役を降りる

仕事柄、いろんな「役」を演じてる人は多いと思います。

高級デパートの店員さんや飛行機の客室乗務員さんは、

マニュアル通りの言葉遣いと声色と笑顔で接してくれますが、私たちはその言動をその仕事柄当たり前のように受け取っています。

行政機関にいくと、それなりの市民に平等なきちんとした態度を要求してしまうし、金融機関にいけば、固いかしこまった態度をとってくれるのが当然なようにどこかで思っています。

(だから、そういう期待してる「役」を演じていない人がたまにいると、サービスが悪いと怒ってしまうこともあるのだと思います)

いずれにしろ、そういう仕事場での態度を求められてる人たちでも、仕事が終われば、その「役」を降りて「その人」に戻っていってると思います。

もしプライベートでも、社会的な「役」を演じ続けてる人がいたら、一緒にいる人や家族は心地が悪いと思います。

なぜなら、素の「その人」自身と触れ合えなくて、つながってる感覚を持てないからです。

仕事の顔というのは、社会でいつのまにか当たり前のようにできあがってきた「役」ですが、
このような「役」は家庭内にも存在しています。

料理はきちんと家事もそつなくこなす世間でいわれる良いお母さんをいつのまにか演じていたり、

何かあったらお父さんだよね、みたいな頼れる典型的なお父さんを演じていたり、

末っ子キャラでドジな(?死語)皆をなごませる役をいつのまにか演じていたり、

長女で、なんでも自分一人でできて迷惑をかけないというお姉さん役を演じていたり、

両親に不穏な空気がおきると、それを吹き飛ばすためにふざけて笑わせるお笑いの役を演じていたり、

堅苦しい家庭に新しい風を起こそうと、なにかハプニングを起こす役をいつのまにか演じていたり….etc.、

家庭によって様々な役が存在しますが、その役がいつのまにか「自分」と同化して、役を降りないままの人も多いように思います。

このような家庭内での役は仕事とは違って、

プライベートの中で割り当てられた役なので、

自分がそんな役を演じてるなんて、ましてや、

その家庭から巣立って独立した今も演じ続けてるなんて、気づかないのだと思います。

私も長いこと、演じていました。

私は長女で、父は横暴な感じで、母は父に仕(つか)えるタイプの人でした。
自分を出さずになんでも従って下にいて苦しそうな母をみて(そうみえるように母も演じていたと思います)、

私には兄がいましたが、幼少期は大人しいタイプだったので、私が家族の中では父に文句をいう、いわゆるたてつく役でした。

ブレークスルーを起こす役、被害者の代弁をするような役を演じていたのです。

私には妹もいますが、兄が悪者で妹を守るみたいなこともしていた記憶もあるので、そういう役を引き受けていたのだと思います。

そしてその役は大きくなって、実家をでて、仕事をしているときにも発揮されていました。

自分の置かれた場で、皆の不満を感じ取ったり聞き取ると、それを上にかけあう役をしていたのです。何も恐れずズバズバ言う怖い女〜(笑)

あるとき、私は自分のその「役」に気がつきました。

なぜなら、そういう役をした後に、私はいつもとても苦しいなと感じていて、

この苦しさは何だろう?とみつめていたら、

実は私自身は、皆のようにその不満自体をそこまで感じてもないのに、まるで自分のことのように権力側と対峙していたのだとわかったのでした。

しかも不満に思ってる本人たちが本当にその現状を訴えて変えようという意志があるかも定かではないのに、先走って代わりに行動を起こしていたのかもともわかったのでした(人助けでも何でもない、笑)。

ですので、その「役」から降りることにしました。

そしたら、その役を降りてすぐに、当時、親友だった子に、

「XXちゃん(←彼女が私を呼んでた呼び名)、変わったね、XXちゃんは戦わなくなったよね」と言われました。

親友だった、と書いたのは、その子とは、その後、縁がきれてしまったからです。

その親友だった子は、「戦う役」を演じてた子でした。

彼女は、いわゆるお金持ちのお嬢さまだったのですが、実際の家庭の中では、事業がうまくいかないとお父さんがお母さんにDVする家でした。

彼女は次女でしたが、暴力をふるうお父さんに「やめろー!」と果敢に立ち向かっていって、お母さんを体を張って救う役を演じていました。

私と親友になったのは、彼女からみると、私も戦う方の役を演じていて、それで私を同志のように頼もしく思っていたからなのでした。

だから上記の「戦わなくなったね」という言葉を彼女が私にかけたのは、

素のあなたに戻ったね、という優しい歓迎の言葉ではなく、戦わなくなったあなたには失望したよ、というニュアンスでした。

当時の私は、家庭内での「役」を演じ続けてるというカラクリについて彼女にうまく説明することはできませんでした。

ですので、まだ戦いつづけたい彼女と、素にもどった私とでは、波動が異なってしまって、その後、縁がきれてしまったのです。

当時、しょっちゅう飲みにいって一緒に大笑いしてた彼女、今、どうしてるかな〜……

ということで、長くなりましたが、

あなたの日常での行動、言動で、もし事後に心地よくないなと感じてるなら、

それは育った家庭内で、割り振られた・もしくは自分で選んだ「役」ではないか、

その役を今も日々、演じ続けていないか、ちょっとみつめなおしてみてはいかがでしょうか。

不要なパターンも、役もそうですけれど、

そうやって要らないものを1つづつ、剥いでいくと、自分がどんどん軽くなっていきます。

↑ 台所の窓から撮ったジョウビタキ。春になり、綺麗なさえずりをよく耳にします。かわいい。

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自分の演じてる「役」について気がついたけれど、どうやって降りたらいいのか、わからない方。

