先日本屋さんに行ったとき、ふと目に止まって買った曾野綾子さんのエッセイ本の中に書かれていた話です。
読者の男性からの投書にその男性が初めて競艇場に行った日に、その競艇場で言葉をかわした年輩の女性のことが書いてありました。
その女性はもと校長をされていたそうで、人生の最後の段階の自由の中で
「少し悪いこともしてみたくなった」そうで競艇場に1人で来ていたのだとか。
女性が1人で出かけるにはハードルが高いと思われる競艇場で、学校組織のトップにいたひとが人生の最後の方でギャンブルを楽しんでる、かなりドラマチックな設定です。
でも教師など人を教える立場にある人や、警察や消防など正しい行いをして当たり前の職業の人が、少し悪いこともしてみたくなった(競艇は悪いわけではないですが)、というのは理解できる〜と思います。
このエピソードに曾野綾子さんは涙がでそうになったらしいのですが、それを
「生涯のふくよかな完成とは、恐らくこういう境地を言うのであろう」と表現していました。
また他の言い方で、
人生には最後まで、思いがけないしなやかな発展がある(文章抜粋)、競艇場にきて初めて彼女は人生を広角度でみられたから(文章抜粋)、とも表現していました。
ゆる〜い校長さんとして生きていたら、その女性は定年してから競艇場にいくことはなかったのかなと想像したりもしますが、自分をその視点からみると、自然療法家といいながら、お酒も頻繁に飲むし、たまにジャンクなものも食べますし、blogではわかったようなことを書きながらも感情的にもなったりするので、その校長さんが現役人生で貫いたであろう正しき姿勢は決して私には達し得ない境地だなと感嘆もします。
ただ、そういいながら、
あの人いつもきちんとしてるね〜 とか
よく出来た人だね とか すごくいい人だね とか
あの人は素晴らしい人だ
みたいな褒め言葉が自分の耳に入るようになったら要注意だと思ってるところが私にはあります。
他人が賞賛してそれが自分の耳に入るってことは、そういう良い面の片側ばかりが強調され過ぎてる状態(それが目立つから自分の耳にまで入る)と思ったりするわけです。
それはつまり自分が良い面を人様に向けて発信しすぎなんじゃないか、ムリしてるんじゃないかと思うんです。
そうなると、人から賞賛される姿を守らないといけない状態や期待を作り出してしまうことになるから、あっぶな〜と思うわけです。
もと校長の女性のように、長年かけて人生の最後に自分のバランスを取り戻すというのもあり、そしてそれはそれで心を打たれますが、
あの人はまあまあいいね とか、実はなかなかいいとこある みたいに”ひそかに”思ってるもらえるくらいの姿勢で生きられたら、それはかなり良い状態ではないかと思います。
こう思うのは、ただ単にいつも少し悪いことをするのを自分が正当化したいだけ?!(汗)
↑ 裏庭にうえた西洋なしの木に初めて実がなりました。この1個だけ!です、あら〜。
果物はまんまるだったり、細長かったりしますが、西洋なしは上下がアシメトリなのがアートだなと思います。