが、

そうなるには、自分の中におきる直感に従った道を選択していくことだと思います。

上記の私の中に起きたように、

いやいや、違うでしょと直感をとどまらせて、他の道に方向転換させているのは、

社会の通念だったり、いわゆる常識と呼ばれてるものだったり、人の目だったりします。

そっちの声を聞いて、そちらの道にガイドされていけば、いわゆるそういう生き方になります。

なんとなく社会に適用してるようにみえる人、

常識的に生きてるようにみえる人、

人の判断にまかせて生きてるような人、

そちらが良いなら、それもアリ(選択は自由だから)。

でも、本当の自分を生きたいなら、自分の直感がガイドする道を歩んでいくことを意識するとよいと思います。

ちなみに、直感に従うというのと欲望に従うのは、違うことなのでご注意を。

欲望というのは(あくまで私の考えです)、

外側からの情報に刺激されて、外側からの刺激で「欲しい」と思うことです。

例えば、雑誌やYoutubeみてたら、美味しそうに食べてる映像や、素敵な盛り付けがでてきて、うわー見てたら食べたくなった、と本当にそういうものを食べたくなってくる。

これは本能として持ってる食欲を外側からの視覚情報などで刺激されて湧き上がってきたもので、直感ではなくて欲望だと私はカテゴリーしてます。

エロい画像や映像をみかけたら、モンモンとしてくる笑。
これも直感ではなくて、外側からの情報で、本能として持ってる性欲を刺激されておきた現象で欲望といえると思います。

直感は、外からの刺激で動かされたものではなく、内側から自然と起こってきた衝動です。

紛らわしいのは、たとえば、雑誌やオンラインショップをみていて欲しくなった商品であっても、

それが心の深いところとつながって欲しいと直感的に思ったものか、
情報からの刺激で欲しいと思わされているのか、これの見極めです。

直感で欲しいと思うものは、いわゆる「ピンと来た」、この言葉に表されると思います。

ピン!というのは、深いところとつながった目安になると思います。

パッと浮かんだとか、いわゆる深いところと電気回路がつながったような感覚があると思います。

外側からの刺激で欲しくなるものは、ピンとはこなくて、流されていくような受動的な感じではないかと思います。

いわゆるマルチ商法や上手なセールスで、巧みな商品説明に流されて買ってしまうようなときは、これが起きてるのではと私は思います。

ということで、なにかに迷うとき、推してるのと反対してる声の正体、それを見極めて、自分が望む道のガイドの方に従うとよいと思います。

自分の中のきらめくスパークを大事にしていくってことですかね。

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直感を選択していきたいけれど、直感を選ぶことにどうしても抵抗がある場合、

直感を遮るエネルギーブロックがかかってると思います。

そのブロックを外すお手伝いができるかもしれません。

ピン!と来た方はHPの方をご覧ください〜:https://arnicahomeo.com/

ぶれないために開発する能力

昨夜、とても変わった非現実な夢をみていたら、ミャウ〜と鳴くのが聞こえ(繁殖時期になると時々やって来るオスのかわいいノラ猫)、

枕元のipodをつけると「4:4 4」でした。

2日前も、ぼんやりと目がさめていって(なにか思考していた)、今、何時だろう?と

ipodつけたら「4:4 4」でした。

早く起こされすぎですが笑、これは、もう疑いようのないサインだなと受け取りました。

そんなわけで、今朝も4:44に起きて、瞑想をしました。

すると、ここ最近メールのやり取りをした4者の方にお伝えするとよいだろうなと思う(そこも4!笑)インスピレーションが降りてきたので、記事にします。

・なにかを選択するときに迷ってしまい、自分一人で決めきれない

・とりあえず決めたのだけど、不確かでずっと落ち着かない

・なにか事象が起きると、解釈を他人に委ねる、そしてそれが正解だと安堵する
(判断するときに誰かを頼る)

このようなとき、

その部門の情報を調べたり、比較検討したり、経験のある人のアドバイスを参考にすることは基本的に有効だし、それも必要だと思います。

とはいえ、上記のようなことが度々起きているなら、

気がつくとよいのは、現実的な思考レベルを超えた能力を使っていくことです。

それは何かというと

サードアイに関連した能力です。

サードアイというのは第3の目ですが、それと関わる能力は、

一般に知られてる有名な「透視力」だけでなく、

直感力、洞察力、判断力、集中力や記憶力なども含みます。

いわゆる自分が何かを行っていくときに総合的に「司令」を下す能力ということができます。

上記のような傾向がある方というのは、

どれが質が良いか、無駄がないか、どちらが得か、失敗しないのはどれか、どれなら実行可能か、

というような物質レベルで比較検討し思考することはできています。

不足しているのは、

直感力、洞察力といった感性を使う能力です。

簡単にいうと、「感じる能力」です。

思考を超えた力、みえないなにか(エネルギー)を感じる力です。

例えば、ネットでとても素敵そうな商品をみつけた。

とても素晴らしい効用が、数々、謳(うた)われ、レビューも褒め言葉であふれてる。

パッケージも素敵なデザインで綺麗な色の仕上がり。これが入手できたら、私にとって有益ではないか…..