エネルギー療法でそのお手伝いができると思います。

詳しいことはHPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/

マインドフルネスの奥義

去年あたりから、瞑想の時間だけでなく、日中の生活の中でも瞑想状態を持つ、というの試しています。

これは、エックハルト・トールという方が教えてくれてるやり方で、

思考にまみれてる生活の中で、意識的に思考をストップさせる時を持つという生き方です。

(エックハルト・トールは、ドイツ生まれ、カナダ在住の ”悟った人”)

別の言い方をすると、日常の生活の中でなるべくマインドフルネスの状態でいる、ということにもなります。

自分の思考を客観的に観察してもよくわかるのですが、

人というのは、いつもなにかについて思考していて、その中身は、

ー今思い出してもどうしようもない過去のことを回想していたり(あのときXXさんにこう言われたとか、同時にそのときの感情も味わったり)、

ー未来のこと(例えば明日の用事はなんだっけとか、夕飯は何する?とか)をあれこれ想定していたり、

ー目の前の出来事に自分語りのナレーション(あのレジの人は仕事が遅いな、とかのジャッジ)をいれたりしています。

マインドフルネスでいるはずなのに、気がつけば、そんな感じで、いつのまにか思考にのっとられて、目の前のこととは全然違うことを考えていたりするものです。

以前は瞑想してる時間だけで満ち足りていたのですが、思考から離れることが日中でも実践できるのだということがわかったので、そちらにも取り組んでいます。

そしたら、先月、それは車の運転中に起こったのですが、

自分にとっては大きな気づきを得たので、記事にしたいなと思います。

生活しながら瞑想状態(思考をストップ)=マインドフルネスでいるということは、

本当の意味では何をしているのか、が、ふっとわかったのでした。

箇条書きにしてみます:

