昨日、ある女性が作ったお野菜を頂きました(二度目です)。
彼女の作った野菜は、私にはぴかぴかしてみえます。不思議なものが見える力は全くない私ですが、ぴかぴかという形容が自然とでてくるほど、彼女の作った野菜はかがやいてます。
なぜかわからないのですが、畑でとれたての新鮮野菜だから、ではない、なにかが違う感じがあります。
昨日いただいた中には黒豆の枝豆があったのですが、食べて思わず声がでました
「うわ、なにこれ!」 甘いんです。
目をつぶって口にいれたら、”これ、とうもろこし?”と思えるような野菜特有の甘み。しっかりと噛みごたえがある厚みがあって、噛みしめるとじゅっと甘みがでてきます。こんな味の枝豆は大げさでなく生まれて初めて食べました。
う、うますぎる(涎)。
枝豆をもりもりつまみながら、どうやってこのようなものが作られたんだろうと思いを巡らせました。品種やら気象条件だけでない、特別な手間を感じます。
この野菜達に、どれだけ愛情=エネルギーが注がれたんだろうか….そういう観点でみると、この方は様々なことにご自分の愛情を注いでいるんだろうと想像できました。まるで自分の子供に愛情を注ぐみたいに。
そそぐ愛情が大きすぎて、その方自身が疲弊している可能性もあるだろうな、とも推測できました。
”女性は子供のためだからと自分を犠牲にしないように” というような言葉は、よく言われますし、雑誌や本なんかでもみかけます。自分の人生を生きることはとても大事ですが、でもそこには2種あると私は思ってます。
1つは「お母さんはあなた達のために」というような言葉を使って子供に恩を着せたり、犠牲という文字をちらつかせて子供をコントロールするような母で、心が伴わないのに無理に自分を犠牲にして(いるような道を実は自らが選択して)いるパターン。
もう1種は、心からの愛情を持って、無意識に滅私的に(私利私欲はなく)子供を育てているパターン。
そういえば江原啓之さんがどこかでこんなことを言っていて印象に残っています(言葉は正確じゃないです):
親が自己犠牲をしているから、子供が輝くことができる
自己犠牲がないと子供の輝きはでてこない
これはもちろん上で書いた2種めのパターンの親のことです。
こんなことを考えていたら、リリーフランキーさんの書いた「東京タワー」にでてくる彼のお母さんを連想しました。
リリー氏のお母さんは、まさにそういう滅私的なお母さんで、どうしようもない怠惰な息子に愛情を注いで尽くして尽くして(周りの人にもたくさんの思いやりをあげて)、最後には、小さく小さくなって亡くなりました。
まるで自分の与えられるエネルギーを全て注いであげた後のように。このオカンの死ぬあたりの場面は、今思い出しても涙がにじみます(読んだときは、号泣でした)。
自分の愛情、エネルギーを他の人(こどもを含む)に与え尽くして人生を終える、なんて尊い行為だろうと思いました。
そんなことまで考えて目を潤ませながら、目の前の”尊い”野菜をバクバク食べて、ついつい赤ワインを3杯も頂いてしまいました(コラーッ!)。
苦しい自己犠牲を自らに課して暮らしている方。もっと違う生き方を選択できるお手伝いができるかもしれません。ご興味のある方はホメオパシー療法のHPを御覧ください:https://arnicahomeo.wordpress.com