ここまでは思考の世界、物質レベルでの判断力を使っています。

ここから使ってほしいのは、サードアイの能力です。

商品をみたときに受けた感じや、
そのサイトの運営者/販売者、商品開発者の写真や、開発の意図などに目を通して、自分が「何を感じるか」、その感じる力を使ってみてください。

その過程で、ちょっとでも違和感を「感じるな」ら、それをスルーしないで大事にしてほしいです。

違和感というのは、自分の波動と共鳴しない波動を教えてくれてるからです。

この販売者のページをみると「なんだか心地が悪い」とか「ちょっとざわっとした」「なんか変」「ん?って感じた」とか、そういう抽象的な感覚を大事にしてみてください。

サードアイの能力というのは、皆、誰しも持っているのだけど、あまり使わない時代を過ごしてきて開発されていないだけなので、これからはそれをどんどん使っていき、開発していくのをオススメしたいです。

なぜなら、サードアイの能力で選択したものは、思考で選択したものと違って、ぶれることがないからです。

それは自分の波動と共鳴した、自分の真実だからです。

検討比較や有利不利、得か損かの範疇を超えているので、何を言われても、それが自分にとっての正解になるからです。

ですので、この能力を開発していくと、ぶれなくなっていきます。

内面の不確かさがどんどん減っていき、安定した自分になっていきます。

自分の感覚が自分の強力な味方になっていくので、他者の判断はそんなに必要なくなっていきます。

今朝、4:44に起きたことも、

たまたま猫に起こされただけでしょ、偶然だよ〜、

もう1回寝たら、と思考力だけの自分はいうでしょう。

でも、私は、この数字をみて、何かを感じたのです。

とても意味のある何か、それを大事に受け取りました。

思考力だけで生きていたとき、私も不確かでした。

でも感じる力を大事に開発してきたら、不確かさが減っていきました。

かといって思考力も大事なので、思考力と感じる力のタグを組むのが最強な気がします。

ちなみに、感じる力や思考力を使っても、迷ったり、判断できないなというときも、あります。

そのときは、タイミングが絡んでるんだな、と、今のところ、受け取っています(つまり、時がくるまでほおっておく、たくさんほおってるものアリ笑)。

感じる能力の開発には、テキストも講座代金も不要、講師も不要、即、始められます。

親が教えてあげられること

子供の頃に、自分の親から具体的に教えてもらったことで、

親からのその教えが自分の人生でためになった、とか、

自分の人生で活かせてるもの、ありますか?

色々な方に幼少期からの話を聞いてきた私の感想でいうと、

この問いに、YESと答えられる人は、かなり少数派ではないでしょうか。

(多くの人は、今も自分で持て余してる親からの教え、例えば”人に迷惑をかけるな”みたいな方を記憶しています)

自分が親の立場で見回しても、
自分の子供に私が具体的に教えたことで、それが生きてると思えるもの、
ん〜あまり、見当たりません笑。

例えば、お片付け…. 

息子がまだ幼くて親のいうことを素直に受け入れてくれるときに、お片付けの仕方を教えて、そのときはその通りにやっていたようにみえたけど、いざ小学校に入ってみたら、全くできてない、片付けのコツを理解していない、すべてごっちゃに置いてあった汗。

それは、今年18歳になる今も、彼の机やカバンの状態をみる限り、進化していないように思います(彼なりの片付け分類にはなってるようですが)。

これはなぜかというと、私自身がそうだからです笑。

私は片付けの分類分けするのは好きなのですが、全てをすっきり片付けしてないひとなのです汗。

育児の先生たちが言われてると思いますが、

読書をする子になってほしいなら、

本を読みなさいと、直接、子供に言うよりも、

親自身が本を読んでる姿をみせなさい、ということと同じだと思います。

親と子は、子供が巣立つまで、長い時間、同じ空間で過ごします。

その長い時間に、

同じ空間でみてきた親の姿、言動&行動、

親の雰囲気、

親の感情やコミュニケーション表現は、

情景や雰囲気を伴い、リピートされるものなので、

言葉で指示される文章よりも、

子供にとっては自分の中に取り込みやすいのだと思います。

ということで、

こどもたちが人生で親から学んでいくのは、親からの言葉での教えより、

圧倒的に親の暮らし方、生き方、いわゆる ”生き様” の方にあると私は思っています。

子供が親になったとき、
自分が親にされていやだったことは自分の子供にはしないように、

親にされてよかったことはしてあげようと思うだろうし、

親にこれを教えてほしかったなという体験をした場合は、
自分の子供には、それを伝えてあげたいと思うでしょうが、

(この記事を書こうと思ったのは、まさに、この件についてメールのやり取りをしたから)