マインドフルネスでいるということは、

いま、目の前で自分に起きてる体験に、関係のない思考をはさまずに
真剣に/誠心誠意、取り組むということ

真剣/誠心誠意、取り組むというのは、その目の前の事象に自分の注意を100%向けるということ

自分の注意を100% 向けるということは、
その事象に、自分の「心を込める」「心をくだく(真心をこめる)」ということ

心を込める とは 何をしてるかというと、

自分のハートをその事象に向けて完全にオープンにしてるということ

つまり、その事象に ハートを開いて愛を向けてる、
愛というエネルギーを放射してる

ということなんだなと、気づいたのでした。

別の言葉でいうと、

その体験に ”光” をあててる、ということでもあるなとわかりました(1人で勝手に深く納得、笑)。

私が、愛しい猫たちを心を込めて撫でるとき、

私が、テニスのボールを100%真剣に追いかけてるとき、

私が、クライアントさんの話を全身傾けて聴くとき、

瞑想状態です、マインドフルネスです。

これらをしてるとき、心地いいのは、

ハートがオープンで、愛を放射してたからなんだ〜、つまり源のエネルギーとつながっていたからなんだ、ととても深く腑に落ちました。

このマインドフルネスの奥義がわかると、ただ単に思考をストップするのが目的ではなく、

生活のいろんなシーンで、この心地よさを実践していきたいという違う角度からの瞑想状態でいるためのモチベーションを持てるようになりました。

日常で、洗濯物をひろげていく行為に心をこめる、干すときにも心を込める、

鼻をかむときにも、使ったティッシュを捨てるときにも、お茶をのむときにも、髪の毛を洗うときにも、掃除をするときにも….etc.,

これをしはじめると、”雑”に物事をこなせなくなります。

早いペースではなくなり、自然とゆっくりになります。

バタバタ、ざわざわ、さっさ、パッパッとできないのです。

目の前の対象に心を込めると、優しい扱いになって、ペースが静かになります。

自分の大事なものを扱うときに、誰でもそっと触れますよね、
あんな感じで、自然と丁寧になるのです。

だから、その辺にぶつかったり、つまづいたり、物を落としたり、が減ります。

人とコミュニケーションしてるときもそうです。

特に家族には、100%で心から向き合うのは真剣な話題のときだけで、わりとテキトーに

これまで向き合ってたんだなと気づきました。

猫に心くだくように、家族にもそうしよう….(笑)。

といろんな瞬間の瞑想状態にトライしてますが、はっと気がつくと、すぐに思考が入っています。

思考の波にずーっと流されていた、という漂流時間の方が、正直完全に多いです。

マインドフルネス100とすると、できてるのは、100のうち10どころか、5とか6くらいじゃないか、いや3とか4かも、とも思います。

そのくらい、マインドフルネスでいることに慣れていないのだと思います。

でも、これ、やっていくとわかるのですが、本当に心地が良いのです。

100のうち、1でも2でも日中にマインドフルネスを味わいだしたら、もうやめられません。

なぜなら、その心の平穏さ、平和な感じを体験してる自分のほうが、本当の自分だったとわかってくるからです。

目の前の事象に、心を100%込める、愛を持って接する、とても心地よい訓練?なので、おすすめしたいです。

雪が降り積もった朝のあの全ての音が吸収されたしーんとした静かな感じ。自分の内側があんな感じになります。

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マインドフルネスになりたいけど、どうしてもなれない。

それは、その平穏な状態を邪魔するノイズがあるからです。

そのノイズは、もういらない過去の出来事や感情、未来への不安だったりします。

ノイズキャンセルをエネルギー療法でお手伝いします。

ご興味のある方は、HPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/

challenge してますか

”Challenge” という言葉が降りてきたので、

自分がこれまでの人生でやってきた「チャレンジ」について、今朝、思い巡らせてみました。

ここで書くチャレンジの定義は、

「できるかできないか予想もつかない、むしろできるとはなかなか思えないけれど、

試してみた、思いきってやってみた」ことです。

私はこれまでの人生で、海外にも1人で無防備に住みにいったし、わりと色んなことをやってきた方だとは思うけれど、

上記のチャレンジの定義に当てはまることを思い返してみたら、実はあまりやったことがないということがわかりました。

海外に行ったときは、ただ行きたいという気持ちで動いていただけなので(怖さも何もなかったから思いきりも必要なかった)チャレンジとは呼べないし、

マイナーなカテゴリーに入るホメオパスという仕事を選んだときも、できるかわからないけどやってみようというチャレンジではなく、気がついたらいつのまにかなっていたというただ起きてくる流れに乗ったような出来事だったので、自分の中ではチャレンジではありませんでした。

えー!?ちょっと、まって!ということは、私は人生であまりチャレンジしていないってこと?!と我ながら気づいて、

やれるかやれないかわからないけど、敢えてやってきたことを念入りに調べてみたら、

3つほどでてきました(良かった…..笑)。

1つ目にでてきたのは、テニスの試合にでたことです(まだこれからもでるかもですが)。

小さなコミュニティで何年もテニスをやってきた私でしたが、
少し広い世界に歩みでて自分がどれくらいできるか検討がつかない、ものすごい低レベルかもしれない、大恥かくかもしれない、それでも自分を試してみようと思って(しかもこの年齢で、汗)テニスの試合にでてみたことは、自分の中ではとても大きなチャレンジでした。

思えば、試合くらい緊張することは、私の人生では少ないと思います → つまり、緊張しない、チャレンジしようとしない自分の一面にあらためて気がつきました、笑。

2つ目に思い浮かんだのは、ボイストレーニングを始めたことです。

私は歌を歌うのが下手で、いわゆるコンプレックスでした。
そのコンプレックスに取り組むのはわりとハードル高かったけど、とりあえずやってみようと始めたのは、私にとって正真正銘チャレンジと言えます(現在も継続中、毎回レッスンで緊張して汗かきます)。

こう書いてくると、チャレンジというのは、

できなくて恥をかくかもしれない、失敗して後悔するかもしれない、自分のプライドが傷つくかもしれない、

それでもそういうエゴの痛みをも引き受けて、覚悟してやってみるってことなのかなと思いました。

3つ目に思いついたのは、移住したことです。

東京から今の姫路市の山間部に住みにきたことは、古民家暮らしも初めてなら、いわゆる村の中に入り込むのも初めてのことだし、人間関係やら暮らしやら、どうなるか全くわからないけど、とりあえずやってみようと思った、これもチャレンジだなと思いました。

とはいえ、これは私個人でのチャレンジというより、家族としてのチャレンジだと思います。

ということで、私のこれまでの人生のチャレンジで思いついたのは、上記の3つでした。

このチャレンジの数から自分のことを分析すると、

私は、ある程度予想できることしか手を出さないタイプの人だなと言えます。

予想して失敗しそうだとか、うまくいかなそうなことには、やらないようにしてきた安全圏で生きようとしていた人なのかもしれません。

もちろん、これを別の角度から言い換えるなら、自分が世間でできることがちゃんとわかっていて見通すのがうまいとかいう言い方もできますが笑。

しかし、いっけん、人生がわりとうまくいってきたように思えるとしても、

それは自分の想定内でだけ、安全圏内でやってきたとも言えますね(苦笑)。

家で、学校で、社会で、

何かをするときに助言をされることが多いです:

