自分をちゃんとみてあげる

何年も前にお会いした男性の話です。

その男性は当時30代くらいで、

「お、アーティストか!?」と思わせる印象の人でした。

はっきりした色の服、自分の体型とマッチしてる独特の着こなし、

ヘアスタイルもキマっていて、どこにいても目をひくだろうオリジナリティが外観にも出ていました。

聞けば、少し前までアメリカで映像関係のクリエイティブな仕事を実際にしていた人でした。

この男性の悩みは、

「(帰国してから仕事がみつからず)アーティストになりたいけど、なれない」

というようなことでした…….(!)

見た目がアーティスト、

経歴もアーティストです。

自分のオリジナリティ(芸術性)をすでに外側に現していて、

社会の中でもそれを具現化していた人です。

この男性に足りなかったのは、

「自分で自分をアーティストと認める」ことだけでした。

ということで彼の悩みは、彼が自分をアーティストと認めることにより、あっという間に解決したわけですが、

この話は、見方によっては、笑い話のようにもとれます。

全て揃っていて、足りなかったのは、どこに探しにいく必要もない、何の努力も不要な自分自身への評価だけだったのですから。

かといって、この話を笑い話として笑い飛ばせないのは、

この彼のような状態で苦しんでいる人はわりと多いし、

自分自身も過去にこの状態だったことがあるからです(苦笑)。

あなた、すごいね〜とか、

本当によくやってるよ、とか、

いろんな評価の言葉を周りからもらっても、

いやいや、まだまだ、と受け取らなかったり、

ありがとうといいながら、全然それを本気で自分の中で受け入れてなかったりしていることありませんか。

人のことは簡単に褒めてあげたり、評価してあげるのに、いざ、自分のことになったら、

理想が高くて、自分は全然だめだとか、できてないと厳しい評価を下していませんか。

そのような自分で自分を認められない苦しさをもっていたら、おすすめしたいのは、

”鏡” をもっともっと見ることです。

この機会に大きめの鏡を1枚買い足すのもいいかもしれません。

要は、自分をもっとみてあげるためです。

鏡を見ない日はないかもしれませんが、さっと見終わらないで、ちゃんと&じっと自分をみてあげる。

目をきちんとみつめてあげたり、自分といる時間を(鏡の中の自分をみる時間を)もっと多めにとってあげるといいと思います。

自分がどうやって生活したり、行動してるかを動画にとってみるのもいいと思います。

自分に評価が辛い人は、人のことはみてあげてるけど、自分のことをみてあげてない人が多いように私は思っています。

だから、自分をもっとみてあげると、だんだん、自分がしてる言動にもちゃんと目を向けられるようになっていきます。

そしたら、自分ってわりとちゃんとやってるなとか、等身大の自分がみえてきて、自分への評価を自分でできるようになっていきます。

鏡をちゃんとみる習慣というのは、そのうち、自分を客観視する習慣に移行していきます。

そうすると、他人を評価してあげるように、自分のことも評価できるようになったり、
衝動的に感情に圧倒されてしまう自分なども客観視できるようになってきて、
自分ととてもうまくつきあっていけるようにもなっていきます。

実のところ、本当のわたしたちというのは、1つの大きな意識で(神ともいう)、

その意識が肉体をもったヒトの私たちを通して体験をしてるので、

「鏡で自分をみる」というやり方は、1つの大きな意識が、肉体をもってる私たちを高い次元からみてあげてるのとリンクする見方ではないのかなと私は解釈しています。

Youtube 見るより、自分をもっとたくさん見てあげよう(笑)!

↑ 記事と全く関係ないのですが、最近はまってるオートミールのクッキー。
バナナをつぶしてオートミールとナッツやドライフルーツと混ぜるだけ。
砂糖も小麦粉も不要で、分量も計らないでパパッとつくれるから楽です。

↑ 丸められるくらいの固さにして(柔らかくてOK)、180度で30分焼きます。
トレイに少しオイルを塗っておくと、くっつきません。
オートミールでやってるけど、今度、ハトムギでもやってみようかと思ってます。

思考は、ツール

私は瞑想をするとき、あぐらで座って、目を閉じて、何もしない状態になろうとします。

何もしないというのは、思考しないということですが、

私が「思考しない」ように意図してるのに、

思考というのは勝手に湧いてきます。

まるで自然発生するかのように、頭の中に声や映像として湧いてきて、

その思考を川のようにさらさらと流せるときもありますが、

湧いてきた思考が別の思考につながって思考の長い連鎖になっていくこともあります。

(ちなみに、その思考の連鎖をただ眺めてほおっておくと、いつのまにか思考はなくなって瞑想状態になります、また瞑想状態にならないときもあります)

