その日は、朝からなんだか変な感じでした。
イライラするようなあせるような落ち着かない気持で、洗濯物を干しながら、なんでこんな気持なんだろうと自問しました。
えっと、今日やることはこれとこれ、なんだ全然あせるようなこともないじゃない、なんで私の気持はこんなにざわざわしてるんだろう….?!
その日は仕事で少し遠くまで車で行ったのですが、行きも帰りもなんだか障害が多く、普段にないパターンで無理に割り込まれたり、変な運転をする車が前にいたり、ぼおっとして駐車券にスタンプ忘れて(割引になる)正規の駐車料金払うことになったり…
仕事は内容は良かったのだけれど、時間をうまく使えなくてオーバーしすぎて、初めて会議室代の追加料金を請求されたのもその日でした。
あー、なんか今日はおかしな日だな…そんな思いで帰宅したら、だんなさんもなんだか似たような日だったらしい。
暑い日が続くし、自分をはじめ、皆がちょっとリズムを崩したり、変な気持になったりするのかな、と暑さのせいにしてみました。
そしたら夕方になって、隣のおばあちゃん=Mさんがその日に亡くなったと知らされました。
ガーン(嘆)!
そうか、Mさんんがいなくなったんだ、だから、こんな日だったんだ….、変な解釈かもしれないけど、そう考えるのが一番しっくりきました。
以前にもご近所のおじいさんが亡くなって、数日後にそこのわんちゃんが亡くなったときに同じことを感じたんですが、人がこの世からいなくなるときに、その人のそこにあったエネルギーがなくなると、眼に見えないけど保たれてたバランスが崩れるような感覚があります。
これは都会に住んでるときには感じたことはなかったです。あまりにも多くの人が生まれたり亡くなったりしているから、感じられなかったのか?!
Mさんですが、以前にBlog記事にも書いたんですが彼女は今年94才で、一人暮らしをしていて、畑で野菜まで作ってるおばあちゃんでした。腰はまがっているけど、ちゃんと会話もできて、身体だけでなく気持もしゃんとしてる人で、髪も綺麗に櫛が通してありこぎれいにしている人でした。
身体のリハビリで週に2回ほどセンターには行くけれど、誰の介護も受けないで(お子さんやお孫さんが少し離れたところに住んでいて時々家に寄る)、1人で当たり前のように暮らしていることに感嘆してました。
亡くなる二日前でしたが、
Mさんは、自らはしごをかけて雨樋の不具合を直すために屋根に昇ろうとしてました.…(無謀)はしごに昇ろうとしたMさんをみたうちのダンナさんがあわててとめて代わりに昇ってましたが。
亡くなる一日前には移動販売車で食物を買ってたMさん、端数の小銭をきちんと数えて支払っていました。
最後まで普通の日常を暮らし、誰の手をわずらわせることなく、ぽっくりと?この世を去られたわけです。本当に健康な方の人生の最後というのは、こういうふうになるんじゃないでしょうか。
Mさんのいなくなったあの日が私にとってなんだか変なバランスの日であったこと、見えないけれど人は周りにいろんな影響を及ぼしてる存在なんだと感覚的に悟りました。
Mさん、今まで、いろいろありがとうございました。ご冥福をお祈りします。