安全第一に。

先々のために保険を考えといた方がいい。

リスクをいつも考えなさい。

見通しが立ってやろうとしているのか。

もちろん、これらの言葉は、シチュエーションによっては大事かもしれません。

でも、安全第一すぎて、自分が失敗しない、危うい目に合わないことが、人生を生きることではないですよね。

安全でチャレンジしない人生は、違う角度からみるならば、

フルに自分のポテンシャルを発揮する機会を自分に与えていないとも言えるかなと、自分の人生を振り返りながら、思いました。

ということで、チャレンジが私に残ってる1つの課題だろうなと、新春に思いました。

なんとなく感じたのは、チャレンジすることの数を増やすより、
チャレンジすることの規模自体を大きくするほうが私には大事そう……。

2023年、あなたはのチャレンジは、どうですか。

メール相談始めました

レメディやエッセンスは特に必要ではないけれど(身体症状等がない)、


日々起こる出来事についてちょっと相談したいとか、


日々自分の中に溜めていて吐き出すことができないことを話したいとか、

そういうお悩みに対応できそうなサービスを始めました。

①メール相談

メールでお悩み等の相談を受けます。

自分一人で色々考えるより、他人の視点が入ると、物事は違ってみえてきます。

解決につながるひらめきが起こるようなやりとりができればと考えています。

往復3回までのメールのやりとりになります。

詳しくは:こちらのページへ

②1時間カウンセリング

zoomを使った1時間ジャストのカウンセリングです。

自分の中で溜め込んでるものを外にだしてもらったり、

心の中の整理をお手伝いしたり、悩みに対する違う視点を提供できたらと考えています。

詳しくは:こちらのページへ

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HPからみる場合は、こちらのページ からどうぞ。

ある方とのメールのやり取りから、これらを始めることになりました。ビリヤードの球のようにキューがつかれて動きが始まったような印象です。ということは他の球(人)にも動きが伝わるんだろうな〜

色んなこと、楽しんでいい

今朝、瞑想しててふと降りてきた見方ですが、

何か1つのことだけに全てをかける

という生き方は、1つ前の時代で終わったのかもしれないと思いました。

確かに、このところのクライアントさんたちのお話を聞いていても、

例えばある方がビジネスに秀でた才能を持っていても、それだけに集中して人生を展開していこうとは思ってはいない、そういう傾向が全体的にみえます。

そのビジネスの才能は、ご両親から譲り受けているわけですが、幼少期の体験で、親がそれに集中するあまり、家族の生活が大事にされず、子供だったご自身が寂しい思いや不足感を味わったことにより、1つのことだけで燃え尽きる生き方を選びたくないという学びが、そうさせてるように思います。

自分個人の道だけでなく、家族やプライベートでも充実した人生を選んでいく、というのが今の時代の全体的な傾向としてあるように私は思います。

アイドルは落ち目になるまで結婚しないと思っていた時代が終わり、絶頂期に結婚し家族や子供たちとの生活も大事にした木村拓哉さんがそうであるように(これが一番わかりやすい先駆者の例だと浮かんだ笑)、

テニスのバーティ(豪州の女性プレーヤー)が世界ランキング1位のときに、しかも25歳の若さで早々に引退し、別のことを始めたいと会見したように、

今の&これからの時代は、なにか1つのことだけに人生を捧げる時代ではなく、色んなことを体験したり、自分だけが何かをやり尽くして自分だけが幸せで終わらず、周りの人との関係も調和させていく、そんな時代なのではないかと思いました。

これを精神世界の言葉でいうならば、今世に、複数のことを体験するような魂のプランを持ってきてる人が多い、といえるかもしれません(転生最後の方はそうなる)。

その視点で、自分のことをみると、私もエネルギー療法という仕事についてはライフワークという感覚をもっていて大事にしてるけれど、

同時にプライベートでやってるテニスも、やりたい気持ちがなかなか減らなくて、いつまで勝ち負けのゲームやっとんねん!と時々、自分を突っ込んだりしてたけど笑、これも、私が体験したいプランの1つなんだろうなと思いました。

また自分個人のしたいことだけでなく、家族での生活も同じくらい大事にしたい、という思いも持っています。

一言でいうと、どれも楽しみたい、ということになりますが、
この記事を書きながら、自分も含め、こういう時代なんだよな、と改めて思いました。

18歳になった私の息子も、メインで学びたい専門を既に決めてますが、同時に副業でやりたいこともすでにあり(すでに「副業」というカテゴリーに入れてる笑)、さらにもう1つお金を稼ぐためにチャレンジしたいと思ってることもあるそうです。

以前は、息子のそういう話を聞くと、
1つに絞れないの?!エネルギー分散するよ….とか、
でも、まあ、そのうち、何かに絞られるかも、とか、
いや、どこかでそれらが1つにつながるときが来るかもね、

みたいに思ってましたが、
今朝のインスピレーションで降りてきた見方でみると、
彼はすでにそういう時代の子なんだよな、とわかりました。

私たちの肉体を生かしてるエネルギーが体のまわりにあるのですが、
それらのエネルギーは7つのチャクラ (出入口みたいなもの)を通して流れていて、その7つに人生を通して取り組むテーマがそれぞれあります。

それらのテーマをクリアしていくと、心身のエネルギーバランスがよく、
現実の人生自体にもバランスがとれていくわけで、
つまりは、上記に書いたような、人生のいろんなカテゴリーでもバランスのとれた、自分の充実だけではなく、まわりの人も充実する幸せな人生になるのだと思います。