一方で、私が例えば新しい講座をやろうかと思いついたとき、

その講座内容を吟味するとき、

私はよりよい内容を考えよう、アイデアを出そう、つまり具体的に思考しようと自分で意図してるわけですが、このようなときは、

私は自分が意図した通りにちゃんと「思考しています」。

この2つの思考を比較すると、

わたしが意図していないのに自然に湧いてくる思考 と

意図して行う思考 

の2種があることがわかります。

エネルギー療法をやってるので、その視点でこれを分析するならば、

前者の意図しないのに湧いてくる思考は、

わたしたちのエネルギーフィールドに存在するエネルギー(過去に体験したり、思考したエネルギー)を単にキャッチしてるのだと思います。

後者は、何かを創造していくために、思考というツールを使っている状態だと認識しています。

どんな人も十分に体験してると思いますが、

自然に湧いてくる思考というのは、私たちの精神にとって好ましくないものの方が多いです(苦笑)。

勝手に湧いてくる思考というのは、

過去にしでかした後悔だったり(あのとき、あれに気づいてこうしてれば良かったんだよ、みたいな)、

消化していない怒りや悲しみを追体験してたり(あの人にあの時、こう言われて、なんで言い返せなかったんだ、くそーとか)、

気にしてることや漠然とした恐れだったり(今度のイベント無事に問題なくできるのか?とか、親の介護のことそろそろ考えないと、とか、地球環境はこのままどうなってしまうのかな?みたいな)

他には、自分にとってどうでもいいことなのに、なぜか印象に残ってるシーンだったり(あそこでAさんにこう言われたときのBさんの変な顔とか、昨日読んだ漫画のどうでもいい1シーンやYoutubeでみたある映像や音楽がただ蘇ったり)、

いわゆるそれらを再度思考したところで、幸せになるものではないものが大半で、簡単にいうとネガティブな思考が多いです。

ある具体的な悩みを現在進行形で持ってる人の場合は、

その悩みが起きたシーンから対象相手のそのときの言動や、相手への批判など映像や思考やそれに伴う感情の連鎖が次々と起きてると思います。

何を言いたいかというと、

このように自分が意図しないのに、勝手に湧いてくる思考というのは、

「自分が起こしたものではない」と知るのがよいと思います。

セルフサービスのカフェに座っていたら、向こうからジュースのコップを運んできた人が何故かつまづいて、自分の目の前でジュースをぶちまけたとします。

それをみて、あ〜私があれを起こしたんだ、とは思わないですよね。

それが、なぜ起きたかはわからないけど自然発生的にそれは起きたのです。

だから、自然に湧いてきた思考も、自分が意図して起こしたわけではないので、それらの思考に囚われる必要はなくて、またネガティブな思考が起きてる自分も責めたりしなくていいのです。

思考というのは、上記したように、意図して使うときは、私たちがよりよく人生を送れるように使えるツールです。

よりよくするにはどうしたらといいだろうと意図したときに思考を使うだけでよくて、

湧いてくる思考の方は引きずりこまれないでスルーしておけばいいのです。

もちろん、湧いてくる思考が自分にとって苦しかったり、具体的な悩みがあって苦しい場合は、

この湧いてくるネガティブな思考から解放されるにはどうしたらいいだろうと、

敢えて意図してツールとして思考すればいいと思います(解決法を探るのに思考を使う)。

といっても、勝手に湧いてくる思考をスルーしていくのは実際にはなかなか難しいですが、

多くの時間、自分の頭の中を占領してる「意図してないのに勝手に湧いてくる思考」に
巻き込まれてる状態に気づく回数が増えていくと、

もっと目の前のことに集中できて、日々の心の調子はかなり軽くなるし、寝つきもよくなります。

と、これを記事にしてる私ですが、

昨晩、瞑想していたら、昨日ご近所さんにいただいた「たらの芽」を天ぷらにして食べたことが思考としてすぐに浮かんできて、

そしたら、20代の頃に働いていた会社の社長さんに都心のおしゃれなカウンターの料理屋さんに連れていってもらって、そこで新春の山菜のこごみだかたらの芽が出された記憶がつながって湧いてきて、それを私はあまりにも苦くて一口しか食べられなかったな、今は全く苦いと思わないのに、あのときあんなに苦く感じたのは何だったのか……、新春の山菜でデトックスするのを私の体が拒んでいたのかなとか、思考の連鎖が始まり、そういえば、あの社長さんはある社員の女性とそういう関係だとうわさされてて、他の女性社員たちがその女性社員にすごい不満をもらしていたなとか……. はっと気がつくと、どんどん湧いてきた思い返したところで本当に全くどうでもいい思考に溺れていたのでした。

はい、それで、この思考のことを今朝、記事にしてみました(笑)。

↑ たらの芽の写真は、撮り忘れた… ホームセンターで買ってみたチューリップがいい感じに咲きました。 

あなたはあなたを愛しています

あなたには、この人みたいになりたいなと憧れたり、目指してる人、いますか?

もし「その人になれますよ」と神様が願いを叶えてくれるとしたら、

本当にその人になりますか?

