思春期の世代に向けた、でも面白くて読んでしまうような
”人生について教える本” はないかと探していたら、
よしもとばななさんの
「おとなになるってどんなこと?」(ちくまプリマー新書)
という本が目にとまりました。
早速入手して読んでみると、思春期よりも20代くらいの生きづらい若者が読んだ方がいいかもしれないという感想を持ったのですが(実際、こどもだけでなくそういう世代に向けても発信されてる)、中に紹介したい箇所がありましたので、ここに勝手に書かせていただきます。
「死んだらどうなるんだろう?」っていう問いに答える章なんですが、ばななさんのお母様についてこんなことが書いてありました。(以下斜字部分抜粋です)
私と母は決して仲良しではなかったんです。
もちろん嫌っていたわけではないんだけれど、相性が悪かったというか、距離のある関係でした。
母はとにかく姉が好きで、最初から最後まで姉っ子(?)でした。
ばななさんのお母様は最後のあたりは少しボケていたらしいのですが、その頃は3分に1回くらいの割合で「お姉ちゃんはどこ?」と言っていたらしく、ばななさんは切ないなあ、と思ったそうです、確かにせつないです…
でもばななさんは感情的にはならなくて、お姉さんはお母さんとの関係を長年真摯に作ってきたし、自分はお母さんから逃げてばかりいたので、そうなったのは当然だと思ったそうです。
お母様が亡くなる最後のほうで、お姉さんが外出されたときがあり、お母様が暑くて汗をかいていたので、ばななさんが水を飲ませたり汗をふいたりお世話していたら、その暑さに耐えられなかったのかお母様が
「なんとかして」
と言われたそうです。
どんなときでも「なんとかして」、と人に言う人だったらしいです。
そしてこう思ったそうです。
私はふいに「これ以上は愛せないな」と思ったんです。
今持っているこの気持ち以上には愛せない、それが私の限界だ。
たとえば母を抱き上げて、自分の家に運んで、どうしても自分が看病したい、そういうふうには思えないかもしれないな、そういう関係ではなかったな、そんな淋しい気持ちでした。
私は心の中で、お母さん、ごめんなさい、と思いました。
生んでくれてありがとう、身体が弱いのに精一杯育ててくれてありがとう。ここまでしかできなくて、ごめんなさい。
実際にはこれがお母様との最後の日ではなかったそうですが、ばななさんにとってはこのときがお母様との別れの日だった、と後で感じたそうです。
自分の母に対する愛の限界点みたいなものをはっきりと自覚する、というのは1つの大人になるってことかもしれないと、私は読んでいて思ったのでした。別の言葉でいうと、目の前の親を「母」としてではなく、「1人の人間」としてみれる点に達したということかなと。
親だから、母だから、愛さなきゃ、愛されなきゃ、といった思い込みは多いのかもしれません。それで罪悪感を持っている人もいるくらい。
ホメオパシー療法にかかる人でも、心の問題をさぐっていくと母との問題にぶつかる人は本当に多いです。母子というのはそのくらい特別な関係だと思いますが、それぞれの母子にそれぞれの適切な境界線があるので、それをみつけていくのも大人になるってことかもしれません。
私自身に関しても母との問題をクリアにするのには長くかかりました。ホメオパシー療法を受けて、いろいろなことが解消されて、最終的に(もしくは現時点では)母と私の間の適切な距離はものすご〜く離れているものだとわかりました。それに気づいて、そして自らその距離を設定してからが、私は本当の意味で大人になったのかもしれません。
エネルギーの観点からみても、それは親の波動の影響から抜けでるということでもあるかもしれなくて、そうしたら自分の波動で生きれるってことなのかもしれないです。
男女の関係での距離は計りやすい、身体の関係がもてるかとか、いて居心地がいいとか、友人関係もそうです。でも親子、兄弟となると冷静になれなくて、理想の暖かい愛の関係を望んでしまう。
もし自分が母をあまり好きではないとしたら、いつまでも母側からだけ無償の愛を望むのはアンフェアとも言えるかも。
まわりの人を見渡しても、「心からまるごと愛せる母」を持っている人って、実は非常に少ないのかもしれません。
でも、そういう母のもとに自分が生まれなかったとしても、自分がそういう母になることはできる。子供がいない人でも飼っている動物や植物、まわりの人々に愛を注ぐことはできる。
もらう方からあげる方になるのも、大人になるということかもしれないです。
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親の影響から抜け出せない方、ホメオパシー療法が助けになるかもしれません。
興味のある方はHPの方へどうぞ:https://arnicahomeo.wordpress.com