ということで、

何か1つだけにかけなくてもいい(かけるのもよし)、

これ、やりたいなとか、楽しいなと感じること、

その自分の感覚に素直に従って色んな体験をするのがよいと思います。

虹の7色は、7チャクラ の色を表しています。

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7つのチャクラのテーマを学んでみたい方に、

腸内細菌レメディプログラム

というのを提供しています。

それぞれのチャクラに対応したレメディを取りながら学ぶので、
同時にそれぞれのテーマで自分が抱えてる問題(ブロック)についても
みていくことができます。

7、8ヶ月かかりますが、1通り終えると、以前とは違う自分になってると思います。

ご興味のある方は、上記のプログラム名をクリックしてみてください〜

虫刺されの処置

夏でなく秋の今頃に、このネタで恐縮です…..笑。

今朝早く、外にでて空をみていたら、台風前で湿度が高いせいなのか、思いのほか、

蚊がおりまして、足と腕など5箇所も刺されました。

蚊に刺されたときに、痒みも最小限で、刺された跡も最小限で済むと私が思っている処置を書きます(今朝もこれで、痒み等あっという間に過ぎた)。

①刺された箇所に、石鹸をつけて洗い流す

 (蚊が刺すときに出すと言われてる痒みの元の ”蚊の唾液” を洗い流す)

②流した後に、刺された場所に 塩 を摺(す)り込む

 (きゅうりの塩揉みみたいに、塩を塗り込むと水分がでます、この塩に対する反応を利用して、皮膚の少し奥にはいってる蚊の唾液を、外に出します)

しばらくしたら、塩をはらって(もしくは洗い流して)終了です。

その後は、私は、ビワの葉エキス をちょんちょんと塗ったりしますが、そこはご家庭で愛用してるものを使うといいと思います(そういうものを使わなくても痒みは残りません)。

この処置は、刺されたらすぐにやるのがオススメです(肌がヒスタミンを出す前、外出先で石鹸がないときは水で流すだけでもよし)。

ブヨなど、痒みが強くでる虫の場合は、塩を2、3度すり込むのがよいです。

山ヒルにも使えます、汗(私は自然豊かなところに住んでます)。

ヒルの場合も、塩を何度かすりこみます。

ヒルの場合は、痒みはやはり多少残りますが、

石鹸洗い流し → 塩すりこみ をしたときと、しないときの痒みは、雲泥の差です。

痒みの元を残したまま、外用薬を何度も何度も上から塗布するのは、あまり意味がないな〜と長年蚊に刺されながら?生きてきて、実感しております。

これは、心の問題も同じで、心の闇部分(怒りや悲しみ)を中に閉じ込めたまま、

外から、私は私を愛してます、とか、私は最高の自分になります、のようなアファメーションを何十回、何百回繰り返しても、なかなか芯から癒されていかないのも、そういうことだと思います。

心の刺された跡も、蚊に刺された跡みたいに、ちゃんと自分の目でみれると、もっと浄化が楽だろうな〜と思います。

コスモスが目立ってきました。台風すぎたら、秋ですかね。

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心のうちに閉じ込めた怒りや悲しみを、コンサルテーションという会話の中で取り出して、それを自分の中から洗い流すこと、やってみませんか。

詳しくは、HPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/

あなたの直感を遮(さえぎ)るもの

先日、講座をやったのですが、久しぶりに複数の方と対面でお会いするので、着ていく服についてチラリと前日に考察しました。

(”チラリ”というのは、私は各シーズンに2, 3コーデと決めてるので選ぶの簡単)

最初にパッと思い浮かんだのは、今年さんざん着回してるノースリーブの夏バージョンの服で、よし、それにしよと思いました。

とはいえ、かなり涼しくなってきたので、明日の朝に気温を見て、もし涼しそうなら秋バージョンもありだなとも思いました。

さて、当日の朝、その日は31度まで気温があがるという天気予報でした。

だったら、最初に浮かんだ通り、夏バージョンだよね、と思ったものの…….

いやいや、待てよ、もう9月だよ、9月といえば秋を感じさせる季節、少し早くても秋バージョンの方がふさわしくないかな?!と自問が起こりました。

そうだよ、参加者さんたちは秋の装いで来てるかもしれないのに、ノースリーブで夏バリバリの格好というのはどうなのさ?!

季節感ないって思われるかもしれないよ…

と、こんな思考が湧いてきて、そうかもな、と秋バージョンの服を準備しようかと思い始めました。

そこで、ん?!と気がついて、その場でほんの1分ほど内省してみました。

夏バージョンを推してるのは、最初にパッと思い浮かんだその感覚です。

秋バージョンを推してるものって何だろう?と思考を点検してみると、

その思考の声は、

季節を考えたらフツーはこうでしょ、というどこで仕込んだか不明の判断、

参加者さんたちの(勝手にこちらが想像した)格好に合わせておいたほうがいいでしょうという調和を求める謎の誘導、

こう思われるかもしれないよ、という不安を煽(あお)る根拠のないまさに妄想、

でした笑。

ああ、危なかった、自分の直感を遮(さえぎ)るところでした汗。

ということで、スパッと夏バージョンの服を着て、車を講座会場に飛ばしました(実際は飛ばしてません…笑)。

この服選びの話を軽く講座の中で披露したら、参加者さんの中にも、やはり服選びに迷い、服をいったん秋バージョンに着替えてから、夏バージョンに戻したという方が2名いて、シンクロしてました。