その人の憧れてる部分だけじゃなくて、顔から体、体質、性質、遺伝子、過去の記憶まで、

そっくりそのまま、自分がその人になるのだとしたら、

はい、わたしはその人になりたいです!と望む人は、ほぼいないのではないかと思います。

なぜなら、あなたは、

「あなた」のままで在りながら、他人のいいところだけを欲しいと思ってるからです。

別の言い方をすると、

あなたは、実は「あなた」と思ってる自分のことを好きなのだと思います。

「あなた」ではない、他の人として生きていくことは望んでいないのです。

自分で自分をあまり評価していなかったり、嫌いなところも幾つもあるかもしれないけれど、

あなたは、あなたを愛していて、「あなたとして」生きていきたいのです。

「あなた」で在りながら、

「あなた」をできたらもっと良い存在にしていきたい、

そして良くなった「あなた」を受け入れて好きになりたいのだと思います。

つまり、「あなた」をもっと愛していきたいと願っているのです。


良くなった「あなた」を好きになるには、

たくさん「あなた」を良くしていかないといけないのですが、

究極の目的が「あなたをもっと好きになること」「あなたをもっと愛していきたい」のだとしたら、

「あなた」を好きになることを、いますぐ始めてみるのは、どうでしょうか。

ということで、簡単にできるミラーワークを紹介したいと思います。

これは、偉大なアメリカ人ヒーラー Louise Hay (ルイーズ・ヘイ)が教えてくれたワークですが、以下、少しアレンジしています。

毎日、鏡をみて、そこに映る自分を好きだ、と言っていくのです。

あなたは、日常で何気なく、こどもや家族、パートナーや恋人、友達や仲間や同僚を、

褒めたり、励ましたり、してると思います。

よく頑張ったね、よくやったね、とか

よくXXXができるよね、尊敬するわ、とか、

うわー、それ素敵だね、とか

かっこいいねとか、

わたし、あなたのこと好きだよ、とか、

それでも、ママはあなたの味方だからね、みたいな

そんな相手を肯定する言葉をフツーにかけてますよね。

肯定するというのは、その人のよい面をあげて、それが好きだと言ってるわけですが、

ところで、自分には、そんな言葉を日常的にかけてあげてますか?

ミラーワークでは、

あなたが「あなた」に対面して、そういう言葉をかけてあげるのです。

朝、夜など鏡の前にたって、自分の目をみて、

自分を好きだという言葉、自分を肯定する言葉をかけていきます。

声を実際にだせない環境の人は、心の声でOKです。

このワークをやってると、すぐに日常の自分の言動に変化がみられます。

その変化はとても面白くて、それにとても心地よくなります。

あなたは、他の誰にもなりたくないくらい実はあなたを愛してるのだから、それを自分で自分に表現していくといいと思います。

↑ 先日、桜舞い散る中、テニスしました(このコート初でした)。
ミラーワーク:「テニス、上手くなってる!素敵!」
「たくさんミスしたけれど、それでもあなたが好きだよ!」

ーーーーーーーー

ある人と自分をそっくり入れ替えてしまいたい、

自分を失くしてしまっても平気だと思った方、

とても大きなエネルギーブロックがかかってると思います。

一体、あなたに何が起きて、あなたはあなたを愛せないのか、

レメディというエネルギー物質を使いながら、一緒にひもといていくことができます。

ご興味のある方は、コンサルテーションを受けてみませんか。

詳しくはHPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/

役を降りる

仕事柄、いろんな「役」を演じてる人は多いと思います。

高級デパートの店員さんや飛行機の客室乗務員さんは、

マニュアル通りの言葉遣いと声色と笑顔で接してくれますが、私たちはその言動をその仕事柄当たり前のように受け取っています。

行政機関にいくと、それなりの市民に平等なきちんとした態度を要求してしまうし、金融機関にいけば、固いかしこまった態度をとってくれるのが当然なようにどこかで思っています。

(だから、そういう期待してる「役」を演じていない人がたまにいると、サービスが悪いと怒ってしまうこともあるのだと思います)

いずれにしろ、そういう仕事場での態度を求められてる人たちでも、仕事が終われば、その「役」を降りて「その人」に戻っていってると思います。

もしプライベートでも、社会的な「役」を演じ続けてる人がいたら、一緒にいる人や家族は心地が悪いと思います。

なぜなら、素の「その人」自身と触れ合えなくて、つながってる感覚を持てないからです。

仕事の顔というのは、社会でいつのまにか当たり前のようにできあがってきた「役」ですが、
このような「役」は家庭内にも存在しています。

料理はきちんと家事もそつなくこなす世間でいわれる良いお母さんをいつのまにか演じていたり、

何かあったらお父さんだよね、みたいな頼れる典型的なお父さんを演じていたり、

末っ子キャラでドジな(?死語)皆をなごませる役をいつのまにか演じていたり、

長女で、なんでも自分一人でできて迷惑をかけないというお姉さん役を演じていたり、

両親に不穏な空気がおきると、それを吹き飛ばすためにふざけて笑わせるお笑いの役を演じていたり、

堅苦しい家庭に新しい風を起こそうと、なにかハプニングを起こす役をいつのまにか演じていたり….etc.、

家庭によって様々な役が存在しますが、その役がいつのまにか「自分」と同化して、役を降りないままの人も多いように思います。

このような家庭内での役は仕事とは違って、

プライベートの中で割り当てられた役なので、

自分がそんな役を演じてるなんて、ましてや、

その家庭から巣立って独立した今も演じ続けてるなんて、気づかないのだと思います。

私も長いこと、演じていました。

私は長女で、父は横暴な感じで、母は父に仕(つか)えるタイプの人でした。
自分を出さずになんでも従って下にいて苦しそうな母をみて(そうみえるように母も演じていたと思います)、