教えを効果的に浸透させるには、親であるあなた自身が、

その姿をみせているか(つまり、自分はそれを実践してみせてあげられているのか)
確認してみるとよいかもしれません。

わたしみたいに、きちんと片付けしていないのに、片付けなさい!は、

まるで効果がないし笑、

我が家は息子に自分の考えや意見ははっきりと言いなさいというようなことは教えたことはないけれど、

ご飯時などに、私とダンナさんで、こういうことがあってこう思うんだよね、と自分たちの意見をフツーに交換していたら、いつのまにか息子もそれに加わるようになっていたとか、

学んでほしいことは、そのように実践してる姿をみせるほうが、効果があると思います。

簡単にいうと、子供に親がお手本とか成功例を示す、ということになるかもですが、

親の側からみるならば、

自分はあまりできてないことを、子供にできるようになりなさい、は

自分の夢を娘にたくす昭和な?ステージママと同じようなことをしていないかと、ちょっと客観視するとよいかもしれません。

これは、こどものためになるから、といいながら、

自分ができないことを子供に実現させようとしていないか
(自分が片付けがイマイチなので、こどもにはできるようになってほしいと思ったわたしのように汗)、

それは、本当は「自分ができるようになりたいこと」「自分が成し遂げたいこと」ではないか、自問してみるといいかもです。

もし、そうであるなら、まずは親であるあなたがそれに取り組めば、子供もそれができるようになっていく可能性大だと思います。

最後に….. 親と子供は、当然のことながら、同一人物ではありません。

私がもった問題(例えば、片付け)が、子供にとっても克服したい問題であるとは限りません。

子供は子供でなにかテーマをもって、この世にいます。

ですので、親であるあなたがAの問題で苦しんだから、子供もAの問題で苦しむとは限りません。

あなたが子供に教えようと頑張ってること、それは「誰のための」レッスンなのか、

そこを見極めると、

自分の子供がこれができないと悩んだり、苦しんだりすることは、減るのではないかなと思います。

夏は「海」、「南」という私の感覚は、母方の祖母が島に住んでいて夏休みにいつも行っていたからだと思います。
私の息子はどちらかというと「北」に惹かれてるなと思います、どうやらそういう磁場が備わってるようです。

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エネルギー療法をやっています。
体の症状や、心の悩み、それを起こしてるあなたの意識やエネルギー部分に働きかけます。

ご興味のある方はHPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/
8月は、通常、ヒマです笑

文字通りのアンチエイジング

私は毎晩、瞑想しているのですが、最近は時間があれば朝にもするようになりました。

先日、朝の瞑想から覚めたときに

「瞑想状態って 冬眠状態と同じだ」

と気がつきました。

早速、ネットで冬眠状態について調べてみると、

冬眠状態の動物たちは、

低体温や低心拍状態になっていて、それは”代謝を低下させてる”状態だ
ということが書いてありました。

ちなみに冬眠状態については、様々な分野で研究されてるらしく、

例えば、寝たきりの方々などは体を動かせないので筋萎縮が起こり、どんどん弱っていってしまうのですが、

冬眠状態の動物には筋萎縮が起こらず、それは代謝を低下させてる状態だからで、この冬眠のメカニズムを介護や医療の方面に使えないかというようなことが考えられているようです。

瞑想とリンクしてる冬眠の情報は探せませんでしたが、

その数日後に入手して読んだ瞑想の本に(導かれた…)、

瞑想してる状態では、人によるが代謝が16-20%くらい落ちている(医療機関で瞑想中の血液中の酸素濃度を計測した)と書いてありました。

瞑想状態では代謝の低下状態になってるんだ〜、だから冬眠してるようなもんだよね、と勝手に一人で納得しました笑。

私が瞑想を始めるきっかけをつくってくれた方が、

「瞑想してるとどんどん若返るよ〜」と言っていたのは、そういうことだったのね、

と、やっとここで腑に落ちました(その方は上記のような根拠はなく、ご自身の感覚で言っていたと思います)。

ということで私の理解で言うと、瞑想してると

「若返る」のではなく、

「老いていく速度が、瞑想してる時間分(代謝が落ちるので)少しゆっくりになる」です。

いわゆる抗老化タイム、つまり文字通りのアンチエイジングになる、のだと言えると思います。

これまで瞑想いいですよ、とオススメしても、なかなか実践する人はいませんでしたが、
アンチエイジングと聞けば、きっとやる気になるのではなかろうか……!?(今朝、この話を聞いた二人がすぐにやると言ってました笑)

洞窟にこもり瞑想してた僧の過去世(男性だった)があるといわれたことがあります……今世はせまいとこ嫌いだけど(笑)