”直感”という言葉の定義はいろいろあると思いますが、

心と直接つながって感じることを ”直感” と定義すると、

直感を大事にしていくというのが、自分の深いところとつながっていく生き方になると思います。

自分の深いところとつながりたいとか、本当の自分を生きたい、こんなことを望む人がどんどん増えてきてるように感じますが、

そうなるには、自分の中におきる直感に従った道を選択していくことだと思います。

上記の私の中に起きたように、

いやいや、違うでしょと直感をとどまらせて、他の道に方向転換させているのは、

社会の通念だったり、いわゆる常識と呼ばれてるものだったり、人の目だったりします。

そっちの声を聞いて、そちらの道にガイドされていけば、いわゆるそういう生き方になります。

なんとなく社会に適用してるようにみえる人、

常識的に生きてるようにみえる人、

人の判断にまかせて生きてるような人、

そちらが良いなら、それもアリ(選択は自由だから)。

でも、本当の自分を生きたいなら、自分の直感がガイドする道を歩んでいくことを意識するとよいと思います。

ちなみに、直感に従うというのと欲望に従うのは、違うことなのでご注意を。

欲望というのは(あくまで私の考えです)、

外側からの情報に刺激されて、外側からの刺激で「欲しい」と思うことです。

例えば、雑誌やYoutubeみてたら、美味しそうに食べてる映像や、素敵な盛り付けがでてきて、うわー見てたら食べたくなった、と本当にそういうものを食べたくなってくる。

これは本能として持ってる食欲を外側からの視覚情報などで刺激されて湧き上がってきたもので、直感ではなくて欲望だと私はカテゴリーしてます。

エロい画像や映像をみかけたら、モンモンとしてくる笑。
これも直感ではなくて、外側からの情報で、本能として持ってる性欲を刺激されておきた現象で欲望といえると思います。

直感は、外からの刺激で動かされたものではなく、内側から自然と起こってきた衝動です。

紛らわしいのは、たとえば、雑誌やオンラインショップをみていて欲しくなった商品であっても、

それが心の深いところとつながって欲しいと直感的に思ったものか、
情報からの刺激で欲しいと思わされているのか、これの見極めです。

直感で欲しいと思うものは、いわゆる「ピンと来た」、この言葉に表されると思います。

ピン!というのは、深いところとつながった目安になると思います。

パッと浮かんだとか、いわゆる深いところと電気回路がつながったような感覚があると思います。

外側からの刺激で欲しくなるものは、ピンとはこなくて、流されていくような受動的な感じではないかと思います。

いわゆるマルチ商法や上手なセールスで、巧みな商品説明に流されて買ってしまうようなときは、これが起きてるのではと私は思います。

ということで、なにかに迷うとき、推してるのと反対してる声の正体、それを見極めて、自分が望む道のガイドの方に従うとよいと思います。

自分の中のきらめくスパークを大事にしていくってことですかね。

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直感を選択していきたいけれど、直感を選ぶことにどうしても抵抗がある場合、

直感を遮るエネルギーブロックがかかってると思います。

そのブロックを外すお手伝いができるかもしれません。

ピン!と来た方はHPの方をご覧ください〜:https://arnicahomeo.com/

親が教えてあげられること

子供の頃に、自分の親から具体的に教えてもらったことで、

親からのその教えが自分の人生でためになった、とか、

自分の人生で活かせてるもの、ありますか?

色々な方に幼少期からの話を聞いてきた私の感想でいうと、

この問いに、YESと答えられる人は、かなり少数派ではないでしょうか。

(多くの人は、今も自分で持て余してる親からの教え、例えば”人に迷惑をかけるな”みたいな方を記憶しています)

自分が親の立場で見回しても、
自分の子供に私が具体的に教えたことで、それが生きてると思えるもの、
ん〜あまり、見当たりません笑。

例えば、お片付け…. 

息子がまだ幼くて親のいうことを素直に受け入れてくれるときに、お片付けの仕方を教えて、そのときはその通りにやっていたようにみえたけど、いざ小学校に入ってみたら、全くできてない、片付けのコツを理解していない、すべてごっちゃに置いてあった汗。

それは、今年18歳になる今も、彼の机やカバンの状態をみる限り、進化していないように思います(彼なりの片付け分類にはなってるようですが)。

これはなぜかというと、私自身がそうだからです笑。

私は片付けの分類分けするのは好きなのですが、全てをすっきり片付けしてないひとなのです汗。

育児の先生たちが言われてると思いますが、

読書をする子になってほしいなら、

本を読みなさいと、直接、子供に言うよりも、

親自身が本を読んでる姿をみせなさい、ということと同じだと思います。

親と子は、子供が巣立つまで、長い時間、同じ空間で過ごします。

その長い時間に、

同じ空間でみてきた親の姿、言動&行動、

親の雰囲気、

親の感情やコミュニケーション表現は、

情景や雰囲気を伴い、リピートされるものなので、

言葉で指示される文章よりも、

子供にとっては自分の中に取り込みやすいのだと思います。

ということで、

こどもたちが人生で親から学んでいくのは、親からの言葉での教えより、

圧倒的に親の暮らし方、生き方、いわゆる ”生き様” の方にあると私は思っています。

子供が親になったとき、
自分が親にされていやだったことは自分の子供にはしないように、

親にされてよかったことはしてあげようと思うだろうし、

親にこれを教えてほしかったなという体験をした場合は、
自分の子供には、それを伝えてあげたいと思うでしょうが、

(この記事を書こうと思ったのは、まさに、この件についてメールのやり取りをしたから)