私には兄がいましたが、幼少期は大人しいタイプだったので、私が家族の中では父に文句をいう、いわゆるたてつく役でした。

ブレークスルーを起こす役、被害者の代弁をするような役を演じていたのです。

私には妹もいますが、兄が悪者で妹を守るみたいなこともしていた記憶もあるので、そういう役を引き受けていたのだと思います。

そしてその役は大きくなって、実家をでて、仕事をしているときにも発揮されていました。

自分の置かれた場で、皆の不満を感じ取ったり聞き取ると、それを上にかけあう役をしていたのです。何も恐れずズバズバ言う怖い女〜(笑)

あるとき、私は自分のその「役」に気がつきました。

なぜなら、そういう役をした後に、私はいつもとても苦しいなと感じていて、

この苦しさは何だろう?とみつめていたら、

実は私自身は、皆のようにその不満自体をそこまで感じてもないのに、まるで自分のことのように権力側と対峙していたのだとわかったのでした。

しかも不満に思ってる本人たちが本当にその現状を訴えて変えようという意志があるかも定かではないのに、先走って代わりに行動を起こしていたのかもともわかったのでした(人助けでも何でもない、笑)。

ですので、その「役」から降りることにしました。

そしたら、その役を降りてすぐに、当時、親友だった子に、

「XXちゃん(←彼女が私を呼んでた呼び名)、変わったね、XXちゃんは戦わなくなったよね」と言われました。

親友だった、と書いたのは、その子とは、その後、縁がきれてしまったからです。

その親友だった子は、「戦う役」を演じてた子でした。

彼女は、いわゆるお金持ちのお嬢さまだったのですが、実際の家庭の中では、事業がうまくいかないとお父さんがお母さんにDVする家でした。

彼女は次女でしたが、暴力をふるうお父さんに「やめろー!」と果敢に立ち向かっていって、お母さんを体を張って救う役を演じていました。

私と親友になったのは、彼女からみると、私も戦う方の役を演じていて、それで私を同志のように頼もしく思っていたからなのでした。

だから上記の「戦わなくなったね」という言葉を彼女が私にかけたのは、

素のあなたに戻ったね、という優しい歓迎の言葉ではなく、戦わなくなったあなたには失望したよ、というニュアンスでした。

当時の私は、家庭内での「役」を演じ続けてるというカラクリについて彼女にうまく説明することはできませんでした。

ですので、まだ戦いつづけたい彼女と、素にもどった私とでは、波動が異なってしまって、その後、縁がきれてしまったのです。

当時、しょっちゅう飲みにいって一緒に大笑いしてた彼女、今、どうしてるかな〜……

ということで、長くなりましたが、

あなたの日常での行動、言動で、もし事後に心地よくないなと感じてるなら、

それは育った家庭内で、割り振られた・もしくは自分で選んだ「役」ではないか、

その役を今も日々、演じ続けていないか、ちょっとみつめなおしてみてはいかがでしょうか。

不要なパターンも、役もそうですけれど、

そうやって要らないものを1つづつ、剥いでいくと、自分がどんどん軽くなっていきます。

↑ 台所の窓から撮ったジョウビタキ。春になり、綺麗なさえずりをよく耳にします。かわいい。

ーーーーーー

自分の演じてる「役」について気がついたけれど、どうやって降りたらいいのか、わからない方。

エネルギー療法でそのお手伝いができると思います。

詳しいことはHPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/

マインドフルネスの奥義

去年あたりから、瞑想の時間だけでなく、日中の生活の中でも瞑想状態を持つ、というの試しています。

これは、エックハルト・トールという方が教えてくれてるやり方で、

思考にまみれてる生活の中で、意識的に思考をストップさせる時を持つという生き方です。

(エックハルト・トールは、ドイツ生まれ、カナダ在住の ”悟った人”)

別の言い方をすると、日常の生活の中でなるべくマインドフルネスの状態でいる、ということにもなります。

自分の思考を客観的に観察してもよくわかるのですが、

人というのは、いつもなにかについて思考していて、その中身は、

ー今思い出してもどうしようもない過去のことを回想していたり(あのときXXさんにこう言われたとか、同時にそのときの感情も味わったり)、

ー未来のこと(例えば明日の用事はなんだっけとか、夕飯は何する?とか)をあれこれ想定していたり、

ー目の前の出来事に自分語りのナレーション(あのレジの人は仕事が遅いな、とかのジャッジ)をいれたりしています。

マインドフルネスでいるはずなのに、気がつけば、そんな感じで、いつのまにか思考にのっとられて、目の前のこととは全然違うことを考えていたりするものです。

以前は瞑想してる時間だけで満ち足りていたのですが、思考から離れることが日中でも実践できるのだということがわかったので、そちらにも取り組んでいます。

そしたら、先月、それは車の運転中に起こったのですが、

自分にとっては大きな気づきを得たので、記事にしたいなと思います。

生活しながら瞑想状態(思考をストップ)=マインドフルネスでいるということは、

本当の意味では何をしているのか、が、ふっとわかったのでした。

箇条書きにしてみます:

マインドフルネスでいるということは、

いま、目の前で自分に起きてる体験に、関係のない思考をはさまずに
真剣に/誠心誠意、取り組むということ

真剣/誠心誠意、取り組むというのは、その目の前の事象に自分の注意を100%向けるということ

自分の注意を100% 向けるということは、
その事象に、自分の「心を込める」「心をくだく(真心をこめる)」ということ

心を込める とは 何をしてるかというと、

自分のハートをその事象に向けて完全にオープンにしてるということ

つまり、その事象に ハートを開いて愛を向けてる、
愛というエネルギーを放射してる

ということなんだなと、気づいたのでした。

別の言葉でいうと、

その体験に ”光” をあててる、ということでもあるなとわかりました(1人で勝手に深く納得、笑)。

私が、愛しい猫たちを心を込めて撫でるとき、

私が、テニスのボールを100%真剣に追いかけてるとき、

私が、クライアントさんの話を全身傾けて聴くとき、

瞑想状態です、マインドフルネスです。

これらをしてるとき、心地いいのは、

ハートがオープンで、愛を放射してたからなんだ〜、つまり源のエネルギーとつながっていたからなんだ、ととても深く腑に落ちました。

このマインドフルネスの奥義がわかると、ただ単に思考をストップするのが目的ではなく、

生活のいろんなシーンで、この心地よさを実践していきたいという違う角度からの瞑想状態でいるためのモチベーションを持てるようになりました。

日常で、洗濯物をひろげていく行為に心をこめる、干すときにも心を込める、

鼻をかむときにも、使ったティッシュを捨てるときにも、お茶をのむときにも、髪の毛を洗うときにも、掃除をするときにも….etc.,

これをしはじめると、”雑”に物事をこなせなくなります。

早いペースではなくなり、自然とゆっくりになります。

バタバタ、ざわざわ、さっさ、パッパッとできないのです。

目の前の対象に心を込めると、優しい扱いになって、ペースが静かになります。

自分の大事なものを扱うときに、誰でもそっと触れますよね、
あんな感じで、自然と丁寧になるのです。

だから、その辺にぶつかったり、つまづいたり、物を落としたり、が減ります。

人とコミュニケーションしてるときもそうです。

特に家族には、100%で心から向き合うのは真剣な話題のときだけで、わりとテキトーに

これまで向き合ってたんだなと気づきました。

猫に心くだくように、家族にもそうしよう….(笑)。

といろんな瞬間の瞑想状態にトライしてますが、はっと気がつくと、すぐに思考が入っています。

思考の波にずーっと流されていた、という漂流時間の方が、正直完全に多いです。

マインドフルネス100とすると、できてるのは、100のうち10どころか、5とか6くらいじゃないか、いや3とか4かも、とも思います。

そのくらい、マインドフルネスでいることに慣れていないのだと思います。

でも、これ、やっていくとわかるのですが、本当に心地が良いのです。

100のうち、1でも2でも日中にマインドフルネスを味わいだしたら、もうやめられません。

なぜなら、その心の平穏さ、平和な感じを体験してる自分のほうが、本当の自分だったとわかってくるからです。

目の前の事象に、心を100%込める、愛を持って接する、とても心地よい訓練?なので、おすすめしたいです。

雪が降り積もった朝のあの全ての音が吸収されたしーんとした静かな感じ。自分の内側があんな感じになります。

ーーーーーーーーーー

マインドフルネスになりたいけど、どうしてもなれない。

それは、その平穏な状態を邪魔するノイズがあるからです。

そのノイズは、もういらない過去の出来事や感情、未来への不安だったりします。

ノイズキャンセルをエネルギー療法でお手伝いします。

ご興味のある方は、HPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/

challenge してますか

”Challenge” という言葉が降りてきたので、

自分がこれまでの人生でやってきた「チャレンジ」について、今朝、思い巡らせてみました。

ここで書くチャレンジの定義は、

「できるかできないか予想もつかない、むしろできるとはなかなか思えないけれど、

試してみた、思いきってやってみた」ことです。

私はこれまでの人生で、海外にも1人で無防備に住みにいったし、わりと色んなことをやってきた方だとは思うけれど、

上記のチャレンジの定義に当てはまることを思い返してみたら、実はあまりやったことがないということがわかりました。

海外に行ったときは、ただ行きたいという気持ちで動いていただけなので(怖さも何もなかったから思いきりも必要なかった)チャレンジとは呼べないし、

マイナーなカテゴリーに入るホメオパスという仕事を選んだときも、できるかわからないけどやってみようというチャレンジではなく、気がついたらいつのまにかなっていたというただ起きてくる流れに乗ったような出来事だったので、自分の中ではチャレンジではありませんでした。

えー!?ちょっと、まって!ということは、私は人生であまりチャレンジしていないってこと?!と我ながら気づいて、

やれるかやれないかわからないけど、敢えてやってきたことを念入りに調べてみたら、

3つほどでてきました(良かった…..笑)。

1つ目にでてきたのは、テニスの試合にでたことです(まだこれからもでるかもですが)。

小さなコミュニティで何年もテニスをやってきた私でしたが、
少し広い世界に歩みでて自分がどれくらいできるか検討がつかない、ものすごい低レベルかもしれない、大恥かくかもしれない、それでも自分を試してみようと思って(しかもこの年齢で、汗)テニスの試合にでてみたことは、自分の中ではとても大きなチャレンジでした。

思えば、試合くらい緊張することは、私の人生では少ないと思います → つまり、緊張しない、チャレンジしようとしない自分の一面にあらためて気がつきました、笑。

2つ目に思い浮かんだのは、ボイストレーニングを始めたことです。

私は歌を歌うのが下手で、いわゆるコンプレックスでした。
そのコンプレックスに取り組むのはわりとハードル高かったけど、とりあえずやってみようと始めたのは、私にとって正真正銘チャレンジと言えます(現在も継続中、毎回レッスンで緊張して汗かきます)。