教えを効果的に浸透させるには、親であるあなた自身が、

その姿をみせているか(つまり、自分はそれを実践してみせてあげられているのか)
確認してみるとよいかもしれません。

わたしみたいに、きちんと片付けしていないのに、片付けなさい!は、

まるで効果がないし笑、

我が家は息子に自分の考えや意見ははっきりと言いなさいというようなことは教えたことはないけれど、

ご飯時などに、私とダンナさんで、こういうことがあってこう思うんだよね、と自分たちの意見をフツーに交換していたら、いつのまにか息子もそれに加わるようになっていたとか、

学んでほしいことは、そのように実践してる姿をみせるほうが、効果があると思います。

簡単にいうと、子供に親がお手本とか成功例を示す、ということになるかもですが、

親の側からみるならば、

自分はあまりできてないことを、子供にできるようになりなさい、は

自分の夢を娘にたくす昭和な?ステージママと同じようなことをしていないかと、ちょっと客観視するとよいかもしれません。

これは、こどものためになるから、といいながら、

自分ができないことを子供に実現させようとしていないか
(自分が片付けがイマイチなので、こどもにはできるようになってほしいと思ったわたしのように汗)、

それは、本当は「自分ができるようになりたいこと」「自分が成し遂げたいこと」ではないか、自問してみるといいかもです。

もし、そうであるなら、まずは親であるあなたがそれに取り組めば、子供もそれができるようになっていく可能性大だと思います。

最後に….. 親と子供は、当然のことながら、同一人物ではありません。

私がもった問題(例えば、片付け)が、子供にとっても克服したい問題であるとは限りません。

子供は子供でなにかテーマをもって、この世にいます。

ですので、親であるあなたがAの問題で苦しんだから、子供もAの問題で苦しむとは限りません。

あなたが子供に教えようと頑張ってること、それは「誰のための」レッスンなのか、

そこを見極めると、

自分の子供がこれができないと悩んだり、苦しんだりすることは、減るのではないかなと思います。

夏は「海」、「南」という私の感覚は、母方の祖母が島に住んでいて夏休みにいつも行っていたからだと思います。
私の息子はどちらかというと「北」に惹かれてるなと思います、どうやらそういう磁場が備わってるようです。

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エネルギー療法をやっています。
体の症状や、心の悩み、それを起こしてるあなたの意識やエネルギー部分に働きかけます。

ご興味のある方はHPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.com/
8月は、通常、ヒマです笑

文字通りのアンチエイジング

私は毎晩、瞑想しているのですが、最近は時間があれば朝にもするようになりました。

先日、朝の瞑想から覚めたときに

「瞑想状態って 冬眠状態と同じだ」

と気がつきました。

早速、ネットで冬眠状態について調べてみると、

冬眠状態の動物たちは、

低体温や低心拍状態になっていて、それは”代謝を低下させてる”状態だ
ということが書いてありました。

ちなみに冬眠状態については、様々な分野で研究されてるらしく、

例えば、寝たきりの方々などは体を動かせないので筋萎縮が起こり、どんどん弱っていってしまうのですが、

冬眠状態の動物には筋萎縮が起こらず、それは代謝を低下させてる状態だからで、この冬眠のメカニズムを介護や医療の方面に使えないかというようなことが考えられているようです。

瞑想とリンクしてる冬眠の情報は探せませんでしたが、

その数日後に入手して読んだ瞑想の本に(導かれた…)、

瞑想してる状態では、人によるが代謝が16-20%くらい落ちている(医療機関で瞑想中の血液中の酸素濃度を計測した)と書いてありました。

瞑想状態では代謝の低下状態になってるんだ〜、だから冬眠してるようなもんだよね、と勝手に一人で納得しました笑。

私が瞑想を始めるきっかけをつくってくれた方が、

「瞑想してるとどんどん若返るよ〜」と言っていたのは、そういうことだったのね、

と、やっとここで腑に落ちました(その方は上記のような根拠はなく、ご自身の感覚で言っていたと思います)。

ということで私の理解で言うと、瞑想してると

「若返る」のではなく、

「老いていく速度が、瞑想してる時間分(代謝が落ちるので)少しゆっくりになる」です。

いわゆる抗老化タイム、つまり文字通りのアンチエイジングになる、のだと言えると思います。

これまで瞑想いいですよ、とオススメしても、なかなか実践する人はいませんでしたが、
アンチエイジングと聞けば、きっとやる気になるのではなかろうか……!?(今朝、この話を聞いた二人がすぐにやると言ってました笑)

洞窟にこもり瞑想してた僧の過去世(男性だった)があるといわれたことがあります……今世はせまいとこ嫌いだけど(笑)


あなたは、あなたのままでいい

気分が落ち込んでいくとき、なにかの”きっかけ”があると思うんですが、

100%といってもよいくらい、それは”他人のこと”から始まるように思います。

他人からダイレクトに批判された場合、そりゃ、落ち込みます。

でも他人からダイレクトに批判される機会よりも、
自分で自分を批判していくというマゾ的な(汗)落ち込みの方が圧倒的に多いのではないでしょうか …..

例えば、今の時代はSNSというものがあるから、それで目にした他人の活躍や、他人の私生活で充実してる様子、単に他人のフォロワー数とか、いいね!の数が多いとかそのような他者との比較から、落ち込みのループが始まることが多いように思われます。

あの人、友達と楽しそう、わたしにはこういう仲間はいないな….ずーん、とか

あの人、すごく頑張ってる、素敵、えらいな〜、それにひきかえ、わたしは、何も頑張っちゃいないな…..とか

どんどん自分の評価を自分で低くしていくループの始まり(汗)。

これは、何が起きてるかというと、

自分の、自分に対する評価がぐらついている、です。

別の言い方をすると、

自分の、自分への愛が試されてるとき、

自分で自分を信じる気持ちが試されているのです。

今(SNSでみた誰かと比べて、冴えないように思える)、この瞬間の

ありのままのあなたを好きですか?

と問われているのです(自問なのですが)。

ここで、落ち込んでいくとしたら、

いいえ、わたしは、いま、この瞬間のありのままのわたしが好きではないです

と答えてるようなものです。

ですので、こういうときは、しっかりとそこに意識を持って、

いやいや、わたしは、確かに今、人と比べて、このわたしを嫌いになりそうになりましたが(汗)、わたしは、実は、わたしが意外と好きです、

と思ってあげましょう笑。

素敵にみえた他人は、素敵だなと評価するままでいい、

でも、それをみてて落ち込みそうになった自分を嫌いになることはなくて、

私は私も好きです、と思っておくのがいいです。

そうすると、落ち込みループにはまることは減ってきます(ちゃんと自分が好きだと認識していくとループ自体にはまりません)。

前の記事でも書きましたが、

私たちは、自分オリジナルの神のシナリオを歩んでいます。

たとえ、あなたがあまりパッとしない生活をしていようとも、

たとえ、あなたがたくさんの欠点や改善点を抱えていようとも、

たとえ、あなたがしたいことを成し遂げていなくても、

あなたは、ちゃんとその自分オリジナルのシナリオを歩んでいますので、

安心して、そうだ私はこれでいいんだった、と思って、

自分で、その自分をどうぞ信じてあげてください。

ちなみに、私はありのままの私でいいんだ、というとき、

何もやらなくていいんだ、

何も進化しなくていいんだ、という意味ではないです。

私たちの源はエネルギー体なので、否応なしに進化する存在です。

ですので、進化はするんです、でも、

他人のように進化しなくていいし、

他人のようなスピードで進まなくていいのです。

あなたは、あなた独自のペースで、独自の進化をしていく存在。

だから、安心して、あなたのままで、進化していけばいいのです(人生を歩んでいく)。

誰かが素晴らしい生活を手に入れてるようにみえたり、
とても素晴らしいことを成し遂げていようと、
その人もその人で、その人の神のシナリオを
その人のペースで歩んでいるだけなのです。

ですので、
あなたもあなただけの、そのシナリオを信じて、
自分が主人公のそのシナリオを存分に生きてください。

と、いうことで、他人と比較して気分が落ちそうなときは、

あ、私の私への愛が確かめられてるんだ! と気づいて、

わたしはわたしのままでいいんだ、わたしはこのわたしが好きです、

と再認識してみてください。

心地よくてたまらなくなりますよ(笑)。

追記ですが、

わたしは、何もよくできていない自分が好きとは思えないんです、みたいなことをおっしゃる方がいますが、

そういう方であっても、自分のことが好きだと思える、みつけ方があります。

日常の生活の中で、あなたが、ちょっとでもいいから気に入ってるというもの、ありますよね。

10年以上も使ってる愛用のマグカップとか、

着古しだけど、着心地の良くて捨てられないTシャツとか、

この道は、ちょっとひっそりとして好きだな、とかそういう場所なんかありませんか。

そのような人からみたら、どこが好きなの?と言われちゃいそうなもの、

パッと見はさえないけどなんとなく好きとか、そういうものや空間や場所、

それはあなたが「愛着をもってる」ものです。

人の評価や社会的な価値は関係なくて、

あなたが好きなものなのです。

そういう愛着を何かにもてているのなら、

人の評価や社会的な価値がなさそうに自分が思える「あなた自身」にも、

愛着をもてます。

長年つれそってる「あなた」というその人、愛着をもつのに十分な存在です。

夏は冷えたスパークリングに愛着のあるわたしです(注)写真はわたしではありません(苦笑)