こう書いてくると、チャレンジというのは、

できなくて恥をかくかもしれない、失敗して後悔するかもしれない、自分のプライドが傷つくかもしれない、

それでもそういうエゴの痛みをも引き受けて、覚悟してやってみるってことなのかなと思いました。

3つ目に思いついたのは、移住したことです。

東京から今の姫路市の山間部に住みにきたことは、古民家暮らしも初めてなら、いわゆる村の中に入り込むのも初めてのことだし、人間関係やら暮らしやら、どうなるか全くわからないけど、とりあえずやってみようと思った、これもチャレンジだなと思いました。

とはいえ、これは私個人でのチャレンジというより、家族としてのチャレンジだと思います。

ということで、私のこれまでの人生のチャレンジで思いついたのは、上記の3つでした。

このチャレンジの数から自分のことを分析すると、

私は、ある程度予想できることしか手を出さないタイプの人だなと言えます。

予想して失敗しそうだとか、うまくいかなそうなことには、やらないようにしてきた安全圏で生きようとしていた人なのかもしれません。

もちろん、これを別の角度から言い換えるなら、自分が世間でできることがちゃんとわかっていて見通すのがうまいとかいう言い方もできますが笑。

しかし、いっけん、人生がわりとうまくいってきたように思えるとしても、

それは自分の想定内でだけ、安全圏内でやってきたとも言えますね(苦笑)。

家で、学校で、社会で、

何かをするときに助言をされることが多いです:

安全第一に。

先々のために保険を考えといた方がいい。

リスクをいつも考えなさい。

見通しが立ってやろうとしているのか。

もちろん、これらの言葉は、シチュエーションによっては大事かもしれません。

でも、安全第一すぎて、自分が失敗しない、危うい目に合わないことが、人生を生きることではないですよね。

安全でチャレンジしない人生は、違う角度からみるならば、

フルに自分のポテンシャルを発揮する機会を自分に与えていないとも言えるかなと、自分の人生を振り返りながら、思いました。

ということで、チャレンジが私に残ってる1つの課題だろうなと、新春に思いました。

なんとなく感じたのは、チャレンジすることの数を増やすより、
チャレンジすることの規模自体を大きくするほうが私には大事そう……。

2023年、あなたはのチャレンジは、どうですか。

メール相談始めました

レメディやエッセンスは特に必要ではないけれど(身体症状等がない)、


日々起こる出来事についてちょっと相談したいとか、


日々自分の中に溜めていて吐き出すことができないことを話したいとか、

そういうお悩みに対応できそうなサービスを始めました。

①メール相談

メールでお悩み等の相談を受けます。

自分一人で色々考えるより、他人の視点が入ると、物事は違ってみえてきます。

解決につながるひらめきが起こるようなやりとりができればと考えています。

往復3回までのメールのやりとりになります。

詳しくは:こちらのページへ

②1時間カウンセリング

zoomを使った1時間ジャストのカウンセリングです。

自分の中で溜め込んでるものを外にだしてもらったり、

心の中の整理をお手伝いしたり、悩みに対する違う視点を提供できたらと考えています。

詳しくは:こちらのページへ

ーーーーーーー

HPからみる場合は、こちらのページ からどうぞ。

ある方とのメールのやり取りから、これらを始めることになりました。ビリヤードの球のようにキューがつかれて動きが始まったような印象です。ということは他の球(人)にも動きが伝わるんだろうな〜

色んなこと、楽しんでいい

今朝、瞑想しててふと降りてきた見方ですが、

何か1つのことだけに全てをかける

という生き方は、1つ前の時代で終わったのかもしれないと思いました。

確かに、このところのクライアントさんたちのお話を聞いていても、

例えばある方がビジネスに秀でた才能を持っていても、それだけに集中して人生を展開していこうとは思ってはいない、そういう傾向が全体的にみえます。

そのビジネスの才能は、ご両親から譲り受けているわけですが、幼少期の体験で、親がそれに集中するあまり、家族の生活が大事にされず、子供だったご自身が寂しい思いや不足感を味わったことにより、1つのことだけで燃え尽きる生き方を選びたくないという学びが、そうさせてるように思います。

自分個人の道だけでなく、家族やプライベートでも充実した人生を選んでいく、というのが今の時代の全体的な傾向としてあるように私は思います。

アイドルは落ち目になるまで結婚しないと思っていた時代が終わり、絶頂期に結婚し家族や子供たちとの生活も大事にした木村拓哉さんがそうであるように(これが一番わかりやすい先駆者の例だと浮かんだ笑)、

テニスのバーティ(豪州の女性プレーヤー)が世界ランキング1位のときに、しかも25歳の若さで早々に引退し、別のことを始めたいと会見したように、

今の&これからの時代は、なにか1つのことだけに人生を捧げる時代ではなく、色んなことを体験したり、自分だけが何かをやり尽くして自分だけが幸せで終わらず、周りの人との関係も調和させていく、そんな時代なのではないかと思いました。

これを精神世界の言葉でいうならば、今世に、複数のことを体験するような魂のプランを持ってきてる人が多い、といえるかもしれません(転生最後の方はそうなる)。

その視点で、自分のことをみると、私もエネルギー療法という仕事についてはライフワークという感覚をもっていて大事にしてるけれど、

同時にプライベートでやってるテニスも、やりたい気持ちがなかなか減らなくて、いつまで勝ち負けのゲームやっとんねん!と時々、自分を突っ込んだりしてたけど笑、これも、私が体験したいプランの1つなんだろうなと思いました。

また自分個人のしたいことだけでなく、家族での生活も同じくらい大事にしたい、という思いも持っています。

一言でいうと、どれも楽しみたい、ということになりますが、
この記事を書きながら、自分も含め、こういう時代なんだよな、と改めて思いました。

18歳になった私の息子も、メインで学びたい専門を既に決めてますが、同時に副業でやりたいこともすでにあり(すでに「副業」というカテゴリーに入れてる笑)、さらにもう1つお金を稼ぐためにチャレンジしたいと思ってることもあるそうです。

以前は、息子のそういう話を聞くと、
1つに絞れないの?!エネルギー分散するよ….とか、
でも、まあ、そのうち、何かに絞られるかも、とか、
いや、どこかでそれらが1つにつながるときが来るかもね、

みたいに思ってましたが、
今朝のインスピレーションで降りてきた見方でみると、
彼はすでにそういう時代の子なんだよな、とわかりました。

私たちの肉体を生かしてるエネルギーが体のまわりにあるのですが、
それらのエネルギーは7つのチャクラ (出入口みたいなもの)を通して流れていて、その7つに人生を通して取り組むテーマがそれぞれあります。

それらのテーマをクリアしていくと、心身のエネルギーバランスがよく、
現実の人生自体にもバランスがとれていくわけで、
つまりは、上記に書いたような、人生のいろんなカテゴリーでもバランスのとれた、自分の充実だけではなく、まわりの人も充実する幸せな人生になるのだと思います。

ということで、

何か1つだけにかけなくてもいい(かけるのもよし)、

これ、やりたいなとか、楽しいなと感じること、

その自分の感覚に素直に従って色んな体験をするのがよいと思います。

虹の7色は、7チャクラ の色を表しています。

ーーーーーーー

7つのチャクラのテーマを学んでみたい方に、

腸内細菌レメディプログラム

というのを提供しています。

それぞれのチャクラに対応したレメディを取りながら学ぶので、
同時にそれぞれのテーマで自分が抱えてる問題(ブロック)についても
みていくことができます。

7、8ヶ月かかりますが、1通り終えると、以前とは違う自分になってると思います。

ご興味のある方は、上記のプログラム名をクリックしてみてください〜

虫刺されの処置

夏でなく秋の今頃に、このネタで恐縮です…..笑。

今朝早く、外にでて空をみていたら、台風前で湿度が高いせいなのか、思いのほか、

蚊がおりまして、足と腕など5箇所も刺されました。

蚊に刺されたときに、痒みも最小限で、刺された跡も最小限で済むと私が思っている処置を書きます(今朝もこれで、痒み等あっという間に過ぎた)。

①刺された箇所に、石鹸をつけて洗い流す

 (蚊が刺すときに出すと言われてる痒みの元の ”蚊の唾液” を洗い流す)

②流した後に、刺された場所に 塩 を摺(す)り込む

 (きゅうりの塩揉みみたいに、塩を塗り込むと水分がでます、この塩に対する反応を利用して、皮膚の少し奥にはいってる蚊の唾液を、外に出します)

しばらくしたら、塩をはらって(もしくは洗い流して)終了です。

その後は、私は、ビワの葉エキス をちょんちょんと塗ったりしますが、そこはご家庭で愛用してるものを使うといいと思います(そういうものを使わなくても痒みは残りません)。

この処置は、刺されたらすぐにやるのがオススメです(肌がヒスタミンを出す前、外出先で石鹸がないときは水で流すだけでもよし)。

ブヨなど、痒みが強くでる虫の場合は、塩を2、3度すり込むのがよいです。

山ヒルにも使えます、汗(私は自然豊かなところに住んでます)。

ヒルの場合も、塩を何度かすりこみます。

ヒルの場合は、痒みはやはり多少残りますが、

石鹸洗い流し → 塩すりこみ をしたときと、しないときの痒みは、雲泥の差です。

痒みの元を残したまま、外用薬を何度も何度も上から塗布するのは、あまり意味がないな〜と長年蚊に刺されながら?生きてきて、実感しております。

これは、心の問題も同じで、心の闇部分(怒りや悲しみ)を中に閉じ込めたまま、

外から、私は私を愛してます、とか、私は最高の自分になります、のようなアファメーションを何十回、何百回繰り返しても、なかなか芯から癒されていかないのも、そういうことだと思います。

心の刺された跡も、蚊に刺された跡みたいに、ちゃんと自分の目でみれると、もっと浄化が楽だろうな〜と思います。

コスモスが目立ってきました。台風すぎたら、秋ですかね。

ーーーーー

心のうちに閉じ込めた怒りや悲しみを、コンサルテーションという会話の中で取り出して、それを自分の中から洗い流すこと、やってみませんか。

詳しくは、HPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/

あなたの直感を遮(さえぎ)るもの

先日、講座をやったのですが、久しぶりに複数の方と対面でお会いするので、着ていく服についてチラリと前日に考察しました。

(”チラリ”というのは、私は各シーズンに2, 3コーデと決めてるので選ぶの簡単)

最初にパッと思い浮かんだのは、今年さんざん着回してるノースリーブの夏バージョンの服で、よし、それにしよと思いました。

とはいえ、かなり涼しくなってきたので、明日の朝に気温を見て、もし涼しそうなら秋バージョンもありだなとも思いました。

さて、当日の朝、その日は31度まで気温があがるという天気予報でした。

だったら、最初に浮かんだ通り、夏バージョンだよね、と思ったものの…….

いやいや、待てよ、もう9月だよ、9月といえば秋を感じさせる季節、少し早くても秋バージョンの方がふさわしくないかな?!と自問が起こりました。

そうだよ、参加者さんたちは秋の装いで来てるかもしれないのに、ノースリーブで夏バリバリの格好というのはどうなのさ?!

季節感ないって思われるかもしれないよ…

と、こんな思考が湧いてきて、そうかもな、と秋バージョンの服を準備しようかと思い始めました。

そこで、ん?!と気がついて、その場でほんの1分ほど内省してみました。

夏バージョンを推してるのは、最初にパッと思い浮かんだその感覚です。

秋バージョンを推してるものって何だろう?と思考を点検してみると、

その思考の声は、

季節を考えたらフツーはこうでしょ、というどこで仕込んだか不明の判断、

参加者さんたちの(勝手にこちらが想像した)格好に合わせておいたほうがいいでしょうという調和を求める謎の誘導、

こう思われるかもしれないよ、という不安を煽(あお)る根拠のないまさに妄想、

でした笑。

ああ、危なかった、自分の直感を遮(さえぎ)るところでした汗。

ということで、スパッと夏バージョンの服を着て、車を講座会場に飛ばしました(実際は飛ばしてません…笑)。

この服選びの話を軽く講座の中で披露したら、参加者さんの中にも、やはり服選びに迷い、服をいったん秋バージョンに着替えてから、夏バージョンに戻したという方が2名いて、シンクロしてました。

”直感”という言葉の定義はいろいろあると思いますが、

心と直接つながって感じることを ”直感” と定義すると、

直感を大事にしていくというのが、自分の深いところとつながっていく生き方になると思います。

自分の深いところとつながりたいとか、本当の自分を生きたい、こんなことを望む人がどんどん増えてきてるように感じますが、

そうなるには、自分の中におきる直感に従った道を選択していくことだと思います。

上記の私の中に起きたように、

いやいや、違うでしょと直感をとどまらせて、他の道に方向転換させているのは、

社会の通念だったり、いわゆる常識と呼ばれてるものだったり、人の目だったりします。

そっちの声を聞いて、そちらの道にガイドされていけば、いわゆるそういう生き方になります。

なんとなく社会に適用してるようにみえる人、

常識的に生きてるようにみえる人、

人の判断にまかせて生きてるような人、

そちらが良いなら、それもアリ(選択は自由だから)。

でも、本当の自分を生きたいなら、自分の直感がガイドする道を歩んでいくことを意識するとよいと思います。

ちなみに、直感に従うというのと欲望に従うのは、違うことなのでご注意を。

欲望というのは(あくまで私の考えです)、

外側からの情報に刺激されて、外側からの刺激で「欲しい」と思うことです。

例えば、雑誌やYoutubeみてたら、美味しそうに食べてる映像や、素敵な盛り付けがでてきて、うわー見てたら食べたくなった、と本当にそういうものを食べたくなってくる。

これは本能として持ってる食欲を外側からの視覚情報などで刺激されて湧き上がってきたもので、直感ではなくて欲望だと私はカテゴリーしてます。

エロい画像や映像をみかけたら、モンモンとしてくる笑。
これも直感ではなくて、外側からの情報で、本能として持ってる性欲を刺激されておきた現象で欲望といえると思います。

直感は、外からの刺激で動かされたものではなく、内側から自然と起こってきた衝動です。

紛らわしいのは、たとえば、雑誌やオンラインショップをみていて欲しくなった商品であっても、

それが心の深いところとつながって欲しいと直感的に思ったものか、
情報からの刺激で欲しいと思わされているのか、これの見極めです。

直感で欲しいと思うものは、いわゆる「ピンと来た」、この言葉に表されると思います。

ピン!というのは、深いところとつながった目安になると思います。

パッと浮かんだとか、いわゆる深いところと電気回路がつながったような感覚があると思います。

外側からの刺激で欲しくなるものは、ピンとはこなくて、流されていくような受動的な感じではないかと思います。

いわゆるマルチ商法や上手なセールスで、巧みな商品説明に流されて買ってしまうようなときは、これが起きてるのではと私は思います。

ということで、なにかに迷うとき、推してるのと反対してる声の正体、それを見極めて、自分が望む道のガイドの方に従うとよいと思います。

自分の中のきらめくスパークを大事にしていくってことですかね。

ーーーーーーーー

直感を選択していきたいけれど、直感を選ぶことにどうしても抵抗がある場合、

直感を遮るエネルギーブロックがかかってると思います。

そのブロックを外すお手伝いができるかもしれません。

ピン!と来た方はHPの方をご覧ください〜:https://arnicahomeo.com/